紹介シリーズ |
大村の経筒 |
現存6基(個)などの概要紹介 |
経筒とは、広辞苑の解説によりますと、次の<>内通りです。 <経筒(きょうづつ)=経典を入れて経塚に埋めるために用いる筒。多くは円筒形・六角形・八角形で、青銅製・金銅製・鉄製・陶製・石製。筒の周囲に多くは埋経の趣旨が刻される。> 下記写真や表の通り、大村の経筒は現存6基(個)です。この6個の内、5個が福重地区(旧・福重村)から出土しています。また、現存はしていませんが、「経ヶ岳の経筒」は、江戸時代編さんの(大村)郷村記に建立年が記述されています。まずは、現存6基(個)の写真や、その概要を下記から参照願います。なお、下記写真の縮尺比率は、各々違いますので大きさなどは、各下段の数値を参照願います。
上記の大村の経筒の中で、建立年が分かっているのは、箕島の経筒の「文治元年(1185年)」と、経ヶ岳の経筒の「永仁二年(1294年)頃」です。経ヶ岳の経筒は、現存していないようですので、どのような形状をしていたか不明です。また、他の経筒4個(基)の建立年は、不明です。 ここからは、上野が調べた範囲内で推測含めて書いていきます。上記の建立年代を古い順番に並べますと、一番古いのが、弥勒寺の経筒で平安時代後期頃と思われます。その次に、草場の経筒その1、その2、その3は、その造り・形状・出土場所からして3個(基)とも同年代で平安時代後期頃でしょう。そして、建立年が記述されていた箕島の経筒の平安時代末期の「文治元年(1185年)」、次が推測ながら御手水の滝の経筒、(建立年がほぼ分かっている経ヶ岳の経筒の「永仁二年(1294年)頃」と続きます。 以上のことから、建立年代をまとめますと、大村の経筒は、平安時代後期頃が4個(基)、鎌倉時代初期中期が2個(基)と思われます。このことは、これら経筒・経塚の上に乗っていた滑石製平安仏(単体仏)の福重・松原に現存している9体と併せて、末法思想流行時の建立年代と容易に分かるものです。 ・大村の経筒・滑石製平安仏の現存数は平安時代後期前に既に仏教文化が花開いたことを物語っている つまり、末法思想の流行(経筒・経塚・滑石製平安仏の建立)の相当以前から福重・松原には、それらと深い関係がある仏教寺院が5〜6位、存在していなくては、これには対応できなかったことは必然ともいえます。 従来説の「大村で仏教文化が花開いていたのは中世時代」ではなく、奈良時代開山の(紫雲山)延命寺などから一寺院づつ創建され、平安時代中期あるいは遅くても後期前までに、最低でも5〜6寺院がないと、先の経筒や滑石製平安仏の数からして、考古学的に全くおかしなことになります。 上記の説を否定するような現行、大村市作成の書籍や市ホームページ類で書いてある「大村では中世時代に仏教文化が花開いた」説では、仏教寺院の創建より先に、経筒6個と、その上に乗っていた滑石製平安仏9体が建立されてたという摩訶不思議な時系列になります。 これを分かりやすく、仮に自動車に例えるならば、先に乗用車やトラック(経筒・経塚・滑石製平安仏)で出来ていて、そのエンジン(仏教寺院)が後で出来たと同じような内容です。念のため、このようなことは、考古学では考えられない発想や事柄です。先に紹介しました大村市作成の書籍や市ホームページ類で書いてある「大村では中世時代に仏教文化が花開いた」説は、根本的な改訂が求められています。 あと、なぜ、弥勒寺の経筒、草場の経筒その1、その2、その3の4基(個)は、建立年代が平安時代後期頃と推測できるかについて、下記の二つの事柄を書きます。 (1)箕島の経筒(建立年=文治元年(1185年)よりも、弥勒寺の経筒、草場の経筒その1、その2、その3の4基(個)は、相当古いタイプの経筒であること。 '(2)「草場の経筒その1、その2、その3」の3基は、現在、佐賀県立博物館に所蔵されている「佐賀県重要文化財 杵島郡大町町大谷口仏法堤経塚出土」の滑石製経筒に、姿形も大きさも良く似ている。そして、この経筒建立の説明文として、「平安時代後期の嘉保3年(1096)に埋納された経筒であることが知られる」とある。
だからこそ、かなり距離は離れているものの、「草場の経筒その1、その2、その3」の3基と、先の佐賀県「杵島郡大町町大谷口仏法堤経塚出土」の滑石製経筒と似ているのではないでしょうか? つまり、これらは、ほぼ同年代の建立、つまり「平安時代後期頃」とも思えます。 あと、「草場の経筒その1、その2、その3」の3基は、「如法寺跡」近くから出土しています。この「如法寺」は、紫雲山延命寺縁起によれば、郡地区の仏教寺院(合計14ヶ寺)と宗論が交わされた「久寿2年(1155)」に参加しています。 あと、全国的にも同寺院名の「弥勒寺」や「「如法寺」は共通して、経筒・経塚、そして大村の場合、滑石製平安仏を多く造ったといわれています。つまり、、それらの寺院は、末法思想が流行する平安時代後期よりも相当前に開山していたからこそ、その流行時に対応できたということです。このことは、先の例の通り、考古学的にも文献学的にもいえるということでしょう。 (後半原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2019年1月28日、第二次掲載日:10月9日、第三次掲載日:2022年6月15日) |