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大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ  深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)  


 深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ) 
深澤儀太夫勝清   大村の歴史上 最大の功労者
               
九州の鯨取りの草分け、私財で公共事業をおこなった人

後世の人からも尊敬の続く人

 まず、大村には、過去から現在まで数多くの偉人・有名人・活躍人がおられます。ただし、深澤儀太夫勝清ほど、多くの人から尊敬を集め、その功績が亡くなって350年以上経った今でも生活・農業あるいは観光などに直接役立っている人はいません。

 特に、私財を投じて造られた野岳湖(野岳大ため池、野岳大堤)との関係か深い郡地区(松原・福重・竹松地区)では、尊敬と親しみを込めて「ぎだいゆうさん」「ぎだいゆう先生」「深澤先生」などと呼んでいます。また、その大きな功績(遺徳)を讃えて、毎年春には野岳湖畔に関係者が集まり、「義太夫祭り」が開催されています。

 なお、ここで「義太夫」の呼び名についてですが、野岳湖のある地元中の地元である松原地区・東野岳町あるいは野岳町、さらには福重地区の100%の人が子どもの頃から「ぎだいゆうさん」とか「ぎだいゆう先生」と呼称してきました。

 しかし、大村市ホームページや書籍類などには、「ぎだゆう」との表記もあります。生前、本人が自ら、どう呼んでいたのか私の力量では確かめようがありません。この紹介ページでは、地元の呼び方優先で「儀太夫ぎだいゆう」との呼称で統一して書いていきます。

深澤儀太夫勝清の分かりやすい紹介文について
 下記の点線内の青文字は、「大村市の文化財」(3訂正版、2013年3月13日発行。大村市教育委員会)より引用して書いています。この本の96ページに「深澤儀太夫の墓」という標題で、深澤儀太夫について簡潔で分かりやすい紹介文が書いてありますので、今回ご紹介いたします。
 :ホームページ上、改行や送り仮名など一部分を変え、さらに小学生のために、原文以上に付けている。
 注:墓碑や家紋などの写真は上野が写したものである。
 注:下段の「一部の用語解説」は、上野が分かりやすくするために書いた。素人の解説などで、あくまでもご参考までに閲覧願いたい。
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深澤儀太夫の墓
 深澤儀太夫勝清
(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)は武雄の潮見城主(しおみじょうしゅ)渋江(しぶえ)氏の一族として生まれ、波佐見(はさみ)の中尾(なかお)に移り住み、当時の名を中尾次郎左衛門(なかお じろうざえもん)といいました。

 30歳の頃、武者修行
(むしゃしゅぎょう)の旅に出かけ、紀州(和歌山県)の太地浦(たいじうら)の鯨捕り(くじらとり)に魅(み)せられ、 早速(さっそく)鯨捕りの技術を学びました。3年後帰郷(ききょう)し、藩庁(はんちょう)に願って鯨組(くじらぐみ)を作り九州の鯨捕り の草分けとなりました。鯨(くじら)は捨てるところが無いほど利用でき、一頭で莫大(ばくだい)な利益(りえき)が上 がりました。その頃、九州近海は鯨の宝庫(ほうこ)で、毎年豊漁(ほうりょう)が続き、義太夫はまたたくまに大金持ちとなり、全国でも指折りの長者(ちょうじゃ)となりました。

 彼が偉大
(いだい)だったことは、その金を社会のために役立てたことです。神社や寺院の新築や修復、新田や多くの堤(つつみ)を造りました。その中で最大の事業が野岳湖(のだけこ)の造成(ぞうせい)でした。このような功績(こうせき)から、藩主(はんしゅ)から深澤姓(ふかざわ せい)を賜り(たまわり)義太夫(ぎだいゆう)と改名(かいめ)しました。

 また、本町に広大な屋敷
(やしき)を構え(かまえ)、その屋敷が大村宿の本陣(ほんじん)に使われました。 儀太夫の墓は、郷村記(ごうそんき)によると前船津(まえふなつ)にありましたが、後に建て直され、長安寺(ちょうあんじ)に建てられています。
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一部の用語解説
 (1) 深澤儀太夫の「」や「」は、現在どちらとも使われている。なお、江戸時代の(大村)郷村記には「深澤儀太夫」との表記もあるので、その当時は、この「」の方が使われていたと推測される。なお、「儀太夫」という名称は、深澤勝清が北部九州で初めて鯨とりをおこなったことから深澤家だけに許された敬称語ともいわれている。また、「太夫」の呼称は、芝居興行の責任者(一座の「太夫」)と、ほぼ同じで、鯨とりの場合、何百名の漁民で共同してつくる「鯨組(くじらぐみ)」の(かしら)とか指導者(リーダー)と同意語と思われる。

 (2) 長者(ちょうじゃ)について、一般には「大金持ち」のことを指す。江戸時代当時、「鯨一頭で七浦潤う(クジラ1とうで 7うら うるおう)」との言葉が伝わっている。この言葉は、普通に考えれば「鯨1頭で7つの漁村が潤う」みたいな意味と解釈できる。しかし、この場合では、(当時)もっと広い産業を潤していたと推測される。

 つまり、鯨で生計している、例えば直接的に鯨をとる漁民をはじめ、その肉、皮、背びれ、油の取り扱い者、骨を装飾品などへ加工する人、さらには仲買い、仲卸や販売業者など、本当に多くの人の収入増になったと推測される。その結果、鯨とりの頭(かしら)である深澤家は、長者(ちょうじゃ)になったと思われる。

 また、一説には、深澤家は、様々な公共事業の功績や、大村のお殿様よりも大金持ちで、そのため、深澤家の家紋升形(ますがた)を賜ったという。つまり、「枡いっぱいに金貨が入っている」という意味である。

 (3) 深澤家の公共事業について、上記の通り、深澤家は長者=大金持ちではあったが、自らは質素倹約に努めた。例えば沢山の溜池(ためいけ)の造成をはじめ神社仏閣の新設や修復、江戸の大村藩邸など、今でいう「公共工事」に使ったといわれている。

深澤儀太夫勝清の関係写真と説明文
 下記は上野が、深澤儀太夫の肖像画(複写版)を始め、深澤家に関係している遺品などを所蔵されてる関係各位の許可を得て撮影した写真と、その説明文である。そして、これをパワーポイント版にして、一例として「2019年1月22日、福重小学校4年生へ、深澤儀太夫の講話(概要紹介)とか、「2020年1月21日、松原小学校の先生方への講話」などに活用した。

 なお、下記の右側列は、写真である。左側列は、その写真一つひとつの説明文である。遺品のネームプレート以外は、上野が補足、あるいは推定も含めた紹介文である。そのため、あくまでも参考程度に閲覧願いたい。また、表の色分けは分かりやすくしているだけで、何の意味もない。

写真の名称と、その説明文 写真
(写真A):深澤儀太夫の肖像画(複写版の一部分)
・原版の所蔵場所:大村市歴史資料館
・絵の内容:原版も同様と思われるが、実物は(床の間に飾る掛け軸と同じような)巻物に描かれている。
・原版と複写版の違い:当然、絵の内容(姿形)そのものは、両方とも同じである。あと、複写版の方がデジタル彩色処理(加工)されているようで、まるで江戸時代に描いた当時そのままのような明るく、彩色も鮮やかである。

・複写版の撮影:上野は複写版を「2013年4月17日、儀太夫祭り」の時に主催者の許可を得て、肖像画の全体や一部分を撮影した。そして、子ども達にも分かりやすくするために深澤儀太夫の人物中心にトリミングしている。
・目測による肖像画(複写版、絵のみ)の大きさ:絵の部分のみの目測ながらが高さが百数十cm、横幅が50cm強くらいではないかと推測した。(注:正確には必ず原版の再調査が必要である)
(写真B):深澤儀太夫勝清の陣笠(表面裏面)
 まず、次の用語解説と、右側写真(上下)2枚写真をを参照願う。 <用語解説 陣笠(じんがさ)<デジタル大辞泉より>1 室町時代以後、陣中で主として足軽 ・雑兵(ぞうひょう )などが用いた笠。薄い鉄、または革で作り、漆を塗って、兜かぶとの代用としたもの。後世は外縁を反らせた塗り笠で、武士の外出に用いた。
・名称:深澤儀太夫勝清の陣笠(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ の じんがさ)
・所蔵場所:儀太夫会館
・大きさ:目測で直径35cm位か?(注:計測はしていない)
・材料:正確には不明だが皮製品(かわせいひん)か?
・姿形:右側写真通りで、表面全体は黒漆(くろうるし)塗り。(かさ)の端が少し反り返った(ふち)がある。正面には大村藩主(はんしゅ) =殿様(とのさま)から賜った(たまわった)家紋(かもん)形紋様(ますがた もんよう)が、朱色(しゅいろ)で塗られている。(注:この家紋については後の項目を参照) 下級武士の陣笠より高級のように見える。
 
 裏面全体は黒漆に金色の模様(もよう)が塗られている。着用時に顎(あご)にかける朱色の太い紐(ひも)が付いている。
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<感想>
 私は撮影時に、この陣笠を持ち上げた。初めて見た時には、黒色なので少し重たいのかと思っていた。しかし、持ってみると、ふわっとするくらい軽かった。それは当然のことで外出時には、現在の帽子(ぼうし)と同じで頭にかぶるので、重いと適(てき)さない。この陣笠を見ると、儀太夫が外出していた江戸時代当時の格好(かっこう)を想像(そうぞう)した。 
深澤儀太夫の陣笠、表面
深澤儀太夫の陣笠、裏面


(写真C):深澤家由来の書類箱
・名称:深澤家由来の書類箱(ふかざわけ ゆらい の しょるいばこ)
・所蔵場所:儀太夫会館
・大きさ:目測ながら高さ30cm位、横幅25cm位、奥行35cm位か?(注:計測はしていないので正確ではない)
・材料:木製と思われる。色々な金具なども付いている。
・状態:正面中央部の模様は右手に小槌(こづち)を上方向に持ち、左の肩に袋を担(かつ)ぎ、米俵(こめだわら)の上に座っている格好の七福神の大黒様である。この扉(とびら)を開けた時には奥に3段の長細い木箱がある。たぶん書類などが入っていたのであろう。これら以外にも扉を開閉するヒンジ(金具)、箱上部には取っ手などもついている。ただし、相当使われ、さらには古くなったためか。各部分に傷みがある。
 ただし、推測ながら江戸時代の造りと思われが、その当時ならば趣向を凝らした、高級感もあった書類箱だったかもしれない。
(写真D):深澤家の家紋・枡形紋(金升紋)
名称:深澤の家紋、升形紋(金升紋)
(ふかざわけ の かもん、ますがたもん、きんます)
・所蔵場所:儀太夫会館(注意:複製品である)
・大きさ:目測で一辺約60cm四方か?(注:計測はしていない)
・材料:正確には不明。
・形:右側写真通り。この会館所蔵の金升紋(複製品)は下地の黒色系の上に金色の升紋(升形紋)や金文字が施されている。金色の文字は右側から読み「深澤」である。文字種は、いわゆる「招き文字」で作られている。

この家紋(金升紋)の由緒(ゆいしょ)について
 一説には、深澤家は鯨取りによって大村のお殿様よりも大金持ちであったという。また、大村藩などへ、様々な援助も公共事業もおこなった。そのような功績も含めて、時の大村藩主から、深澤家の家紋の升形紋を賜ったという。この紋の意味は、「升いっぱいに金貨が入っている」ことという。
  (写真の説明文は準備中。しばらく、お待ち下さい)

  (この写真は準備中。しばらく、お待ち下さい)


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参考文献・書籍類一覧表 「大村の歴史」もくじ


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