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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

山口凍渓先生の碑

 概要紹介
掲載中
 1)記念碑の大きさなど
掲載中
 2)記念碑建立地の福重との関係
掲載中
 3)碑文内容(概略)について
掲載中
 4)五教館や近代の学校と凍渓先生との関係について
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
山口渓先生の碑(玖島一丁目、大村小学校の校庭) <2012年4月8日、拓本作業中>

概要紹介
名称:山口凍渓先生の碑(やまぐちとうけいせんせいのひ)、所在地:大村市玖島一丁目、大村市立大村小学校の校庭<長崎県指定史跡・ 五教館御成門(ごこうかんおなりもん)=通称” 黒門”の近く>

 この記念碑の正式名称は、右写真の通り凍渓先生碑ですが、今回分かりやすいように山口凍渓先生の碑の名称で統一しました。この碑は、明治28(1895)年12月に先生の門弟達によって建立されました。当初の場所は、福重村皆同郷の福重村役場(現在の大村市皆同町、福重出張所)の近く(東側)に当時あった山口家のやや小高い所にありました。

 山口凍渓先生の略歴について、明治維新前後頃の大村藩校であった五教館、さらには近代学校制度が施行された後も、玖島小学校(現・大村小学校)や大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)の先生や校長を歴任されました。そこで巣立った門弟達が、先生の功績に対し敬意を表し、さらには顕彰のため、この記念碑を建立したと思われます。

 このように先生(恩師)に対する顕彰記念碑があること自体、大村市内でも長崎県内でも珍しい事例と思われます。なぜ、建立されたかの理由は、拓本作業の結果、約500文字にわたって先生の人柄あるいは教師として果たされた役割から推測できるものです。

 門弟(学生)の中には、明治維新での活躍、明治時代になって国や地方の役人あるいは民間企業などの重要な役職を担われた方も多かったと思われます。また、先生が全国旅行されたことを元に書かれた「漫遊尽し」(紀行文)もあります。先に書きました通り、先生は何者にも代え難い、あるいは難しい人材育成という分野で多大なる功績を残されたのでした。これらを評して、「山口凍渓先生は近代大村教育界において先駆者的役割を果たされた」と考えられます。

 この記念碑の評価について、まずは石材ですが、大村市内どこにでもあるような自然石です。(右写真参照)一番上部にある「凍渓先生碑」部分のみ、文字の周囲を細長い長方形に彫り下げた造りで、特徴があります。本文の碑文は、極普通の彫り方です。

 あと、あくまで上野個人の考えによる記念碑の総合評価ですが、(戦国時代、キリシタンに殺害された)峯阿乗の碑や妙宣寺の本堂再建記念碑の石材・碑文・彫り方ほどではないですが、近代建立の自然石記念碑としては、市内ではベスト5に入るくらい立派なものです。

1)記念碑の大きさなど
 
この記念碑の大きさついて、ご覧頂く前に、右側1番目の写真(拓本作業中)を参照願います。これから写真中央部に写っている山口凍渓先生の碑と、その土台石などについて概要説明します。次に、下表を見て頂けないでしょうか。

山口凍渓先生の碑の大きさ
 全体  高さ約240cm  -  -
 石碑本体  高さ:約192cm  横幅:約114cm  胴回り:約179cm
 土台の石  高さ:約48cm  横幅:約182cm  周囲:約500cm

 上記のように記念碑本体も人の平均身長よりも大きいですから、当然のことながら全体高では、かなり高く見えます。あと、本体を支えている土台石ですが、これは自然石を加工して造られたものです。本体とのバランスを考えた大きさにしているのかもしれませんが、横幅がある分、けっこうな大きさに見えます。

 記念碑の石材は、大村市内、どこでも極普通にあるような自然石です。このタイプの石は、タワシなどでクリーニングしても何年か経つと変色しやすい材質のようです。若干の文字の失敗や損傷があるのですが、碑文は、びっしりと約500文字ほど彫られています。(碑文内容その他については、後の項目に書く予定)

山口渓先生の写真(大村小学校の校長室にある。ただし本名の山口次郎平である)

2)記念碑建立地の福重との関係
 次の碑文内容の項目でも紹介しますが、凍渓先生について書いてある書籍があります。それは、『大村史話・下巻』(1972年12月15日、大村史談会発行)、志田一夫氏の執筆で404ページの「一 大村市福重 山口凍渓先生の碑  一 所在地 福重出張所の横」の論文です。これを参照すると誕生関係について「山口凍渓は天保十年(一八三九)松原の岩永徳内の末子として生れ二郎兵と名乗った」と紹介されています。

 つまり、凍渓先生は、江戸時代当時の松原村(現在の大村市松原地区)出身で、当時の本名は岩永二郎兵でした。ただし、この論文と、大村小学校の校長室に掲げられている歴代校長写真で(右側上から2番目写真参照)「第一代」写真及び私のとった拓本紙の碑文では、文字違いで「次郎平」となっています。どちらが正しい本名か現時点で私は結論を持っていませんが、たぶん次郎平の方ではないかと推測されます。

 大人になられて、先の論文にも碑文にも書いていないですが、当時の福重村皆同郷の福重村役場(現在の大村市皆同町、福重出張所)の近くに当時あった山口家に養嗣子(ようしし)でこられました。そのことから、本名は、山口次郎平(もしくは「二郎兵」)となられました。凍渓と言う名称は、良く俳人や作家などが用いられているです。(号=学者・文人・画家などが本名のほかに用いる名。国語辞典の大辞泉より)

 私は、上記の論文とそれと同じページに写っている記念碑写真をヒントに、記念碑の元々あった場所を現在の皆同町の方に聞いてまわりました。すると、この山口凍渓先生の碑の当初の場所は、個人宅へ行くため坂道を登った所で、市道から高さ約2.5mのやや見晴らしの良い場所にあったと言うことでした。ここからは、私の想像ですが、山口家の敷地でやや小高い場所へ門弟門人たちが、ご子孫の方とも相談し顕彰記念碑を先生が死去されて3年後に建立されたのだろうと思います。

 また、元あった場所(福重)から大村小学校に記念碑が、なぜ移転されたかについて、実は現在地の記念碑右脇にある御影石でできた大村小学校百周年時の碑に彫ってあります。その移転理由は、大村小学校の創立100年周年記念の時に山口凍渓氏のご子孫の懇請により現在地に引っ越したということです。

妙宣寺本堂再建記念碑の文章も編集
 あと、元々、当時の山口家は、皆同郷(町)にあったのですから良く調べたら、もっと先生の業績があると思われますが、妙宣寺の境内にある記念碑について補足を書いておきます。それは、大村市福重町(旧・矢上郷)にある妙宣寺本堂再建記念碑<明治18(1885)年の大火後、本堂が再建され、碑は明治20(1887)年8月に建立された>の碑文(文章)の編集者名に、山口凍渓と彫られています。なお、この件の詳細は、別ページで妙宣寺本堂再建記念碑として掲載予定です。

 そのため、この碑について今回のページでは極簡単に書いておきますが、漢文体の難しい文章ながら、妙宣寺の歴史、風光明美な状況、本堂再建にあたっての経過などが、先生編集の碑文として残っています。蛇足ながら、妙宣寺本堂再建記念碑のある場所は、見晴らしの良い所でもあります。

3)碑文内容(概略)について
 この項目について、最初から私の言い訳と、お断りを書きます。実は、右上側1番目写真でもお分かりの通り、私は2012年4月8日、9日と、この顕彰記念碑の拓本作業をしました。そして、まずは拓本により和紙に浮かび上がった碑文の活字化作業を数か月おこないました。この碑文は、全体で約500文字でした。

山口渓先生の碑(写真右側の大きい自然石、場所:大村小学校の校庭) (写真奥左側に屋根は五教館御成門通称”黒門”と呼ばれている)

 そして、その中で損傷・摩耗が激しい文字を中心に活字化出来ないものを除き95%位は既にワード版データとして作成できました。 ただし、この碑文全てが漢文体です。しかも、碑文の終わりの方には、漢詩まで彫り込まれています。

 このような状況を見て、当初から碑文の活字化は出来ても、意味の解読までは、なかなか進まないだろうとも思っていました。ただし、漢文など全く読解できない私でも、例えば人の名前、学校名、大村の地名、年号など、ある意味で固有名詞的な文字だけの拾い読みはしてみました。


 それらの極一部と補足する形で、まずは凍渓先生の経歴(略歴)みたいなものを次の<>内に書き出しています。整理番号や( )内などは、私が分かりやすくするために補足したもので、あくまでも参考程度に、ご覧願います。

   凍渓先生の略歴 (1)誕生年:天保十(1839)年、 (2)出身地:松原村、 (3)養子前の名前:岩永次郎平(いわなが じろうべい)、 (4)本名(養子後の名前):山口次郎平(やまぐち じろうべい)、 (5)号:山口凍渓(やまぐち とうけい) 、 (6)当時(江戸〜明治時代)の住所・福重村庄屋(後年、福重村役場)横の山口家へ岩永家から養嗣子(ようしし)に来た、(7)学業:大村藩校の五教館で学び幕府直轄だった江戸の昌平黌(しょうへいこう)を卒業、(8)教職:五教館、玖島小学校(現在の大村小学校の前身)、旧・大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)の教師や校長を歴任(大村小学校の校長室には初代校長として写真=右上側から2番目写真が飾られている) 

碑文の概要紹介

 先に書きました通り、ここで、山口凍渓先生の碑が紹介されている『大村史話・下巻』(1972年12月15日、大村史談会発行)、志田一夫氏の執筆で404ページを引用して、全文を下記の<>内に掲載しています。なお、太文字や改行は、見やすいように上野の方で変えています。引用される場合は、必ず原本からお願いします。

山口渓先生の碑(玖島一丁目、大村小学校の校庭) <2012年4月8日、拓本作業中>

  一 大村市福重 山口凍渓先生の碑 一 所在地 福重出張所の横
 先日学生にあの碑はと尋ねて見たら知らぬと答えた。だから知られていない石碑の一つとなったことを悲んで書き加えて置く。山口凍渓は天保十年(一八三九)松原の岩永徳内の末子として生れ二郎兵と名乗った。五教館(ごこうかん)に学び、認められて二十一才の時 江戸の昌平饗(今の東大に相当する)に入学した。

 優秀な成績で卒業して帰ってからは五教館の教授になり養嗣子となって山口姓を名乗ったが養父山口伊兵衛は家老職に次ぐ馬廻り役(藩主の親衛隊)となる。 凍渓とは二郎兵の号であるが明治五年五教館が廃止になって学制が変ったので大村玖島小学校や県.立大村中学の教師となったが、その高い識見と講義との薫陶を受けて偉くなった郷土の出身の人が多い。

 遺著の「漫遊尽し」は全国を遊歴した時の韻文的な紀行文として有名である。金滝大八郎先生からよく朗誦して聞かされた思い出がなつかしい。郷土の先賢である凍渓先生のことは若い人にも識っていて貰い度い気がする。 (大村史話、中巻参照の事) 

補足など
  この『大村史話・下巻』404ページに載っている写真2枚の内1枚を見ますと、明らかに拓本作業をされた形跡があります。つまり、(上野も拓本作業時、毎回実施していますが)記念碑の汚れを亀の子タワシなどでクリーニングしたため碑文面だけが綺麗になっているからです。ここで、上記の文章を読んで私なりに何故かなあと思うところがあります。それは、下記(1)(4)の事柄です。

(1)なぜ、拓本作業されたにも関わらず碑文の全文解読を紹介されていないのだろうかと言う点です。約500文字は、碑文としたら多い文字数です。しかし、全文解読後、書籍類に転記する場合、この文字数は、決して多い方ではないと思われます。もしかしたら本の文字数制約があったので、全文を載せられなかったのかもしれません。

(2)碑文の後半にある漢詩が紹介されていません。この漢詩部分は、本文原稿の総まとめみたいな形で凍渓先生を褒め称える意義があると、私は推測していますが、その部分が書いてありません。

(3)凍渓先生の本名部分で、上記の論文には「二郎兵」と書いてあります。この件は、先の項目にも書いていますが、一文字間違いがあり、正確には碑文に彫ってある通り、次郎平だと私は思っています。

(4)最後の行に「(大村史話、中巻参照の事)」とあるので、その中巻351ページ(木下義春氏の執筆)を見ました。そこには、五教館の先生方11名の中で山口凍渓先生のことも概要紹介項目がありました。その一部分として「山口凍渓 名は次郎平。福重に生まれて (後略)」と書いてあります。この論文を読んでも、本名は、やはり(碑文通り)次郎平の方が正しいようです。あと、「福重に生まれ」の部分は間違いで、正しくは松原生まれです。福重には養嗣子(ようしし)で来られました。

 以上、いくつか「何故だろう」と思う事柄もあるのですが、山口凍渓先生の碑を簡潔にまとめられた分かりやすい論文ですので、上記に掲載しました。

4)五教館や近代の学校と凍渓先生との関係について
 (注:五教館については、いずれ別に詳細な「五教館」紹介ページ作成を検討しているので、今回その概要と関係事項のみとしています。この点はあらあじめご了承願います) 江戸時代、大村藩の藩校・五教館については、『大村市の文化財』(改訂版)(大村市教育委員会、2004年3月31日発行)を参考にすれば、寛文10(1670)年に、玖島城(大村城)内の桜馬場に集義館(しゅうぎかん)との名称で創立されました。その後、静寿園(せいじゅえん)へ名称変更があり、さらに寛政2年(1790)年に規模を大きくして五教館(ごこうかん)と改称した経過があります。

 明治維新後からしばらしくて、この藩校は明治5(1872)年8月、学令発布により廃校になりました。この年に創立した福重小学校が、公立の小学校としては大村市内最古の小学校となりますが、玖島小学校(現・大村小学校の前身)も1年遅れで藩校の校舎を利用して創立しています。なお、この藩校の流れは、当時の大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)も受け継いでいます。

 この五教館から江戸時代の大村藩内おける人材、さらには明治維新で奮闘したした三十七士を始め近代日本における著名な方々が巣立ったのは言うまでもありません。この五教館卒業生の中には、再び学び舎に戻って、今度は先生として教鞭をとられた人もいました。当然全員ではありませんが、今回一部その氏名を書いていきます。(注:下記の学頭とは、五教館の校長に当たる。他にも用語解説の必要性も感じているが別途「五教館」紹介ページにまとめて書くので今回は省略している)

五教館の先生方
 江戸時代あるいは明治維新前後頃の五教館の先生方をこれから『大村史話・中巻』(349〜351ページ、木下義春氏の執筆)を引用・参照して書きます。先に述べた通り、いずれ別に詳細な「五教館」紹介ページ作成を検討中で、そのため今回は氏名と( )内の補足程度です。その点は、あらかじめご了承願います。あと、私は先生の総数まで把握していませんが、下記の人数以上であったことは推測できます。

五教館御成門(ごこうかんおなりもん、場所:大村小学校の東側。通称”黒門”。長崎県指定史跡)

 滝口松嶺(朱子学者で学神として祀られた) 、本田鉄州(江戸藩邸の教官や藩の顧問も歴任) 、加藤鹿州(折衷学者で五教館の初代学頭、県立大村中学校の初代校長) 、今道伯和(学頭にもなり、詩人でもあり川原悠々などに教えた) 、朝長晋亭(江戸時代後期の儒学者・朝川善庵に師事した。折衷学者) 、

 片山琴浦(松林飯山の師であった) 、松林飯山(朱子学者で史と師と書に長じた俊才。明治維新三十七士結盟の指導者だったが暗殺された) 、朝長熊平(安政6年に学頭、三十七士の一人) 、北村如堂(書家で習字師として教えた) 、山口凍渓(注:内容は省略。このページ全体を参照) 、渡辺昇(統幕運動の推進者。維新後、大阪府知事などを歴任)

 上記の先生方の名前を見ますと、「大村の偉人展」(例えば『大村市立史料館・企画展 大村人グレート』)などにも登場されるような有名な方もおられます。また、単に教育界だけではなく、江戸時代後期から明治時代にかけて国内外の幅広い分野で、重要かつ大きな役割を果たされた方ばかりだと思われます。

 そのような中で、今回紹介中の山口凍渓先生は、大村において明治維新前後や近代の教育界の先駆的な役割を果たされたと思います。現在、大村市より発行されている郷土史関係の書籍類やホームページ類には、他の先生の紹介はあっても、この凍渓先生については、ほぼ全く紹介されていません。

 先に述べた通り、五教館や近代の小・中学校においても、先生が多い中で(上野調べながら)立派な顕彰記念碑があるのは、唯一この山口凍渓先生の碑だけです。この碑は、いかに当時の教え子から尊敬、慕われていたかを如実に物語っているのではないでしょうか。私は、現在においても山口凍渓先生の功績を再検証・再評価して欲しいと願ってもいます。

まとめ
 先の項目でも書きましたが、私は2012年4月、2回にわたり拓本作業を実施し、その後何カ月間かかけて碑文の活字化まで出来ました。しかし、その現代語訳が、いまだに終わっていません。その原因は、全文が難しい漢文体の内容と漢詩のため、私のような素人の読解力では、なかなか手に負えない状況だからです。

 ただ、何かの機会に漢文の現代語訳をする時や、漢文訳のアドバイスをして下さる方が現れるかもしれませんので、あきらめてはいません。そして、そのことが達成できれば、このページに追加あるいは改訂もしていきたいと考えています。これまで本ページをご覧になり、もしも興味を持たれた方がいらっしゃるならば、どうか気長にお待ち下さるように願っています。

山口凍渓先生の写真(大村小学校の初代校長でもある)
山口渓先生の碑(大村小学校の校庭) <拓本作業中>
山口渓谷先生の碑(写真右側の大きい自然石、場所:大村小学校の校庭) (写真奥左側に屋根は五教館御成門通称”黒門”と呼ばれている)

 ただし、先の項目で紹介した通り、『大村史話・中巻・下巻』の論文を引用・参照して、今回の碑文内容の概略は掲載していますので、ここに何が彫ってあるのか、あるいは記念碑で顕彰されている山口凍渓先生が、どのような功績を残されたのかは、分かると思っています。

 特に、江戸時代終わり、明治維新前後あるいは近代大村での教育界で凍渓先生が果たされた役割は、先の項目で詳細に書いた通りです。先生の教え子(門弟、門人)達が、その後、国や地方の役人あるいは民間企業などの重要な役職を担われた方も多かったと思われます。そして、その人達が今度は、先生の業績を称えて、この碑を建立されたことも書き加えてきました。

 山口凍渓先生は、現在の東京大学にあたるような幕府直轄だった江戸の昌平黌(しょうへいこう)を卒業されたことでも分かる通り、秀才だったようです。現・大村小学校の初代校長として写真も残っていますが、この顔つきや眼光鋭いまなざしからも、そのことは偲ばれます。

 ただし、頭脳明晰(ずのうめいせき)なことだけではなく、今で言う旅行記を書かれていること、あるいは門弟達がわざわざ碑文に凍渓先生が酒を飲んでいたことなども彫り込んでありますので、けっこう闊達豪放(かったつごうほう)な人柄だったのではとも推測しています。

 近代で学校の先生になられた方も大勢いらっしゃるかと思いますが、これほど立派な顕彰記念碑が大村市内にあるのは、山口凍渓先生の碑一基だけではないでしょうか。長崎県内でも珍しいと推測しています。先生も立派だったかもしれませんが、この碑を建立された教え子(門弟、門人)達も素晴らしい人が多かったから出来たと思います。

 このようなことが語られるのは、何者にも代え難い、あるいは難しい人材育成という分野で先生が多大なる功績を残されたからでしょう。これらを評して、「山口凍渓先生は近代大村教育界において先駆者的役割を果たされた」と考えられます。

 明治維新を経て近代になり、学校制度は、全国的に徐々に整えられたと推測しています。ただし、それ以前、他藩よりも率先して大村藩は、寛文10(1670)年に藩校の集義館(後の五教館)を開校し、教育に力を注ぎました。そのことが結果として明治維新前後に大村藩が大活躍した原動力であったことも先に紹介した通りです。

 このことは、どんな立派な学校を造ったとしても、そこで教える先生や学生が努力されない限り達成できないことでもあります。この顕彰記念碑は、そのようなことも分かる内容でもあります。この碑の直ぐ近く(道路側に面した所)には、観光コースにもなっている五教館御成門(通称”黒門”)があります。

 しかし、山口凍渓先生の碑は、大村小学校の校庭側に静かに立っています。また、先に紹介しました『大村史話(中巻・下巻)』以外の書籍類などには、何も紹介もされていません。学校の校庭内に碑はありますので当然、配慮は必要です。でも、せめて市民や郷土史愛好家などが良く読まれている書籍類だけでも、凍渓先生の功績と、ある面県内でも珍しい先生の顕彰記念碑について、再評価して欲しいと私は思っています。

(初回掲載日:2013年2月7日、第2次掲載日:2月8日、第3次掲載日:2月10日、第4次掲載日:2月21日、第5次掲載日:2月27日、第6次掲載日:2月28日、第8次掲載日:3月4日、第9次掲載日:3月5日、第10次掲載日:3月7日、第11次掲載日:2020年2月16日)

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