紹介シリーズ |
大村の経筒紹介シリーズ |
経ヶ岳の経筒 |
<注:「経ヶ岳の経筒」は現存していないので、その写真は掲載していない> 概要紹介 (大村)郷村記を参照しますと、この経ヶ岳の経筒は、江戸時代に経ヶ岳の頂上(1076m)周辺で発見されました。その郷村記を現代語訳で概要のみを次の<>内に青文字で書きます。 < (前略) 大昔、この山頂には壺(つぼ)に経文(経典)を納めて埋めた所なので、経ヶ岳と名付けられたと伝聞されてきた。 (中略) 天明元年(西暦1781年)十月にある人が頂上を掘って見たところ、一つの壺(つぼ)を手にした。その壺の中を見ると経文(経典)があった。しかし、壺が割れ、経典は腐敗してキッチリは読めなかった。惜しかったので、ただ文字の見えるところだけを写しとった (中略) 壺が割れて紙きれにて知らせる。 この如法経(筆写した経文)は、永仁二年(西暦1294年)卯月(陰暦で四月)上旬である。> 上記の(大村)郷村記の内容も、山頂で書き写した年号も正しいとするならば、経ヶ岳の経筒を埋めた(建立)年月は、永仁2年(1294年)4月上旬となります。ご参考までに、この永仁2年(1294年)は、鎌倉時代、北条貞時の頃です。 この年代よりも早い時期に、蒙古軍の襲来<文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、元のフビライの軍が日本に攻めてきた事件>がありました。その事件から、既に10数年は経ってはいます。しかし、この鎌倉時代、未曾有の大事件であった蒙古軍の襲来は、その後も人々を不安に落し入れました。そのような大事件と、この経筒の件も無関係とはいえないのではないでしょうか。 また、九州(特に長崎県大村市、佐賀県鹿嶋市)の経筒、経塚、さらに経塚の上の乗っていたといわれている滑石製平安仏(単体仏)は、平安時代後期頃から鎌倉時代初期に建立、埋経されたともいわれていますので、経ヶ岳の経筒も、同時代の背景があるとも思えます。 あと、この経ヶ岳の経筒は、大村の経筒の7個(基)の中で、最も新しい年代のものと思われます。他の経筒の年代や大きさなどの概要は、「現存6個などの概要紹介」ページを参照願います。 なお、この経ヶ岳の経筒は、先の郷村記によれば、この山名=経ヶ岳の由来といえます。ご参考までに、上野調べながら山名の由来が、経筒(経典)からというのは、大村市内・長崎県内では唯一であり、全国でも珍しい事例といえます。 (中間及び後半原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2019年6月26日、第二次掲載日: 月 日、第三次掲載日: 月 日) |