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妙宣寺本堂再建記念碑(大村市福重町、妙宣寺の境内) <2009年5月26日、拓本作業中の写真>
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概要紹介
名称:妙宣寺本堂再建記念碑(みょうせんじ ほんどう さいけんきねんひ)、所在地:大村市福重町116 (深重山妙宣寺の境内、鐘突き堂の東側)
この記念碑は、大村市福重町にある深重山妙宣寺(しんじゅうざん みょうせんじ)の境内にあります。この周辺(福重・松原・竹松)には、かつて”郡七山十坊”と称されるように古い寺院が数多く存在しました。しかし、戦国時代の天正2年(1574)にキリシタンによる僧侶・峰阿乗の殺害(峯阿乗の碑紹介ページを参照)あるいは神社仏閣の焼き討ち・破壊・略奪などの他宗教弾圧事件が起こり、ことごとく仏教寺院はなくなりました。
その後、江戸時代になり仏教の再建がありましたが、その中でも妙宣寺は、慶長7年(1602)に極楽寺院(現在の宮小路付近)に祈願所を設け、仙乗院と名付け創建されました。この創建は、大村市内で最も古い日蓮宗の仏教寺院です。しかし、長崎街道沿いで賑やか過ぎるのと水の確保に不便だったため、慶長19年(1614)に現在地(当時の矢上郷)に移転しました。その時に寺名も現在の深重山妙宣寺となりました。江戸時代には、寺領21石3斗程と、1,335軒の檀家(だんか)をかかえました。
時代は下り、明治18(1885)年に妙宣寺は、大火がありました。その後、地元の有力者始め檀家の力添えで浄財を集められ、当時、無檀家になっていた池田山宝円寺の本堂を購入され移築・再建されました。この碑は、本堂再建を記念して明治20(1887)年に建立されたものです。
現在の妙宣寺・本堂は、一部改築や近代設備などが当然施されていますが、先の経過からして本堂全体としては江戸時代の建築方式が、そのまま残っていると言えるでしょう。江戸時代からの、このような大きな建物が現在でも存在しているのは、市内では珍しいことかもしれません。
記念碑になっている自然石の高さは約148cm、横幅は約100cmですから、そう大きくはありません。上野の個人的評価ながら(キリシタンに殺害された)峯阿乗の碑ほどではないですが、石材の質はいいものです。また、碑文内容、彫り方は、峯阿乗の碑と比べても甲乙つけがたいくらい立派です。近代建立の自然石記念碑では、大村市内でベスト3に入るでしょう。
あと、この碑文編集者名で「山口凍渓」の文字が見えます。この凍渓先生は、明治維新前後あるいは近代大村の教育界において先駆者と言うべき人です。(詳細は山口凍渓先生の碑紹介ページ参照)
1)記念碑の大きさなど
妙宣寺本堂再建記念碑の大きさは、下表の通りです。一見したら平たくて厚さが薄い自然石です。下表に書いていませんが、土台石は石碑本体に合わせたような感じで目算で横幅160cm位ありそうな石です。石碑本体と土台石との合計の全体高では、人の背丈位です。石碑本体は、「迫力ある」とか「圧迫感ある」みたいな大きさではなく、むしろ記念碑としては、丁度良い位と思われます。
妙宣寺本堂再建記念碑の大きさ
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石碑本体 |
高さ:約148cm |
横幅:約100cm |
胴回り:約115cm |
表面文字部分 |
高さ:約93cm |
横幅:約72cm |
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裏面文字部分 |
高さ:約72cm |
横幅:約79cm |
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この大きさは、たぶん表面と裏面に彫られている碑文の文字数(面積)に合わせた収まりの良い感じの石を石工さんが選ばれたからだと想像しています。あと、拓本作業をしてみて分かったのですが、この自然石は大村で良く見られる石です。しかし、石材の質は良いものです。そのため、建立後、既に(2013年現在)約126年経っていますが、拓本紙に鮮明に文字が浮き出てきます。
その碑文内容も彫り方も、峯阿乗の碑と比べても甲乙つけがたいくらい立派です。個人的推測ながら大村市内で近代建立の自然石碑文では、かなり高位にあると思えます。
--------(下記原稿は、準備中。 しばらく、お待ち下さい)---------
2)記念碑建立に至る経過など
(この原稿は準備中)
3)碑文内容(概略)について
(この原稿は準備中)
4)碑文編集者の山口凍渓先生について
妙宣寺
(この原稿は準備中)
まとめ
(この原稿は準備中)
(初回掲載日:2013年3月3日、第2次掲載日:3月 日、第3次掲載日:3月 日、第4次掲載日:3月 日、第5次掲載日:3月 日、第6次掲載日:3月 日、第7次掲載日:3月 日)
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