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大村の城シリーズ 坂口館(さかぐち やかた)(大村純忠終焉の居館跡)
記 述 項 目 
( 主 な 内 容 な ど ) 
(1)名称  坂口館(さかぐち やかた)
(2)別名  (現代の史跡名称)大村純忠終焉の居館跡、大村純忠史跡公園
(3)所在地  大村市荒瀬町1116 <字「坂口(さかぐち)」>
(4)築城年代  (詳細は不明) 
(5)形式・特徴  武家屋敷
(6)城主など  大村純忠の隠居生活時が一般に有名だが、その前も後も他の武士が住んでいた 
(7)現状(遺構)  「舘の川(たちのかわ)」と呼ばれている泉があり、周辺全体が現在、大村純忠史跡公園である
(8)歴史(大村郷村記、大村藩領絵図など)  (大村)郷村記、萱瀬村の「古館蹟・・・」の項目に記載がある
(9)土地や管理など  大村純忠史跡公園

(10)補足、感想など
 <坂口館の情報などについて>  始めにお断りを書く。坂口館も「大村の城シリーズ」内に入れて編集しているが、城とか砦ではなく平地にある武家屋敷である。

戦国・江戸時代に何かの形で城や砦として存在したならば、必ずと言ってよいほど江戸時代に編纂された大村藩領絵図(大村)郷村記に「・・城跡」とか「・・の古城」みたいな表現を使って載っている。しかし、この坂口館は、(大村)郷村記の「城跡」や「古城」項目にはなく、わざわざ特別に「古館蹟之事附菴の川清水之事」と言う項目を用いて紹介してある。「古館蹟」つまり古い屋敷跡と言う項目での内容である。

また、先の「川清水」との表現にもある通り、この屋敷跡の山側には、どんな干ばつ時でもコンコンと湧き出ている「舘の川
(たちのかわ)」と言う清水(泉)があり、この名称は大昔からあるのではないかと思われる。この泉周辺部には平石が敷き詰められていて武家屋敷の面影が今もわずかながらも残っている。

あと、一般には大村純忠の終焉の地として有名であるため、純忠が最初から住んでいた屋敷みたいな先入観があるが、そうではなく元々は別の武士の館であった。純忠は佐賀の龍造寺の圧迫を受けていたので、第一線を退き、ここで隠居生活をしていたと言うのが事実である。この純忠が隠居する前も、その後死去した後も別の武士が住んでいた記録が、(大村)郷村記に書いてある。

なお、この場所は、現在、大村純忠終焉の居館跡、大村純忠史跡公園として整備されている。その工事前に発掘作業も実施され、次の<>内名称の調査報告書がある。<坂口館跡 歴史公園整備事業に伴う発掘調査 大村市文化財調査報告 第22集(大村市教育委員会、1998年3月発行)



1)坂口館を紹介するにあたって
 この坂口館について、江戸時代の大村藩領絵図には屋敷名称が描いてなく、(大村)郷村記には、「古館蹟之事附菴の川清水之事」の項目で記述されています。大村純忠が居住していた関係上、近代になって郷土史の先生方が、この坂口館について書かれている書籍類は多いです。そのような中で分かりやすいのは、『大村市の文化財』(大村市教育委員会発行)なので、次に紹介します。

坂口館(現在、大村純忠史跡公園、大村市荒瀬町)

坂口館が紹介されている書籍
  『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の122ページに、次の<>内のことが書いてあります。
  < 大村純忠終焉の居館跡  ここは、坂口館とも呼ばれ、屋敷の広さや居館跡は不明ですが、古くは大村家の重臣で庄頼甫( しょうよりすけ)の屋敷だったといわれます。のちに龍造寺隆信の圧迫を 受け、領主の座を退いた大村純忠が晩年に隠居した所です。 純忠は日本で最初のキリシタン大名となり、洗礼名をドン・バルトロメオといい敬けんなキリスト教信徒でした。

  坂口館で病とたたかいながらも、ひたすら信仰の生活を送っていましたが、天正15年(1587)55歳の生涯を閉じました。横瀬浦や長崎の開港・キリスト教への入信と布教・遣欧使節の派遣・宿命的な近隣諸国との争いなど、純忠の一生は波乱に満ちたものでした。待ちにまっ た少年使節の帰国の姿も目にすることなく、この世を去ったのです。

 坂口館には、「館(たち)の川」と呼ばれ、どんな干ばつの時にも枯れることがない清い流れがありました。また、庭園の泉水となり年中きれいな水が湧き出ていました。周囲の景観は変わりましたが、清らかな水の流れと苔むした石組にわずかに昔をしのぶことができます。 現在は、この庭園跡を中心に整備され、大村純忠史跡公園となっています。


2)坂口館と大村郷村記
 坂口館が(大村)郷村記に記述されている項目は、大村郷村記第二巻246ページの「古館蹟之事附菴の川清水之事」に記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。下記「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。

館の川(坂口館=現・大村純忠史跡公園、大村市荒瀬町)<この泉はどんな干ばつ時でも枯れることはないと言う。泉、石畳や石垣などの庭園に当時の武家屋敷がしのばれる>

 また、2行になっている部分は( )内に書いています。なお、見やすくするため文章の区切りと思えるところに空白(スペース)を入れたり改行もしています。ですから、あくまでも、ご参考程度にご覧になり、引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。

  「  一 坂ロ古舘  坂口大門の内にあり、今に舘屋敷と云ふ、往古庄野頼甫居屋鋪のよし、其後純忠 (民部大輔法名理專)隠居所を構螢し、遊興の地となす (天正十五年純忠此舘に於て卒す、春秋五十五、葬法性寺) 後右馬之助敏武後室(喜前息女)居住す、

此奮跡に舘の川と云清水あり、古への泉水の跡なりと云ふ、又是より申酉の方に當り三拾間程の庭に、篭の川の清水とて無双 の名水あり、如何なる旱魅といへとも増減なく、其 清冷なる事此類なし 

 此屋鋪跡に今武藤恒五郎住す、是先租同姓彌太左衛門代、後右馬之助敏武母儀の由緒に依て、此舘屋鋪を以て永代の屋鋪に賜はるなり、以後代々爰に居住す 」


現代語訳
 上記太文字の大村郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、坂口館の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。あと下記には、(注)や補足なども書いています。

大村純忠史跡公園(大村市荒瀬町<右端側が長崎自動車道。坂口館は当時この高速道路下周辺も含めてにあったと推測される。写真奥側が石垣、泉、庭石などがある場所>

 < 坂口古館(坂口にある古い屋敷)  坂口の(字の大門)大きな門(注1)の内側にあって、(ここを)今では舘(たち)屋敷と言う。大昔、「庄野頼甫」(注2)の居た屋敷とのこことである。その後、(大村)純忠(民部大輔、法名(注3)は理專)が隠居所として建物をかまえ遊興の地とした。天正15(1587)年(大村)純忠は、この館で死去した。年齢は55歳で法性寺で葬られた。後右馬之助敏武の後妻(大村喜前(注4)の娘)が居住した。

 この場所は、舘(たち)の川と言う清水(泉)がある。古くからの泉水の跡と言う。また、これより西南西の方角54mほどの庭に篭(かご)の川と言う清水(湧き水)があって他に二つとない名水である。いかなる干ばつ時でも増減がなく、また、清くて冷たい(澄んでいる)ことは比べるものがない(くらいに良い)。

 この屋敷跡に今は、武藤恒五郎が住んでいる。この人の祖先は同姓で(武藤)彌太左衛門の時代に、後右馬之助敏武の母との由緒(親戚か何かかの繋がり)があったので、この舘屋敷を永代(長い年月)の屋敷として賜わったものである。以後、代々(子孫は)ここに居住した。 >

(注2)=この大門は地名の字(あざ)”大門”の表現もある。また、「大門の内にあり」との文章の流れからして江戸時代当時、屋敷の門とも思われる。もしかしたら、この付近に”大きな門”があったのだろう。坂口周辺は当時の竹松村などから行く場合、萱瀬村の入り口でもあった。
(注2)=「庄野頼甫」の名前は他の古記録になく間違いで、『大村市の文化財』内容の通り、正確には庄頼甫( しょう よりすけ)と思われる。
(注3)=法名(ほうみょう)とは「仏門に入って出家受戒のときに授けられる名。戒名」のことで、大村純忠は理專と名乗っていた。
(注4)=大村喜前は大村純忠の長男で大村藩初代藩主である。


補足:上記の大村郷村記及びその現代語訳は、あくまでも江戸時代当時の坂口館周辺を紹介してあります。当時の屋敷は現在の高速道路の真下周辺も含めたものであって、今見る大村純忠史跡公園(庭や泉など)がある周辺とイメージが一緒と思わないように願います。当時の敷地自体も現在の公園規模と違っていたと思われます。

3)坂口館および坂口周辺の変遷
 既に先の項目に坂口館の歴史なども書きましたが、この項目では分かりやすくまとめようと思いました。坂口館とその周辺の変遷が書いてある書籍として、『1973 創立百年記念誌 大村市立萱瀬小学校』(1974年2月22日、創立百年記念誌編集員会・発行)があります。その中で、「坂口館跡(荒瀬郷)」(48〜49ページ、河野忠博氏が執筆)項目があり、これを参照(他の書籍類も含む)引用しながら、坂口館に関係する人物の変遷や坂口周辺地域の移り変わりを極簡単に下表にまとめてみました。表ですから文字数制限上、簡略化していますので参考にされる方は、原本からご覧願います。

坂口館および坂口周辺の変遷
 
主な年代や当時の状況
家主(居住者)名 や周辺状況
補足など 
1
 文明年間初頭(1470年)  庄氏一族の居館  (武士居住) 
2
 文明年間後半頃から  大村家の隠居所  (同上)  
3
 天正13(1585)〜天正15(1587)年5月18日  大村純忠の隠居所(54歳の時、この館で死去)  (同上) 
4
 天正15(1587)年以降(場所は庵の川附近)  大村右馬助敏武の未亡人  -
5
 明治末から大正初め(坂口館周辺)  萱瀬杉の搬出で坂口周辺に各店が出来た  -
6
 戦時中、県道の開通  坂口館の原型がなくなる  -
7
 1969(昭和44)年12月  大村市文化財史跡「坂口館跡」として指定  -
8
 1990年、この周辺の長崎自動車道開通  (高速道の真下にも館跡があったので原型は確認できない)  -
9
 1998年11月1日(開園式典とオープン日)  大村純忠史跡公園として整備され開園した  -

 上表の通り、この坂口館及び坂口周辺地域は、かなりの変遷があったことが分かります。特に、(戦後しばらくしてからの時期と推測されますが)先の創立百年記念誌(49ページ)には、次の「」内のことが書いてあります。「(前略) 数十年前までは山陰の冷泉に猛暑季涼を求める客で賑わい、茶店も並ぶ程であったが、泉の東側を石材山として掘削され、環境が変わり荒廃して無残となった。 (後略)」

  このことから分かるのは、戦後しばらしくしてからも色々と変化はあったものの、坂口館の敷地原型の少しは、とどめていたのかもしれません。その後、高速道路・長崎自動車道<1982(昭和57)年11月17日大村〜多良見間が開通、1990(平成2)年1月26日大村〜武雄北方間が開通>の何年か前に、この坂口周辺工事によって、坂口館の屋敷跡原型が完全に無くなったと思われます。

 あと、この屋敷跡の描かれた絵図や古地図などもないので、全くの推測・想像をするしかないですが、大村家・大村純忠の隠居所に相応しい、かなり規模の大きい屋敷だったと思われます。今は、山近くの「舘の川(たちのかわ)」と言う清水(泉)と周辺にある石垣、石畳だけが、当時をしのばせるものと言えます。

まとめ
 この坂口館は、戦闘用の城とか砦ではなく、あくまでも生活用(しかも大村家の隠居用として使用された)(武家屋敷)です。ただし、ここよりも規模の大きい城や砦よりも、有名でもあります。それは、大村市の指定史跡とか大村純忠史跡公園になっているからでしょう。とりわけ、居住期間は短期間でしたが、戦国時代の稀有の生き方を送り(現在では全国的にも有名な)大村純忠の隠居所、最後の地というのが最も影響を与えていると思われます。

館の川(坂口館=現・大村純忠史跡公園、大村市荒瀬町)<この泉はどんな干ばつ時でも枯れることはないと言う。泉、石畳や石垣などの庭園に当時の武家屋敷がしのばれる>

 ただし、私は、この坂口館紹介ページを書いていくとき、やや書きにくいところもありました。この大村の城シリーズ(目次ページ)は、そのタイトル通り、城、砦、館(武家屋敷)などを紹介しているものです。私の個人的な見方ながら、今まで掲載してきました城や砦は、それなりに一種のイメージみたいなものがあるのですが、今回の館とか屋敷みたいなものは何を決め手に、どうだったのかと、なかなか表現しにくいと言うのが正直なところです。

 戦国時代あるいは江戸時代含めて坂口館の見取り図、絵図あるいは屋敷の形状や規模などが記述された詳細史料などがあれば、もう少し違った書き方もしてみたかったなあと率直に思ってもいます。ただし、いくら無いモノねだりしても、それは叶わないことですから、今までの書籍類を引用・参照しながら書いてきました。

 この大村の城シリーズ(目次ページ)で毎回のように掲載してきました大村藩領絵図、地図の概要図(または縄張り図)なども今回載せていません。それは、坂口館あるいは屋敷規模について、私が把握できていないからです。大村市内の旧家ならば、現在でも敷地面積が300〜500坪くらいの家は多いです。もちろん、それ以上もありますが。

 この坂口館は、江戸時代や戦国時代の武家屋敷、しかも大村家と関係しているのですから、敷地1,000坪あるいは数千坪くらいはあったのではと、勝手に推測しています。さらに想像たくましく考えれば北側からならば今の国道444号線沿い、大村純忠史跡公園、高速道路の下、さらには荒瀬郵便局周辺まで、かなり広かったのではとも思われます。

 先に述べた通り、様々な工事によって、旧来の屋敷跡を判断するのは難しい状況です。最後になりますが、この坂口館紹介ページについては、また何か追加するような事柄があれば、このページへの補足、改訂もしていきたいと考えています。

初回原稿掲載:2013年3月9日、第2次掲載:2013年3月11日、第3次掲載:2013年3月12日、第4次掲載:2013年3月14日、第5次掲載:2013年3月18日、第6次掲載:2013年3月19日
参考文献、書籍一覧表 城関係用語集

「大村の歴史」もくじ


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