大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ | 深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ) |
深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ) |
深澤儀太夫勝清 大村の歴史上 最大の功労者 九州の鯨取りの草分け、私財で公共事業をおこなった人 後世の人からも尊敬の続く人 まず、大村には、過去から現在まで数多くの偉人・有名人・活躍人がおられます。ただし、深澤儀太夫勝清ほど、多くの人から尊敬を集め、その功績が亡くなって350年以上経った今でも生活・農業あるいは観光などに直接役立っている人はいません。 特に、私財を投じて造られた野岳湖(野岳大ため池、野岳大堤)との関係か深い郡地区(松原・福重・竹松地区)では、尊敬と親しみを込めて「ぎだいゆうさん」「ぎだいゆう先生」「深澤先生」などと呼んでいます。また、その大きな功績(遺徳)を讃えて、毎年春には野岳湖畔に関係者が集まり、「義太夫祭り」が開催されています。 なお、ここで「義太夫」の呼び名についてですが、野岳湖のある地元中の地元である松原地区・東野岳町あるいは野岳町、さらには福重地区の100%の人が子どもの頃から「ぎだいゆうさん」とか「ぎだいゆう先生」と呼称してきました。 しかし、大村市ホームページや書籍類などには、「ぎだゆう」との表記もあります。生前、本人が自ら、どう呼んでいたのか私の力量では確かめようがありません。この紹介ページでは、地元の呼び方優先で「儀太夫=ぎだいゆう」との呼称で統一して書いていきます。 深澤儀太夫勝清の極簡単な略歴 ・生まれ---1584(天正12)年、武雄、 ・死去---1663(寛文3)年3月17日、 ・享年---80歳 ・育ち---波佐見の中尾へ移り住む(当時の名前は中尾次郎座衛門) ・武者修行---30歳の頃から3年間ほど、紀州(現在の和歌山県)太地浦(たいじうら、現在の太地町)で鯨捕りを学ぶ ・帰郷後---大村藩に鯨組(捕鯨の)許可を願い出て西九州の近海を中心に鯨を捕る ・鯨捕りで得た巨万の富を野岳大堤(野岳湖)を始め沢山の公共工事をおこなう ・藩主の大村氏より深澤(ふかざわ)姓を賜り、深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)と改名 深澤儀太夫勝清がおこなった公共事業(概略紹介) 深澤儀太夫勝清がおこなった(現代風用語で)公共事業は、その数が多過ぎて全部を調べ切れていません。そのため、下記の太文字項目を中心に閲覧願います。なお、この項目、「大村史話」の中巻(大村史談会・発行)、大村市東野岳町にある儀太夫記念館の掲示物あるいは東彼杵町の三井木場堤(ため池)近くの観光案内板などを参照して書いてます。また、分かりやすいように上野の方で補足などもしています。そのため参考程度に閲覧して頂き、もしも引用される方は、必ず先の原本、掲示物や案内板からお願いします。 <ため池関係>----(1) 野岳大堤(野岳湖)(大村市東野岳町)と新田開発(野岳町) ・資金:小判4,200両 、 ・建設期間:1661(寛文元年)8月から1661(寛文3)年3月3日竣工(本人は完成を見届けるかのように1661(寛文3)年3月17にちに死去した) (注:野岳湖(野岳大ため池)は「全国ため池百選」に選ばれている) 、貯水量が約120万トン(県内最大)、新田開発などで約100ヘクタールの田畑に水を供給。 (2) 平床堤(ひらとこ つつみ)(大村市松原3丁目) 、(3) 三井木場堤(みいこば つつみ)東彼杵町平仁田郷 <寺関係>----(1) 円融寺の創建、 (2) 長安寺の本堂・石塀・鐘関係、(3) 宝円寺の堂 <本陣関係>-----(1) 大村の本陣の敷地と建物 <大村藩関係>-----(1) 最新式の鉄砲、(2) 軍用金(資金)、(3) 江戸の藩邸 深澤儀太夫勝清の分かりやすい紹介文について 下記の点線内の青文字は、「大村市の文化財」(3訂正版、2013年3月13日発行。大村市教育委員会)より引用して書いています。この本の96ページに「深澤儀太夫の墓」という標題で、深澤儀太夫について簡潔で分かりやすい紹介文が書いてありますので、今回ご紹介いたします。 注:ホームページ上、改行や送り仮名など一部分を変え、さらに小学生のために、原文以上に付けている。 注:墓碑や家紋などの写真は上野が写したものである。 注:下段の「一部の用語解説」は、上野が分かりやすくするために書いた。素人の解説などで、あくまでもご参考までに閲覧願いたい。 ----------・・・----------・・・----------・・・ 深澤儀太夫の墓 深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)は武雄の潮見城主(しおみじょうしゅ)渋江(しぶえ)氏の一族として生まれ、波佐見(はさみ)の中尾(なかお)に移り住み、当時の名を中尾次郎左衛門(なかお じろうざえもん)といいました。 30歳の頃、武者修行(むしゃしゅぎょう)の旅に出かけ、紀州(和歌山県)の太地浦(たいじうら)の鯨捕り(くじらとり)に魅(み)せられ、 早速(さっそく)鯨捕りの技術を学びました。3年後帰郷(ききょう)し、藩庁(はんちょう)に願って鯨組(くじらぐみ)を作り九州の鯨捕り の草分けとなりました。鯨(くじら)は捨てるところが無いほど利用でき、一頭で莫大(ばくだい)な利益(りえき)が上 がりました。その頃、九州近海は鯨の宝庫(ほうこ)で、毎年豊漁(ほうりょう)が続き、義太夫はまたたくまに大金持ちとなり、全国でも指折りの長者(ちょうじゃ)となりました。 彼が偉大(いだい)だったことは、その金を社会のために役立てたことです。神社や寺院の新築や修復、新田や多くの堤(つつみ)を造りました。その中で最大の事業が野岳湖(のだけこ)の造成(ぞうせい)でした。このような功績(こうせき)から、藩主(はんしゅ)から深澤姓(ふかざわ せい)を賜り(たまわり)義太夫(ぎだいゆう)と改名(かいめ)しました。 また、本町に広大な屋敷(やしき)を構え(かまえ)、その屋敷が大村宿の本陣(ほんじん)に使われました。 儀太夫の墓は、郷村記(ごうそんき)によると前船津(まえふなつ)にありましたが、後に建て直され、長安寺(ちょうあんじ)に建てられています。 ----------・・・----------・・・----------・・・ 一部の用語解説 (1) 深澤儀太夫の「 (2) 長者(ちょうじゃ)について、一般には「大金持ち」のことを指す。江戸時代当時、「鯨一頭で七浦潤う(クジラ1とうで 7うら うるおう)」との言葉が伝わっている。この言葉は、普通に考えれば「鯨1頭で7つの漁村が潤う」みたいな意味と解釈できる。しかし、この場合では、(当時)もっと広い産業を潤していたと推測される。 つまり、鯨で生計している、例えば直接的に鯨をとる漁民をはじめ、その肉、皮、背びれ、油の取り扱い者、骨を装飾品などへ加工する人、さらには仲買い、仲卸や販売業者など、本当に多くの人の収入増になったと推測される。その結果、鯨とりの頭(かしら)である深澤家は、長者(ちょうじゃ)になったと思われる。 また、一説には、深澤家は、様々な公共事業の功績や、大村のお殿様よりも大金持ちで、そのため、深澤家の家紋は升形(ますがた)を賜ったという。つまり、「枡いっぱいに金貨が入っている」という意味である。 (3) 深澤家の公共事業について、上記の通り、深澤家は長者=大金持ちではあったが、自らは質素倹約に努めた。例えば沢山の溜池(ためいけ)の造成をはじめ神社仏閣の新設や修復、江戸の大村藩邸など、今でいう「公共工事」に使ったといわれている。 深澤儀太夫勝清の関係写真と説明文 下記は上野が、深澤儀太夫の肖像画(複写版)を始め、深澤家に関係している遺品などを所蔵されてる関係各位の許可を得て撮影した写真と、その説明文である。そして、これをパワーポイント版にして、一例として「2019年1月22日、福重小学校4年生へ、深澤儀太夫の講話(概要紹介)」とか、「2020年1月21日、松原小学校の先生方への講話」などに活用した。 なお、下記の右側列は、写真である。左側列は、その写真一つひとつの説明文である。遺品のネームプレート以外は、上野が補足、あるいは推定も含めた紹介文である。そのため、あくまでも参考程度に閲覧願いたい。また、表の色分けは分かりやすくしているだけで、何の意味もない。 |
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