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大村の城シリーズ 伊勢山城(いせやまじょう)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  伊勢山城(いせやまじょう)
(2)別名  伊勢山の古城
(3)所在地  大村市中里町(なかざとまち) 
(4)築城年代  (詳細は不明) 戦国時代
(5)形式・特徴  山城 
(6)城主など  不明
(7)現状(遺構)  土塁、切岸、曲輪など
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記
(9)土地や管理など  私有地

(10)補足、感想など
  伊勢山城は、江戸時代の(大村)郷村記に記述されているが、大村藩領絵図の方には描かれていない。先の(大村)郷村記には、「伊勢山の古城」として書いてあるが、この編さん当時から天和年間(1681〜1683年)の古記録を引用する形で記述している。そのため、城跡の存在や概要の規模は当然分かるが、詳細な城紹介内容ではない。

 また、毎回この「大村の城シリーズ」で近代・現代の参考書籍類を紹介しているが、例えば『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)、『新編 大村市史・中巻』(大村市史編さん委員会、2014年3月31日発行)、『大村の歴史』(大村市教育委員会、2003年3月31日発行)などにも書いていない。

 その理由は、私が推測するに先の天和年間(1681〜1683年)の古記録を記述した以降、誰も現代まで詳細な調査されず=詳細記述もないのと、地元でも場所や城遺構など具体的な伝承さえもなかったためと思われる。そのような長期間、城遺構が分からなかったが、伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文の調査後しばらくして、2015年1月20日に数回、山を探索したところ私が見つけた。

 城跡のある通称「伊勢山」は、伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文の上部の山林で、地形は尾根伝いである。位置関係は、国道34号線にある県営バス停「日焼」から北東方向へ400m強、岸高城から東へ300m弱で、諫早市と大村市との境付近から西へ300m弱である。

 伊勢山城は、全体自然の地形をうまく使って築城してある。遺構としては、土塁、切岸、曲輪などがある。ただし、雨水や風雪により、先の城遺構も一部分で崩れてもいるが、戦国時代以降は、ずっと山林だったためか城だったことは確認できる。

 あと、大村領と諫早領との境界線近くの大村側にあるので極普通に考えれば、大村側が築城したと思われる。しかし、何分にも詳細な古記録がないため、諫早側が造った可能性も完全否定はできないと考える。また、岸高城からとの距離が、300m弱しかないため、二つの城の関係(役割分担)などが問われるが、それは今後の研究テーマとも思える。


1)伊勢山城を紹介するにあたって
 私は、この「大村の城シリーズ(目次ページ)」で、各城を紹介する場合、古記録があれば江戸時代の(大村)郷村記もしくは大村藩領絵図から、近代・現代の書籍類ならば『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)などから、必ず引用・参照しています。

 しかし、この伊勢山城は、後の項目で紹介しています(大村)郷村記に記述はありますが、近代・現代の書籍類、例えば『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行、2012年版)、『新編 大村市史・中巻』(大村市史編さん委員会、2014年3月31日発行)、『大村の歴史』(大村市教育委員会、2003年3月31日発行)などには、書いてありません。

 なお、(大村)郷村記の記述は、天和年間(1681〜1683年)の古記録を書き写したもので、編纂時に再度一から城跡を調べて書いたものではありません。そのため、「伊勢山の古城」として概要は書いてありますが、内容は詳細なものではなく、また存在場所も分かりにくいものでした。そのため、今まで発見できなかった城跡だったと思われます。

写真1:中央部の山林が(通称)伊勢山、この最上部の奥に伊勢山城はある
(中央部左端側が伊勢山大神宮の境内跡。右下側、農道奥が参道入口=伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文のある石垣)
写真2:中央部の山林が(通称)伊勢山(北側から撮影)
写真3:中央部から周辺部が伊勢山城の主郭(本丸)
写真4:主郭(本丸)より北側の切岸(右上側が主郭のある所)

 つまり、(大村)郷村記の内容を参照しつつも、その場所探しから始めなければならなかったということです。そして、発見すれば自ら城跡の遺構や規模などを調査、計測しなければ紹介文は書けないということでもありました。

 以上のことから、これまでの各城紹介ページとは、かなり違った内容になっていることは、あらかじめご了承願います。また、城遺構の紹介内容は、「北部九州中近世城郭研究会」会員の大野安生氏にアドバイスを頂き、上野が文章は作成したものです。さらに、当面の間、私の描いた城の概要図も掲載しますので、参考程度に、ご覧下さらないでしょうか。

写真の説明
 この項目、右側上から1番目と2番目写真を分けて説明します。場所は、いずれも、大村市中里町(なかざとまち)です。撮影年月日は、上側が2014年12月3日、2番目は2015年1月25日です。

 写真1:
この写真は、(通称)伊勢山と呼ばれている山の西側にある小高い市道近くの空き地から撮影したものです。写真中央部左端側に伊勢山大神宮跡の境内跡(現在は空き地)があります。そして、右下側方向に参道跡を下ると、両脇に石垣のある場所が参道跡の入口です。

ここの手前側に、農道が見えています。先の石垣の右側(南東側)に、「伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文」があります。そして、この写真から見れば、(通称)伊勢山の最上部(奥側)に伊勢山城跡があります。

 写真2:この写真は、(通称)伊勢山を北側から撮影したものです。写真に見えている山林の最上部が、伊勢山城跡の主郭(本丸)に当たる所です。そして、写真右側(西側)方向が副郭(二の丸)となります。

伊勢山城跡は、東西約80m、南北約35mの長さがあります。山容は、けっして急峻と言う山ではありませんが、一番低い平地の所から登るならば、かなりキツクも感じます。

2)伊勢山城と大村郷村記の記述
 大村藩が江戸時代に編さんした(大村)郷村記の鈴田村の古城蹟之事の項目に、次の「 」内(太字)のことが記述されています。ただし、昔の難しい漢字やパソコン変換できない文字は、それに似た文字に上野の方で変えています。

 あと、原文は縦書きの続き文ですが、横書きに直し、見やすいように一部空白(スペース)を挿入し、改行もしています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。

 「 一 伊勢山の古城 天和の舊記に、古松権現より寅卯の方八町程の處にあり、廻リ三町程、城の構へ東西三拾問、南北拾間、畝歩にして壹段程とあり、今小松繁茂、廣狭間數不詳 」

現代語訳
 先の大村郷村記を現代語訳すると、次の青色文字の< >内通りです。なお、( )内は、上野の注釈や補足です。また、(大村)郷村記は、「伊勢山の古城」(伊勢山城)の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

  <一つ、伊勢山の古城(伊勢山城のこと)>  天和(天和年間=1681〜1683年)の古記録によれば、古松権現(現在の鈴田大神宮)より北方へ827mほどの所にある。(城址の)周囲は327mほど、城の構えは東西約54m、南北約18m、(城址の敷地)面積は992平方メートルと書いてある。今は小さな松が繁っていて、広さ・狭さ・面積などの詳細は分からない。>


・大村郷村記の解釈補足など
 (大村)郷村記の現代語訳、冒頭部分の「天和(天和年間=1681〜1683年)の古記録によれば」でもお分かりの通り、江戸時代後期に編さんされた(大村)郷村記それ自体が先の古記録から引用形式で記述されています。つまり、伊勢山城項目のある「鈴田村」の郷村記を記述された役人(たぶんに地元・鈴田村の武士)自ら、改めて伊勢山城を発見したり、再計測してはいないと思われます。

 さらに、私の推測を続けると、その当時から伊勢山城跡と直ぐに分からないくらい自然(山林)と同化していたのでしょう。また、城遺構を記述する場合、重要な大きさについても、「広さ・狭さ・面積などの詳細は分からない」とまで書いてありますので、既に天和年間当時も概要規模さえ判別や詳細調査が難しかったとも想像されます。

 そのような状態で江戸時代後期になって、新たに見つけて再計測するよりも、「天和年間(1681〜1683年)の古記録」から引用した方が正確だと、郷村記を記述された役人は判断されたのかもしれません。また、城跡と言えば、けっこう大きな遺構ですが、天和年間以降、地元でも場所などについて分からなかったため、伝承もなかったのでしょう。

 天和年間と言えば、現在からさかのぼれば約330年前です。その長期間、城遺構がさらに自然(山林)と同化して、誰にも分からない状態だったとも思われます。そのような中、伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文の調査後しばらくして、2015年1月20日に私が見つけて、改めて(大村)郷村記の「鈴田村の古城蹟之事」項目にある「伊勢山の古城」と確認できたものです。

3)伊勢山城の概略図
 はじめに、下記右側の画像が、伊勢山城跡の概略図です。念のため、この概略図は城跡全体のイメージ図として、私が作成しました。ですから、正確な縄張図に比べたら、全体も細部も当然違っています。あくまでも、この概略図は、参考程度に閲覧願います。あと、黒色の線は切岸、茶色線は土塁、緑色の線は曲輪を表しています。ただし、線の幅と実際の場所(幅)とは、大きく違いがありますので、ご了承願います。

 この概略図は、伊勢山城跡を2015年1月20日に発見後の間もない1月24日に急ぎ作成したものです。そのため、同年春に縄張図を作成された方のような本格的調査ではないので、例えば東西(左右)の端側などは、かなり状況が違っています。

 また、主郭(本丸、黄色部分)、副郭(二の丸、グレー部分)、切岸(黒い線)などは、ほぼ全体の雰囲気は同じですが、細部まで見ますと、少し違っています。

 あと、主郭(本丸、黄色部分)と副郭(二の丸、グレー部分)をあえて色分けしていますので、かなり、その差を強調した表現に見えます。しかし、それらの境目にある段差は(戦国時代当時は別としても)現在「あー、段差が少しあるなあ」と分かる程度です。

 主郭副郭の地面についてです。上から3番目写真でも分かりやすいですが、主郭(黄色部分)部分の地面は、ほぼ真っ平です。それに比べ、副郭(グレー)部分は西側へ下った緩やかな傾斜面が最後まで続いています。

  この地面状況からして、私の推測ながら主郭部分には、規模の大小は別としても建物があったと思われます。逆に、傾斜面続きの副郭部分の地面には、建物はなかったかもしれません。仮にあったとしても現在の普通車1台の車庫の大きさもあったか、どうか疑わしいくらいだったでしょう。

 なお、この概略図でも主郭副郭全体に切岸土塁曲輪などが施されていることが、分かりやすいと思われます。それらは、今では自然に溶け込んだような城跡なっていますが、これらのことが、この城跡の特徴とも言えるでしょう。(このことは、後の項目でも触れる予定です)

縄張図


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



初回掲載日:2015年2月11日、第2次掲載日:12月25日、第3次掲載日:12月29日、第4次掲載日:12月30日、第5次掲載日:2016年1月1日、第6次掲載日:1月27日、第7次掲載日:1月 日、第8次掲載日:1月 日、第9次掲載日:1月 日、第10次掲載日:1月 日

参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

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