松原小学校での歴史講話(概要報告)
日時:2020年1月21日15時40分〜16時30分、参加:11名
場所:大村市立 松原小学校・校長室
講話:上野
講話の3テーマ
1)松原小学校の歴史(明治時代初期など)
2)松原出身や関係ある人(偉人・有名人・活躍人)
3)松原地域の特徴と史跡
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1)松原小学校の歴史(明治時代初期など)
・1872(明治5)8月2日、太政官令、学制の発布
・福重村・松原村共同で福重小学校として1872(明治5)年8月に創立
・児童数:8名。
・大村市内で最初の小学校で最古の公立小学校(県内でも同様か?)
・場所:旧・寿古郷(現在の寿古町) 今、記念碑あり。
なぜ、福重小学校は公立小学校で大村最古なのか?
明治以前、大村の教育は藩校(五教館)と、私塾(福重村にも井手塾)があった。 ただし、塾は不安定だった。そのようなことから、大村で早期に小学校が創設された当時の松原村・福重村・鈴田村・竹松村などは、常設の公立小学校が待たれていた。
明治4年には文部省が設置(学制に向けて調査・研究。口頭で「学校つくれ」?)されたことも大きなことで、京都などは小学校を造りはじめたといわれている。ただし、他の県は学校建設が進まず、そのようなことから法律をつくることになった。
1872(明治5)8月2日、太政官令、学制の発布(全国を8大学区、256中学区、5万3760小学区など)された。この法律は、学制とか一般には「国民皆学の教育法」などと呼ばれ、近代日本の最初の「教育法」である。 太政官令の出た同じ月に小学校を共同で創設した福重村・松原村は、その前から準備していたのではないか? なぜなら、学校設置には様々な条件(下記項目参照)や、諸準備が必要だったろう。
(上野説で) 学校の5大条件
(1)予算(お金)、(2)先生、(3)児童、(4)校舎、(5)教科書(当初は掛図式)や、諸用具(算盤、石板など)
<写真の紹介と説明:掛図式の授業、掛図、石盤(石板)など>
太政官令は、「約5万4千校の小学校をつくろう」など、壮大な構想は良かったが、地元負担=父兄の授業料や市町村の負担が大きく反発もあった。そのようなこともあり、次の新たな法律をつくらざるを得なかった。
松原小学校、1873(明治6)年10月7日に分離独立し開校
寿古郷(現・寿古町)にあった福重小学校は子どもの足では遠いし、当時は松原も福重と変わらぬくらいの人口もいたと推測されるので(下記の通り)松原小学校の分離・独立の機運や準備が進んでいた。
・年月日:1873年10月7日、福重小から分離、独立し、松原小学校として開校
・児童数:48名
・校長:松添仁兵衛 氏
・場所:松原村、旧庄屋を校舎とした(現在地である)
<写真の紹介と説明:松原村の庄屋・見取り図(これが松原小学校の前身) 、 江戸時代から残る石垣(右側が旧・長崎街道)>
旧・長崎街道に面した松原小学校の長い石垣は、江戸時代の庄屋からあったといわれている。また、石垣が空いた所=現・学校正門がある場所は、元は庄屋の入口だったと思われる。
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2)松原出身や関係ある人(偉人・有名人・活躍人)
松原はたくさんの偉人。有名人・活躍人がいらっしゃるが、今回は絞って5名(家族)を、まず列挙したい。
(1)山口東渓先生(本名:山口次郎平)----近代の大村教育界において先駆者的役割
(2)田崎家 、 (3)M口家
両家いずれも真珠業で財をなし、地域に多額の寄付
(4)川添氏 (ラッキータクシーの創始者、後でグループ会社)
(5)深澤儀太夫勝清(ふかざわ ぎだいゆう かつきよ)
深澤家三代---捕鯨で財をなし、多額の寄付で公共事業などおこなった
(1) 山口東渓先生
”近代の大村教育界で先駆者的役割”をされた方と思う。
*誕生年:天保10(1839)年
*出身地:松原村(現・松原地区)
*養子前の名前:岩永次郎平(いわなが じろうべい)
*本名(養子後の名前):山口次郎平
*号:山口凍渓(やまぐち とうけい)
*当時(江戸〜明治時代の住所:福重村庄屋=後年、福重村役場近くの)山口家へ、岩永家から養嗣子に来られた
*学業:大村藩校の五教館で学び、その後、幕府直轄だった江戸の昌平黌(しょうへいこう)を卒業
*教職:五教館、旧・大村中学校(現・大村高校)の教師や、玖島小学校(現・大村小学校の前身) の校長を歴任 <大村小学校・校長室には初代校長の写真がある>
*「凍渓先生の碑」が、門弟によって建立(元は福重の山口家にあったが現在は大村小学校にある) 当時としては、大変立派な先生の記念碑である
(2) 田崎家、 (3)M口家
両家は真珠業で財をなし、松原小と松原地区に多額の寄付
一例:八幡神社の改築、金次郎像の建立、プールの新設、図書室の全面改修、多数桜の苗木など (注:他にも松原地区や松原小学校などへ、沢山の寄付や贈呈がある)
(4) 川添氏
川添福一氏はラッキータクシー創業<その後、グループ会社(社員数500名:2017年4月現在)へ発展>
(5)深澤儀太夫勝清、深澤家三代
“大村の歴史上 最大の功労者 九州の鯨取りの草分け、私財で公共事業をおこなった人“
・(深澤儀太夫勝清が築堤した)野岳湖(野岳大堤、野岳大ため池)は農業、観光、スポーツなどで県内外から親しまれている
・毎年春に遺徳(約350年前)を讃えて義太夫祭り開催(350年間も称賛、顕彰されている方は長崎県内でも唯一、もしくは数少ない人と思う)
<写真の紹介と説明:深澤儀太夫(肖像画=掛け軸の一部)、野岳湖の築堤、長安寺の修理、大村宿・本陣の建設>など>
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3)松原地域の特徴と史跡
<1、松原地域の特徴>(名所旧跡は除く)
(1) 相撲が盛ん
(一例:江戸時代の相撲取りの墓、松原おくんちの相撲大会、松原小・児童は相撲が強い、地区住民は相撲に詳しいなど)
(2) 鍛冶屋が盛ん(元々は刀。今は包丁・刃物・農機具)
(3) 真珠業が盛んだった
(4) 松原おこしが有名<兵児葉寿司(へこはずし)おこし>
大村を代表する銘菓<延宝7年(1679年)の創業>
(5) 今は、松原そばも、松原地区を売り出し中
(6) 長崎街道松原宿の活用、寺子屋塾など有名
<写真の紹介と説明:「相撲が盛ん」 「真珠業が盛んだった」 「松原おこしが有名」 「松原そばが有名」 「長崎街道・松原宿のひな祭り、寺子屋塾」 「寺子屋塾」で松原小の児童」>
<2、松原地区の史跡一例>(詳細は、ガイドマップ参照)
松原のガイドマップに紹介してある史跡は分かりやすく、私も直接案内できる。次に機会あれば史跡の講話も、ご案内もしたい。
<写真の紹介と説明:「旧石器時代(1万3千年前)の野岳遺跡」 「紫雲山延命寺(大村最古の仏教寺院跡」 「野岳湖(貯水量で県下で一番大きい)」
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<質疑応答>
Q1:鹿島(しかのしま)に忠魂碑があることは知っているが、弁財天もあるのか?
A1:弁財天はある。「福重ホームページ」の『鹿島』ページにも、その弁財天について書いている。
Q2:この鹿島には、古墳もあったのか?
A2:申し訳ない。鹿島に古墳があった件について、私は知らないので後で調べたい。(この島は現在、陸続きだが元々は離れた島だった)
Q3:相撲取りの墓もあるが、これは有名な人か?
A3:私は、その墓の横にある史跡説明板の内容しか知らない。江戸時代の相撲取りなので現在の国技館でも有名というほどではないと思われる。このような相撲取りの墓まであるので、いかに松原が相撲が盛んか良く分かるような気がする。松原小・児童が相撲に強いのは、松原の地域DNAみたいなものであろう。
Q4:(配布の冊子)「福重のあゆみ(小学生版の第2版)」は、大変立派だ。福重のことが中心に書いてはあるが市内全体のテキストしても使える内容だ。この本が作られたきっかけは何だったのか?
A4:「福重のあゆみ」(第一版・大人版は2003年3月1日発行、執筆者:増元義雄氏)は、当時の大村市地域再発見事業の一つとして発行された。その後、第2版の大人・中学生版とか、小学生版も発行された。そして、その小学生版が福重小学校で地域学習を習い始める学年に毎年配布されていて、既に第3版となっている。
この小学生版は文字が大きく、見やすくなっているので、逆に大人に人気である。第3版の校正と年表の追加文などは上野が編集を担当した。 あと、私は、これをサンプルにして、昨年2019年10月1日に大村市教育委員会・学校教育課に文書で市内各学校別(校区や地区別)の「地域学習テキスト」作成の要望書を提出したのだが。(その詳細は省略)
Q5:松原小の児童推移表を見れば「児童数が400名」の時もあった。松原地区全体も人口が多かった理由は何か?
A5:現在の人口でいえば松原は2000人位、福重地区が4000人位だ。(児童数もそれに比例して違う) しかし、私が福重小学校に通っていた60年前頃は、松原小も福重小も児童数は変わらなかった。当時、松原は農業だけでなく例えば漁業、真珠、鍛冶屋、商店や工業関係も盛んだったため、人口も福重と変わらないくらいだったのではないか。(あるいは多かったくらいだ) また、松原八幡神社のおくんちなどの時には、当時、松原駅から松原小学校近くまで出店(屋台)が並ぶほどだった。
<上野の感想とお礼>
松原小学校の先生方への講話は初めてでしたが、熱心に聞いて頂きました。また、校長先生からは、過分のお言葉まで賜り、大変ありがとうございました。松原は、「長崎県一の・・・・」とか、「大村市内で一番の・・・」とかの史跡も、いくつもあります。また、松原小学校は、福重小学校のように1891(明治24)年に郡川の氾濫(水害)に遭っていないので、明治時代の古い記録もあり、学校の歴史を調べる場合、貴重な史料です。これを機に色々と調べたいこともありますので、今後とも皆様、ご指導ご鞭撻をお願いいたします。
(以上)
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