紫雲山延命寺跡(しうんざん えんみょうじ あと)
この紫雲山延命寺跡は、大村市松原三丁目にあり、大村市教育委員会の案内門柱あるいは松原宿活性化協議会の案内板が設置されているので、それらが目印になると思われます。今回のページよりも先に、この寺院に関係する記述として大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石などを掲載中で、ほぼ今回の内容も網羅して書いていますので、ご参考される方は閲覧願います。
ただ、先のリンク先ページは、どちらかと言いますと、大村の仏教伝播や延命寺創建年号の彫り込まれた標石が中心になっているため、紫雲山延命寺跡そのものの全体紹介が不足していますので、今回これらを補足する形で作成することにしました。なお、史料(資料)の関係上、先の大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石などのページと必ず重複した内容になってしまいますので、その点は、あらかじめご了承願います。
なお、紹介に当たっては、江戸時代編纂の(大村)郷村記、『大村市の文化財(改訂版)』、松原宿活性化協議会の案内板などを参考・引用しています。また、私が地元の方に、お聞きした伝承も含めて作成しています。
概要紹介
まずは、松原宿活性化協議会の案内板を次の<>内で紹介します。原文は縦書きですが、横書きに変えています。 <延命寺跡 旧松原村北木場今山(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院。創建年代は不明ですが郡七山十坊の一つ。『紫雲山延命寺縁起』によると「この寺院は元来法相宗であった」とあり、その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替わった。奈良時代に興った南都六宗(なんとろくしゅう)という古い宗派一つ。 天正2年(1574年)キリシタンにより破壊。正保4年(1647年)この地に十二社権現が建立。 松原宿活性化協議会>
次に、『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)74ページに書いてありますので、この本から引用して、下記<>内で紹介します。 上記案内板の引用資料でもあったと思われるので同じ文章表現と内容もありますが、全文をご紹介します。
<紫雲山延命寺 旧松原村北木場今山(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院です。創建年代はわかりませんが郡七山十坊の一つです。 紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんみょうじえんぎ)によると「この寺院は、法相宗であった」と記されています。その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替わったものと思われます。この寺院は、もともとの宗派であった法相宗が、奈良時代に興った南都六宗(なんとりくしゅう)という古い宗派一つであったことから、地方でも 最も古い寺院であったと思われます。
「紫雲山延命寺天平念戊子(てんぴょうつちのとね)八月」と彫った標石が、 大村市立史料館に所蔵してあります。天平戊子の年は、天平20年(748)に当たり、 この年にはすでに延命寺が存在していたと思われます。しかし、「紫雲山延命寺」というように山号が用いられるのは、平安時代の初め頃からで、天平年間にはまだ使われていないことから、この標石は後で造られたものと思われます。 天正(てんしょう)2年(1574)にキリシタンにより壊されました。江戸時代に入り、正保4年(1647)には、この地に十二社権現が建立され、現在に至っています。今でも、延命寺時代のものと思われる温石製(滑石 かっせき)の墓石が、 一帯に散乱しています。>
大村郷村記に書いてある紫雲山延命寺
(紫雲山)延命寺と、この寺院に関係のある記述が大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)にあります。その当該部分(第二巻176ページ)を引用し紹介します。下記の太文字が、その文章です。(注:文章は縦書きの続き文ですが、横書きに直して分りやすくするため文章の区切りと思われる箇所に、スペース=空白を挿入しています)
原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。一文章が二行になっているところは( )内で表示もしています。ですから、あくまでも下記はご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は原本から必ずお願いします。
一 延命寺蹟 松原村北木場今山と云所にあり、創立の時代不知、 宗旨ハ禅宗と云、則郡七山の内なり、天正二甲戌年、耶蘇の徒破懐、正保四丁亥年五月 十二社権現を 建(立す)、宮守久右衛門屋鋪先年の寺地なりと云、此庭に温石の塔数々あれとも、梵字のみにて銘文なし、以前は温石の塔澤山ありしか、松原浦人共取りて減しと云
一 妙宣寺日衛和尚所持の書に、如(左)深重山世々傳來と云 文明三辛卯年九月十八日、民部大輔純治逝去、葬于紫雲山延命寺
寛長禅定門
六拾五卒
一 十二杜権現鳥居の前小高き所に墓(地)あり、構壼間四方の内に延享四丁卯年地藏建立、前に石燈籠あり、近邊の者瘡落の立願を籠候よし、眞砂石監筒等備へあり、 西の側に温石の塔あり、銘に智舜壽住逆修善因大永二念(壬午)鐘林鐘吉日とあり、右の方に高貳尺貳寸計の石塔に、卍字下に董寅と銘あり、此後にも塔あり、此構内常人の墓とも見へす、恐ハ純治の葬地にてもあらん乎
・現代語訳
上記、(大村)郷村記、延命寺跡の項の現代語訳は、次の<>内と思われます。( )、「」内は送り仮名や上野の補足です。あと、全文続けますと読みにくくなりますので、文章の区切りと思えるところなどに句読点や改行もしています。また、あくまでも素人訳ですので、参考程度にご覧願います。
< (紫雲山)延命寺跡 松原村北木場の今山と言う所にある。(寺院)創建の時代は不明である。 宗旨は禅宗だったと言う。(延命寺は)郡七山十坊の一つである。 天正2甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)(1574)年、キリシタン信徒による破壊された。 正保4丁亥(ひのとい、ていがい)(1647)年5月に十二社権現を創建した。 宮守(=神社の番人)の久右衛門の屋敷が、大昔から(延命寺の)寺地(敷地)と言われている。
(深重山)妙宣寺の日衛和尚(にちえいおしょう、住職)の書き留めには、左記の通りと深重山(妙宣寺)では言い伝えられて来たと言う。(左記は次の通り)文明三辛卯(かのとう、しんぼう)(1471年)9月18日、民部大輔(大村)純治が65歳で亡くなった時に紫雲山延命寺の(住職である)寛長禅定門が葬式を執り行った。
十二社権現の鳥居前に小高い所に墓地がある。1.8メートル四方の(敷地)内に延享(えんきょう)4丁卯(ひのとう、ていぼう)(1747)年建立の地蔵がある。(その)前に石灯籠(いしどうろう)がある。(この墓地の)近くの者が瘡(かさ)を直す祈願のために立てたとのこと。 (注:真砂石・・・部分は解釈できず)
西の方に温石の石塔がある。銘(碑文)に「智舜壽住逆修善因大永二念(壬午)鐘林鐘吉日」と彫られている。右の方に高さ約67cmの石塔と、卍の文字の下側に「董寅」の銘(碑文)がある。この後方にも石塔がある。この敷地(墓地)内は一般の人の墓地とも思えない。おそらくは(大村)純治の墓地かもしれない。 >
紫雲山延命寺の標石
この紫雲山延命寺の標石(右下側写真参照)については、既に『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など』ページに詳細に紹介しています。そのため、このページでは、概要のみの紹介と先の掲載中ページで触れなかったことなどを書いていきます。この標石についての書籍類は、まず『九州の石塔 上巻 』(著者:多田隈豊秋氏 発行:西日本文化協会 1975年8月1日発行)が挙げられますが、この本の225ページに書いてあります。
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紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月 」と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。
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また、『大村史話 中巻 』(大村史談会、1974年5月発行)の32〜39ページに記述されている妙宣寺の論文の中にも、この標石のことが登場しています。この文章を書かれたのは、その当時、大村史談会の会員で妙宣寺の住職だった小佐々恵明(えみょう)氏です。この二つの論文を参照して、簡単に紹介しますと下記の通りです。
紫雲山延命寺の標石(概要紹介)
(1)彫られている文字:紫雲山延命寺 天平念戊子八月
(2)現代語訳:「紫雲山延命寺の創建は、天平二十年(748)年8月である」
(3)標石の大きさ:高さ約70cm、横幅約35cm。
(4)標石の現状:1960(昭和35)年5月頃で、現在は大村市立史料館に所蔵。
(5)標石の再発見者:当時の深重山妙宣寺の友田恵隆氏と小佐々恵明氏であった。
(6)江戸時代の発見や記録など:深重山妙宣寺(第11代住職の)日衛が、紫雲山延命寺があった松原今山の竹やぶから発見して持って帰り洗ったところ寺院名と年号入りと分かった。その後、妙宣寺の枕肱亭(ちんこうてい)のほとりに置かれたものであった。
(7)標石自体の推測や推定:室町時代末期頃の五輪塔か何かの一部に彫られたのではないか。紫雲山と言う寺の山号について、一般に平安時代初期から山号が付けられようになったもので、奈良時代から「山号・寺号」と言う名称ではなかった。
(8)寺院創建についての二つの説:(様々あるが主には下記のニ説と思われる)
A:「紫雲山延命寺 天平念戊子八月」(延命寺は西暦748年に創建された)は、その通りである。
B: 「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。
・この標石の見方と意味するもの
この標石について、現在、大村市の公的機関でも郷土史の先生方の間でも、重要視されていないような扱いです。その要因は、上記項目の(8)のB<「紫雲山延命寺」と山号を付けるのは平安時代初期からなので、奈良時代の延命寺創建は信頼性が薄い。>と言う考え方からだと思います。もっと分かりやすく言いますと、まるで「この標石は室町時代末期頃に年号入りが創作された」みたいな考え方が根底にあるからだと思います。
さらに言うなら、大村(長崎県央地域)の仏教史を考える場合、従来から変わりなく「大村の仏教伝播と郡地区の寺院(郡七山十坊)が創建されたのは中世時代説」(私は簡単に「仏教伝播の従来説」とも呼んでいる)があります。ただし、この「仏教伝播の従来説」には、今まで古代(奈良時代あるいは、いくら遅くても平安時代)からあって現在その存在が分かっている太郎岳大権現、平安時代後期に既に寺名出ている史料類(紫雲山延命寺縁起など)、平安末期頃から鎌倉時代に作られたと推測できる福重から出土した経筒(4個)や経塚の上に乗っていた単体仏(8体)、さらには上八龍の線刻石仏など(10数体の線刻石仏中の数体)との関係からすれば大きな矛盾があります。
なぜなら、大村へ仏教伝播したのが従来説通りなら、仏教寺院が創建される前に既に上記の経筒や石仏が存在したと言う真逆なことが言われているからです。「1個2個程度の経筒や石仏」ならば、もしかしたら大村以外から持ち込んで来たと言う可能性も考えられます。しかし、これだけ多数だと、その考え=「従来説」は間違いではないかと言わざるを得ません。
番号
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名 称
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発見場所(現町名)
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石 材
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制作年代(推定・推測含)
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大きさ(概要)
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1
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弥勒寺の経筒 |
弥勒寺町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約34cm 幅約11cm |
2
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草場の経筒その1 |
草場町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約45cm 幅約16cm |
3
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草場の経筒その2 |
草場町 |
滑石製 |
平安時代末期頃 |
高さ約34cm 幅約17cm |
4
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御手水の滝の経筒 |
立福寺町 |
滑石製 |
鎌倉時代頃 |
高さ約30cm 幅約34cm |
5
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箕島の経筒 |
(旧)箕島 |
滑石製 |
文治元年(1185年) |
高さ約45cm 幅約27cm |
6
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経ヶ岳の経筒 |
黒木町 |
(不明) |
永仁二年(1294年)頃 |
(不明) |
特に、平安末期から鎌倉時代などにかけて作られた経筒や単体仏などは、若干の年数誤差はあっても事実上、年代特定に近い史料と考えられます。その意味で先の「従来説」は、これら現存している史料を全く無視されているかのように思えます。私は、様々な意見があってもいいと思いますが、これら史料にも真正面に向き合って、それでも仮に否定的な意見を展開しておられればいいと考えます。しかし、現在の大村では、そのような論文は見たことがありません。それらと同じような考えと扱いが、この紫雲山延命寺の標石にもあると考えています。
和 暦
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西 暦
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主 な 事 柄 (出 来 事)
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― |
698年 |
・法相宗の本山・薬師寺が完成 |
和銅年間 |
708〜715年 |
・行基が太郎岳(現・郡岳=826m)に太郎岳大権現を創建 |
天平13年 |
741年 |
・国分寺・国分尼寺の建設開始 |
天平16年 |
744年 |
・難波京に遷都 |
天平17年 |
745年 |
・薬師信仰の詔(みことのり=天子の命令)を発す |
天平19年 |
747年 |
・東大寺大仏鋳造開始 |
天平20年 |
748年 |
・延命寺創建(当時は山号はなし。山号は後世に付いた) |
平安初期以降 |
― |
・延命寺が山号も含め紫雲山延命寺と呼ばれるようになった |
室町時代 |
― |
・紫雲山延命寺の標石(台石)が造られた |
私は、「この標石には山号が入っている」あるいは「標石の石が室町時代頃の五輪塔の一部を利用している」などから、「信用できない」と言う考えではありません。たとえ室町時代に、この山号入りの標石が作られたとしても、その寺創建年代まで全面否定できるのでしょうか。例えば仮に江戸時代創業で「寛永元年創業、銘酒延命」と言う酒造メーカーがあったとします。近代になり明治時代に商法が作られ、株式会社が各地でつくられてきました。
この酒造メーカーも株式会社となり、キャッチフレーズか建物の定礎石などに「創業寛永元年 株式会社 銘酒延命」を使ったとします。このように”株式会社”と言う名称は、後世に法律や会社の株式変更に伴って加わっただけです。つまり、昔から使ってきた名称の上に”株式会社”が加わっただけですから「創業の年代までおかしい」と言う訳ではないのです。
これと同じように「(創建)天平念戊子八月 (天平20年、748年) 紫雲山 延命寺」と彫られた標石は、例え後世に”紫雲山”と言う山号が寺号の上に平安初期以降、付け加えられたとしても「天平20年=748年の延命寺創建年まで疑わしい」と言うのは飛躍しすぎと思います。約1300年も前のことですから、私は一年一月までも延命寺創建年が正確無比だとも思えません。ただし、例え若干の年月のズレがあったとしても、この標石に彫られた年号の大枠は正しいし、むしろ「従来説」=創建は中世時代説の方が、間違った考え方とも思えます。
また、私は「郡七山十坊の仏教寺院が全部、古代に創建された」とも思っていません。この紫雲山延命寺と、あと数寺院それに(郡七山十坊には入っていない)太郎岳大権現などは古代の創建だと考えています。その意味で、この紫雲山延命寺跡あるいは紫雲山延命寺の標石を調べるのは、大村の仏教史を論ずるに避けて通れない事柄だとも思っています。この紫雲山延命寺の標石について、現在、大村市立史料館に所蔵はされていますが、人目に触れるような状態ではなく、また、ほぼ全くと言ってよいほど案内板や書籍類で紹介もされていない史料の一つです。
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郡地方(松原、福重、竹松)の寺院群(『おおむらの史記』18ページより) |
願わくば、この標石についての肯定論、否定論、異論含めて様々かつ活発に論じられていけば大村の仏教史を語る上で有意義な史料になるのではと期待もしています。<紫雲山延命寺の標石について、さらに詳細に知りたい方は『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など』ページを参照願います>
大村の仏教史(長崎県央地域の仏教史)上の意義
私は、これまで大村の仏教史(長崎県央地域の仏教史)、特に、仏教伝播と寺院創建の年代を考える上で、市内北部にかつて存在した太郎岳大権現と郡七山十坊(右側の図を参照)のことは避けて通れないと言い続けてきました。
また、この中でも「太郎岳大権現と郡七山十坊の内の紫雲山延命寺や他の数寺院は、古代(奈良時代もしくは平安時代)の創建ではないのか」と、ずっと申し上げています。ただし、右側の図にも載っている寺院名の全てが、「古代に創建された」と言っている訳では当然ありません。紫雲山延命寺など数寺院を除いて、中世時代の寺院が多いと思われます。
ここで
現在の大村市及び郷土史の先生方の「従来説」を、分かりやすく表現していきます。それは、天平13(741)年頃から全国に国分寺・国分尼寺の建設が開始されても 「(国府=首都から)遠い大村には直ぐに仏教が伝播してきたとか、寺院も創建されたとは言えない」みたいな論調で、結果として大村の全ての寺院が中世時代に出来たとの考え=「従来説」になっているのです。
また、この「従来説」は、何か具体的な根拠をもって理論展開され、「大村は他の地域と比べ何百年も遅い中世時代に仏教が伝播し、寺院が初めて創建された」と言うなら理解もできます。しかし、それらの理論的根拠とか具体的な遺物や史料類は示しておられないです。
さらに申し上げると、平安時代末期から鎌倉時代に出来たと、ほぼ年代特定できる大村の経筒(合計6個)や、その経筒や経塚の上に乗っていたと言われている単体仏(8体)などについて、その建立年代の否定論含めて何も書いても、言ってもおられないのです。つまり、根拠論のない「従来説」なのです。
ここで国分寺などについて、再度おさらいの意味で書きます。天平13(741)年 頃から全国各地、国単位で一つの国分寺・国分尼寺の創建されてきました。ですから、同じ長崎県内でも古代肥前国時代は、ひとつの国だった対馬、壱岐では、全国各地とほぼ同じ年代に、国分寺・国分尼寺が創建されています。
当時の大村は他の長崎県央地域と同じく彼杵(そのぎ)と言う肥前国の一つの郡でした。その郡役所は、彼杵郡家(そのぎぐうけ)で現在の寿古町の好武にあったのではないかと思われます。(この件の詳細は「彼杵郡家、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」ページを参照)ですから、大村や県央地域には、国分寺・国分尼寺はありませんでした。
だからといって、古代に国分寺・国分尼寺ではない他の仏教寺院が、大村や県央地域に創建されなかったと言うことではないのです。まず、仏教伝達のスピードを考えてみて下さらないでしょうか。一つの国だったからだとか、あるいは当時の政府からの指示とはいえ離島である対馬、壱岐では他の国と、ほぼ同時期に国分寺・国分尼寺が創建されたのです。そのくらい、仏教伝播も情報伝達も、古代であっても速かったのです。
国分寺・国分尼寺ではないにしても陸続きの大村や県央地域へも仏教伝播や寺院の創建含めての情報は、ほぼ遅れることなく伝わっていたと考えるのが自然と言えます。間違っても大村だけは、何百年間もかかって中世時代にしか仏教は伝わらなかった、寺院の一つも古代には創建されなかったみたいなスピードの非常に遅い「従来説」ではないと思われます。
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次に、このような仏教含めて情報伝達は、やはり、その地域の経済力(穀物生産力)、交通や人口の多い地域に影響されるものではないでしょうか。その意味で、縄文・弥生時代から県下有数の穀倉地帯であった大村(郡地区)には、最も人口も多く経済力も情報力にも恵まれ、さらには交通至便な地域だったと言えるでしょう。
そのような地に佐賀、壱岐、対馬の国分寺・国分尼寺創建より遅れること何百年間もかかって大村の中世時代に、やっと仏教が伝播し寺院が初めて創建されたと考える「従来説」は、改めて間違いの説であると言わざるを得ません。
また、平安末期から鎌倉時代に作られたと思われる大村の経筒(合計6個)や単体仏(8体)などの石材にも、ご注目願います。これらは、大村産出の石ではできないのです。滑石の材質は西彼杵半島もしくは他の地域からと思えます。それらの地域含めて仏教や石材加工技術も既に進んでいたことを、これら経筒や単体仏は物語ってもいるのではないでしょうか。
(大村)郷村記にある太郎岳大権現と紫雲山延命寺さらには大村の経筒(合計6個)や単体仏(8体)などを調査・分析され、それでもどうしても「大村に仏教が古代に伝播し、寺院が創建された説は間違いだ」と言うなら、その論拠を示して欲しいと思います。具体的な根拠も示さず、ただ、「従来通り」、「従来説」が正しいと繰り返すやり方は、もう説得力がないと言えます。
あと、長崎県内の教育界やマスコミでも似たようなことがあります。それは専門書や壱岐・対馬の歴史記述などを除き、一般にも分かるような古代からの長崎県央地域の宗教史(仏教史)みたいな書籍や報道内容が、ないのです。毎年のように出版や語られるのはキリシタンの歴史ばかりです。それ以前の分かりやすい長崎県の宗教史がないため、あたかたも県内においては、仏教の歴史がなくて突然にキリシタン史が出現したみたいな誤解を招くものになっています。
結果として、この”長崎県内独特のキリシタン史観”は、県内おいても長い宗教史全体に目隠しをしているような役割になっています。そのようなことから私の勉強不足も当然あるのですが、それにしても素人郷土史愛好家にとって県内の、特に古代の宗教史が分かりにくい状況が長年続いているとも言えます。また、県央地域で出土した経筒や経塚の上に乗っていた単体仏を調査された長崎県の出版物や情報も少ない状況だと思われます。
この項目のまとめをします。私は重複しますが、再度、長崎県や大村市は、「従来説」にこだわるのではなく、太郎岳大権現と今回掲載の紫雲山延命寺、さらには大村の経筒(合計6個)や単体仏(8体)など古代からある史跡、遺物や石仏に真正面に向き合って論文化して欲しいと願わざるを得ません。そのことが、長崎県央地域における古代宗教史解明の意義につながるのではないかとも考えています。
補足
この項目は、延命寺跡を現地で調べていた時に地元の方から聞いた話や先の項目に書いていなかったことなどを を中心に書きます。まずは、地元の方の話しですが、それは次の通りでした。「(紫雲山延命寺跡は)この場所(大村市教育委員会の案内門柱や熊野大権現がある所)ではなく、あの墓地(南東側の小高い所)だったと先祖から聞いている」と言うことでした。
この小高い場所は、先の項目「大村郷村記に書いてある紫雲山延命寺」にも書いていますが、 大村郷村記に「十二杜権現鳥居の前小高き所に墓(地)あり」と書いてあり、墓碑、石塔や石仏などがある所です。私は、松原や福重の丘陵地帯にあった「古墳と神社仏閣の場所」について既に書いています。そのページには 簡単に言いますと、丘陵地帯の古墳や神社仏閣の場所は、5項目の根拠をあげ、その内の一つに 「見晴らし(眺望)が良い所であること」と書いています。
・紫雲山延命寺の元々の場所は小高い墓地の所だったのでは
その根拠からすれば、現在地の紫雲山延命寺の案内門柱のある場所は、色々なことから、やや難のある所でもあります。古代の寺院は現在あるような例えば大村の本経寺や福重の妙宣寺みたいな大伽藍(大きな寺や寺院の建物と言う意味)では ありませんでした。分かりやすく言いますと萱ぶきの民家程度だったとも想像されます。
ですから、創建当初から大きな敷地ではなかったと思われますので、現在地の広さ自体を大きく問題にしている訳ではありません。ただし、現在の延命寺跡地は、その点を考慮しても狭いし、しかも崖が迫っているような場所です。また、先にあげた南東側の小高い墓地ほどには見晴らしも良くありません。
このようなことから、地元の方が言われた「あの墓地(南東側の小高い所)だったと先祖から聞いている」との話しは、信憑性があるような気がします。さらに言えば、この墓地の横(東側)の個人宅含めた敷地全体が、紫雲山延命寺の元々あった場所ではないかと私は推定しています。
・紫雲山延命寺の石塔類が、現在なぜ少ないのか
あと、紫雲山延命寺の標石について詳細に書いておられる深重山妙宣寺・第11代住職の日衛の古記録や、それを 現代語訳で書いておられる小佐々恵明(えみょう)氏の大村史談会論文を参考にして書きます。それらによりますと、この延命寺跡には、現在見るような石塔や石仏だけでなく、江戸時代にはもっと沢山あったようです。
しかし、(大村)郷村記や小佐々氏の論文には、東彼杵町の安全寺の方へ石塔を持っていったとか、あるいは松原の漁民が漁業用の何かの重石などに利用するために持って行ったと書いてあります。私は、漁業用の石は調べていませんが、東彼杵の安全寺跡に残る石塔の一部を調査したことがあります。その中で一つの宝篋印塔(ほうきょういんとう、供養塔のこと)の碑文を見ました、それによると、安全寺の創建された時代よりも古い年号のようでした。
つまり、その宝篋印塔は先の論文通り、もしかしたら元々は延命寺跡にあったものではないかとも推測されます。つまり、もしも安全寺跡に残る石塔類が、延命寺にあったものとの説が正しければ、やはり上記の妙宣寺に残る記録類は正しいことが言えます。また、なぜ、宗派も歴史も全く違う江戸時代の妙宣寺の記録に、このようなことがわざわざ書いてあるかと言いますと、大村領内では延命寺が、やはり大昔から名刹(めいさつ、名高い寺)だったからだと 先の論文に書いてあります。
まとめ
このページでは、何回となく重複して書いたにも関わらず、このまとめでも同様のことを述べることについて、ご容赦願います。この紫雲山延命寺は、太郎岳大権現とともに大村(長崎県央地域)にも古代(奈良時代〜平安時代)に仏教が伝播し、そして寺院が創建されたことを史料(証拠)として明らかにしました。
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紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月 」と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。
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また、それに関連して市内でも県内においても専門家や郷土史の先生方が全くと言ってよいほど今まで触れられていない平安時代末期から鎌倉時代にかけて建立された大村の経筒(合計6個)や単体仏(8体)さらには上八龍の線刻石仏など(10数体の線刻石仏中の数体)の関係事例などを具体的に挙げました。
これらの史料(証拠品)は、大村でも古代に仏教が伝播し、寺院創建されていないと、これまでの「従来説」(中世時代説)とは大きな矛盾があるのではないかと言うことも明らかにしました。また、従来の中世時代説では、具体的に「確かに郡七山十坊の寺院は中世時代に創建された」との史料や根拠も示さず、ただ、「(国府=首都から)遠い大村には直ぐに仏教が伝播してきたとか、寺院も創建されたとは言えない」みたいな抽象論では、もう説得力がないと思われます。
私は、大村(長崎県央地域)の古代宗教史(仏教史)を解明するには、今回の紫雲山延命寺、太郎岳大権現、大村の経筒、単体仏などは避けて通れない命題ですし、その実物も見てから論じて欲しいとも思っています。今のままでは、長崎県央地域)の古代宗教史の論文が少な過ぎる、あるいは”皆無”の状態ではないでしょうか。私は、なにも賛成論だけではなく、反対論、異論含めて多くの方から沢山の意見や論文が出され、この当時のことが明らかになることを念願しています。
この紫雲山延命寺は、先の項目「大村郷村記に書いてある紫雲山延命寺」を見ると宗派含めて様々な変遷がありますが、1574(天正2)年、キリシタンによる大村領内にある神社仏閣のいっせい焼き討ち、略奪、僧侶・峯阿乗など殺害などの他宗派弾圧事件が起こるまで確かに存在していました。
そして、寺院の古記録が全てキリシタンによって燃やされて、ほぼ何も史料が残らない状態ながら、やはり歴史的事実が伝わっていたのか、数少ないながら紫雲山延命寺は、紫雲山延命寺の標石や紫雲山延命寺縁起などの史料も今なお現存しています。
先のいくつかのリンク先ページとともに今回の紫雲山延命寺ページも、古代史を探る少しでも材料になればと思い書いてきました。これからも何か新たな史料類その他あれば補足、改訂含めて、このページに掲載していきたいと考えています。閲覧して頂き、ありがとうございました。
(初回掲載日:2012年7月10日、第二次掲載日:2012年7月11日、第三次掲載日:2012年7月15日、第四次掲載日:2012年7月16日、第五次掲載日:2012年7月17日、第六次掲載日:2012年7月19日、第七次掲載日:2012年7月24日、第八次掲載日:2012年7月25日、第九次掲載日:2012年7月26日)
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