(史跡説明板)赤似田堤と赤似田水神(あかにたつつみ と あかにたすいじん))
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名称:赤似田堤と赤似田水神 |
様式:説明板 |
場所:大村市野田町(赤似田堤自体が目印) |
設置者:野田町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2016年3月1日(平成28年3月1日) |
GPS実測値:32度57分40.17秒 129度58分34.27秒 |
全体の大きさ:高さ174cm、横幅70cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'40.17"N,129°58'34.27"E |
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野田町にある赤似田堤と赤似田水神の史跡説明板(中央手前側)
<写真奥側が赤似田堤>
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史跡説明板写真周辺の説明
まず、右側1番目写真を参照願います。手前の道路の奥側に広がって写っていますのが、大村市野田町にあります赤似田堤(あかにたつつみ)です。写真中央手前側に白く見えていますのが、今回新設しました赤似田堤と赤似田水神の史跡説明板です。
竹松など国道34号線沿いから、この赤似田堤(ため池)へ、車で登ってこられる場合、宮代町の高良谷牧場などの案内板を目印にされれば、到着できます。そして、赤似田堤の面積は、満水時に1.5haもある広さですから直ぐに分かります。
あと、写真手前側に、ほんの少し写っています道路は、2車線もあります。さらに、この史跡説明板のある付近は、変形の四叉路みたいになっているため、かなり広くなっています。写真右奥側に横長に写っていますのが、赤似田堤の堤体(堤防)で、長さが90m、高さが7mあります。
なお、この堤は、次の項目にも書いていますが、元々は水田用の溜池(ためいけ)です。しかし、春夏秋冬、様々な野鳥も見れる所でもあります。特に、80%位しか貯水されていない時、その水辺を歩いている白鷺(しらさぎ)は、良く見ます。
また、先に紹介しました2車線道路工事で桜の木が切られる前は、堤の半分程度の外周部分は桜の名所でもありました。(補足ながら野田町の皆さん方で、また桜の復活をしようとの構想もあるようです)
赤似田堤の概略史など
この堤(ため池)の歴史含めての詳細紹介は、赤似田堤ページに掲載中です。ただ、今回設置の史跡説明板にも概略書いてますので、この項目でも少し箇条書き風に触れたいと思います。時系列に並べ、補足を書きますと、下記の順番と思われます。
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赤似田堤、堤かさ上げ工事完成祝い(式典) (推定ながら撮影年は1941年春で、工事自体は前年秋から開始されていたと思われる)
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(1)築堤工事 江戸時代初期の寛文年代(1661年から1670年頃)に、野岳湖などをつくった深沢儀太夫の二代目(弟の)深沢勝幸にて築堤された。築堤当時も堤体(堤防)の高さ5.5m位あり、そこから推測しても小学校の運動場が、軽く入るくらい大きかったと思われる。
(2)堤かさ上げ工事 推測ながら1940年(昭和15年)秋頃〜1941年(昭和16年)春頃まで、干害対策と食糧増産を目指して、堤体(堤防)のかさ上げ(1尺=1m50cm)工事があった。
そして、堤の大きさは、満水時面積1.5ha 貯水量104,000立方メートル、堤高(堤防):7.0m 堤長90m、耕地22haとなった。この工事は、完成祝いの写真も6枚ほど現存している。(右側上から2番目写真参照) (注:この工事写真は「大村の古写真シリーズ・赤仁田堤かさ上げ工事完成祝い記念の6枚写真」ページに全部の写真を掲載中)
(3)用水路のU字溝設置工事 赤似田堤への水供給用水路(通称「重井田井手」、その距離約2km)は、水漏れが毎年のようにあった。その漏水防止のため用水路へ、U字溝設置工事が、1989(平成元)年から開始され1997(平成9)年3月竣工まであった。
上記の(1)〜(3)のような大きな工事が、これまでありました。ただし、記録がないため、上記に書ききれない他の工事などもあったようです。
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赤似田堤の水神(本体の高さは55cm、横幅22cm。拓本作業中) |
赤似田水神について
この水神の詳細説明は、既に「福重の名所旧跡と地形」の「赤似田水神」ページに掲載中です。ただ、今回設置の史跡説明板にも概略書いてますので、この項目でも少し箇条書き風にして触れたいと思います。なお、右側上から3番目写真は、赤似田水神の(白色の和紙を貼り付けて)拓本作業をしている最中のものです。
・建立年:1899(明治32)年3月
・建立者:ほぼ全て当時の野田郷(町)の水利権者と推測 (拓本紙で名前も人数も分かっているが、この項目では省略)
・場所:赤似田堤の北北東部で道路の下側付近
・水神本体の大きさ 高さ:55cm 、横幅:22cm 、胴回り:79cm
・碑文の内容:「明治三十二年 水神社 己亥年三月之建」 (ただし、側面に彫ってある数十名の水利権者名などは省略)
・上記の現代語訳:「(赤似田堤の)水神(水神社)、明治32己亥(つちのとい、きがい)年(1899年)3月に之(これ)を建てた」
・石工:吉江光太郎氏など
この水神は、赤似田堤の中にあり、そのため、満水状態でも水濡れしないように最下部にある土台の石垣含めて水面より上側にある。また、水神本体の大きさは、大村市内でよく見られものと、ほぼ同じです。
あと、右側上から3番目写真でもお分かる通り、この水神の姿形は、普通一般にみられる形状です。顔を中心にレリーフ部分が盛り上がっていて、小さいながら整った形です。
史跡説明板の内容
右側上から1番目写真の中央部に写っています赤似田堤と赤似田水神の史跡説明板には、下記< >内の文章が書いてあります。(右下側の説明板の画像参照) 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。さらに、記号も一部変えて、表示しています。
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赤似田堤と赤似田水神の史跡説明板内容(PDFデータより加工)
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なお、この史跡の詳細説明は、「福重の名所旧跡と地形」の『赤似田堤』 、 『赤似田水神』紹介ページなどから参照願います。
< 赤似田堤と赤似田水神
この赤似田堤は江戸時代初期の寛文年間(一六六一〜一六七〇年)に、野岳湖などをつくった深沢儀太夫の弟の勝幸にて築かれたと伝えられている。
水は重井田町の佐名河内川から約二kmの井手(用水路)で供給されている。昭和一五〜一六(一九四〇?一九四一)年頃に干害対策や食料増産のため堤防(堤体)のかさ上げ工事がおこなわれ一気に貯水量が増大した。
また平成九(一九九七)年三月には通称「重井田井手」のU字構工事も竣工した。現在の大きさは面積一・五ha、貯水量一〇四〇〇〇立方メートル、堤高七・〇m、堤長九〇mで、耕地面積は二二haである。
赤似田水神は明治三二(一八九九)年三月、当時の野田郷の水利権者によって建立された。
二〇一六年三月一日 赤似田堤水利組合
野田町内会・福重地区活性化委員会 >
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・詳細な関係ページ:「福重の名所旧跡と地形」の『赤似田堤』 、 『赤似田水神』
(初回掲載日:2016年5月25日、第2次掲載日:5月26日、第3次掲載日:5月29日、第4次掲載日:5月30日、第6次掲載日:6月3日、第7次掲載日: 月 日)