最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村の史跡説明板・案内板シリーズ (紫雲山)延命寺跡

(史跡案内門柱・説明板)(紫雲山)延命寺跡
 名称:(紫雲山)延命寺跡  様式:案内標柱、説明板
 場所:大村市松原3丁目(十二社権現のある所)  設置者:大村市教育委員会、松原宿活性化協議会
 門柱設置年:1980年2月  GPS実測値:32度58分33.87秒 129度57分22.24秒
 標柱の大きさ:高さ  cm、横幅15cm  (国土地理院)地図検索用ページ
   グーグルアース用数値:32°58'33.87"N,129°57'22.24"E

注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)

延命寺跡の史跡案内標柱(写真中央左側) <奥は十二社権現

史跡案内標柱と説明板写真周辺の説明
  右側写真の中央左側に白く写っているのが大村市教育委員会設置の延命寺跡の史跡案内標柱です。あと、この写真に写っていませんが、手前右(東)方向に松原宿活性化協議会設置の史跡説明版があります。

 この案内標柱の奥側には、十二社権現があり、地元の方々が祀っておられます。さらに、十二社権現の敷地内右側(東側)には使用されいない鳥居や五輪塔などが置いてあります。

 あと、この場所から南東側方向へ数十メートル登りますと小高い丘があり、墓碑や石塔その他がいくつかある一角があります。この場所について、江戸時代に編纂された(大村)郷村記内容が正しければ現代語訳で次の<>内が書いてあります。

 <この敷地(墓地)内は一般の人の墓地とも思えない。おそらくは(大村)純治の墓地かもしれない> つまり、戦国時代に佐賀から大村に来た大村純治(すみはる)の墓地ではないかとも推測されています。

 私が、たまたま、この周辺を調査していたところ、地元の方から「この延命寺跡は、元々この場所ではなく、あの小高い丘(=上記で紹介した墓碑や石塔がある場所)付近ではないかとの言い伝えがある」と聞きました。

 なるほど、現在、十二社権現がある所より、ずっと見晴らしも良く、その話を聞いて当時は納得していました。いずれにしても、延命寺は、福重町にある妙宣寺から発見された紫雲山延命寺の標石内容=(現代語訳で)「紫雲山延命寺の創建は、天平二十年(748)年8月」であり、(郡岳にあった)太郎岳大権現とともに(大村)郷村記内容が正しければ大村市内最古級で、奈良時代創建の寺院と言えます。

史跡案内標柱の内容
  大村市教育委員会によって設置された延命寺跡の案内門柱3面(正面、右面、左面の順番)に書いてある文章は、下記「 」内の通りです。
 延命寺跡 
由来 郡七山十坊(注1)の寺頭(注2)として天平年間(注3)(一二○○年余前)行基菩薩(注4)が開山したと伝えられている
昭和五十五年二月 大村市教育委員会 」

(注1):郡七山十坊とは、郡村(現在の郡地区のことで松原村・福重村・竹松村の3村を指す)にあった龍福寺、弥勒寺、白水寺、冷泉寺、東光寺、延命寺、妙光寺、極楽寺、本来寺、浄宮寺の10寺を言う。
(注2):寺頭とは、この場合、郡七山十坊=10寺の頭(トップ)と言うことで、最も創建が古く名のある位のある寺と解釈できる。
(注3):天平年間=729年〜749年頃のことを指す。また、金石史料である紫雲山延命寺の標石の碑文によれば、この寺は「天平二十年(748)年8月の創建」である。
(注4):行基菩薩とは、奈良時代の僧の行基の尊称である。行基が開山したかどうかの真偽の問題はあるが、一般には奈良時代の初期を指す場合にも使われている。

延命寺跡の史跡説明版

史跡説明板の内容
  上記項目の案内標柱とは別に、この敷地内には松原宿活性化協議会設置の延命寺跡史跡説明版(右側上から2番目写真)があります。この説明版に書いてある文章は、下記< >内の通りです。

 < 延命寺跡
  旧松原村北木場今山(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院。創建年代は不明ですが郡七山十坊の一つ。『紫雲山延命寺縁起』によると「この寺院は元来法相宗(注5)であった」とあり、その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替わった。奈良時代に興った南都六宗(なんとろくしゅう)という古い宗派一つ。 天正2年(1574年)キリシタンにより破壊。正保4年(1647年)この地に十二社権現(注7)が建立。
  松原宿活性化協議会 >

(注5):法相宗とは、中国十三宗・日本南都六宗の一。瑜伽師地論(ゆがしじろん)・成唯識論(じょうゆいしきろん)などを根本典籍とし、万有は識すなわち心の働きによるものとして、存在するものの相を究明する宗派。玄奘(げんじょう)の弟子、基(き)が初祖。日本には白雉(はくち)4年(653)道昭が初めて伝え、平安時代まで貴族の支持を受けた。現在、奈良の興福寺・薬師寺を大本山とする。唯識宗。慈恩宗。(国語辞典の大辞泉より)

(注6):南都六宗とは、奈良時代における仏教の代表的な六つの宗派。三論宗・成実(じょうじつ)宗・法相(ほっそう)宗・倶舎(くしゃ)宗・律宗・華厳宗の六宗。後世の宗派と異なり、経論の研究学派としての性格をもつ。(国語辞典の大辞泉より)

(注7):十二社権現=十二所権現とは、熊野三社に祭る12の権現。三所権現、五所王子(小守の宮・児の宮・聖の宮・禅師の宮・若王子)、四所明神(一万の宮または十万の宮・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子)のこと。(国語辞典の大辞泉より)


補足
 現在、大村市内の郷土史の先生や専門家の間では、あたかも「大村への仏教伝播と寺院の創建は中世時代(鎌倉時代・室町時代)である」(中世説=従来説)と書籍類含めて語られてきました。いくら、金石史料である『紫雲山延命寺の標石』や『紫雲山延命寺縁起』に寺院創建年がしるされていても、「それは後世にできたものだ」、「寺院の山号は平安時代の終わりからで奈良時代はありえない」、「大村は田舎だから仏教伝播が遅かった」などの根拠を挙げて、それ以上、古代の仏教や寺院研究の書籍類はない状況です。

紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月(748年8月創建) 」と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。

 私は、この中世説(従来説)は、間違いだと思っています。まず、「創建年号のしるされている標石や記録が、後世にできたものだから、寺院創建まで全て怪しい」と言うのは飛躍しすぎです。ここで仮に江戸時代に創建された「創業寛永元年 酒造延命」と言う酒蔵があったします。

 明治時代に商法(会社に関係する法律含む)ができて、その後「創業寛永元年 株式会社 酒造延命」へと標語が変わったとして、先の説ならば「株式会社は後世にできたものだから、この会社の創業年は怪しい」という論法と同じでしょう。

  また、福重には「大村の経筒」、「仏の里 福重」でも紹介しています通り、末法思想の流行年代=平安末期〜鎌倉時代中期頃に建立された経筒が4個、経塚の上に乗っていた単体仏が10体近く現存しています。これらは末法思想の流行年代と関係ある以上、幅広い年代ながら、ほぼ時代は特定できるものです。

  この種の建立は、「中世に入り、大村にも寺院も創建出来た。同時に末法思想が流行しているので、さあ、経筒も単体仏も早く作ろう」と言って造られたものではないと思われます。仏教寺院ができて何百年かの経過しないと末法思想の影響は受けにくいことは、誰が考えても常識だと言えます。

 あと、従来説を言っておられる先生方は上記の経筒や単体仏の詳細な調査や、どの地域に何体あるかなどの概要のまとめもせずして、間違った中世説を書いておられます。「大村での寺院創建は奈良時代説や古代の創建説は怪しい」と言う前に、ちゃんと平安時代末期頃にできた単体仏や経筒も1回くらいは調査して述べるべきではないでしょうか。

 私は、たとえ後世につくられた『紫雲山延命寺の標石』や『紫雲山延命寺縁起』であっても、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した「大村氏系図」や「大村純伊」伝説みたいなものとは、明確に分けて考えるべきテーマと思っています。むしろ、標石に彫る以上は、当時残っていた古記録などを調べて造ったと考える方が素直な見方でしょう。

 延命寺跡の研究は、謎の多い大村の古代史、特に仏教史を解明する意味で、福重に現存する単体仏や経筒、さらには太郎岳大権現の礎石跡と本坊跡とともに、重要な意味があると思われます。その意味からも、この延命寺跡史跡案内標柱史跡説明板の存在は、意義あることだともいえます。

・詳細な関係ページ: 『紫雲山延命寺跡』 、 『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など

(初回掲載日:2013年7月9日、第2次掲載日:7月10 日、第3次掲載日:7月12 日、第4次掲載日:7月15 日) 

 

大村の史跡説明板・案内板シリーズ(もくじ)
「大村の歴史」シリーズ(もくじ)


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク