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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 薬師如来と唐泉寺跡

(史跡説明板)薬師如来と唐泉寺跡
 名称:薬師如来と唐泉寺跡  様式:説明板
 場所:福重町(福重公民館南隣)  設置者:福重町内会、福重地区活性化委員会
 設置年:2018年3月1日(平成30年3月1日)  GPS実測値:32度57分57.75秒 129度57分05.43秒
 全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°57'57.75"N,129°57'05.43"E
 
(写真1) 中央部:薬師如来と唐泉寺跡の史跡説明板 (写真2) 中央上部:福重公民館(グーグルアース写真より)


<図A> <b>大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した) 
史跡説明板写真周辺の説明
 まず、(写真1)中央部に白板のように見えるのが、薬師如来と唐泉寺跡の史跡説明板です。その後方にあるのが、薬師如来の堂です。次に、(写真2)を参照願います。この写真の中央部やや上部が福重公民館で、その周囲が広い庭のある公民館敷地です。

 薬師如来のある場所は、この公民館敷地の南南東端側にあります。(写真2)の中央部やや左側(西側)を上下に走る市道から、この福重公民館へ行く場合、南側からならば階段を登ります。<下記(写真3)中央部やや左側の階段参照>

 その階段途中の西側(左側)には、矢上の馬頭観音があります。北北東側からならば、車でも敷地内に入れます。

 なお、補足ながら福重公民館の広い敷地では、(通常ならば)正月7日におこなわれる規模の大きい福重町の「鬼火焚き(おにびたき)」が有名でした。また、春には敷地周囲に町民の手で植樹された桜も、綺麗な場所です。

唐泉寺跡の場所について
 次に、右側の<図A>=「郡地方の寺院群」をご覧願います。この図は、『おおむらの史記』(1982年9月30日、大村史談会青年部・発行)18ページに載っているものです。

 図の中央部より、やや上側(北側)に祇園寺(左側=西側)とともに唐泉寺(右側=東側)が、図示されています。この場所は、現在の福重町公民館周辺です。ここは、大村市立福重小学校・東校舎の裏側(北東側)から、約110m離れた所です。

 この周辺の畑(石垣)には、いくつか石塔類の欠片(かけら)があります。また、現在の薬師如来の境内にも、石塔類が置いてあります。その中には、円相のある墓碑のようなものもあります。しかし、どれも詳細な碑文ではないので、これら石塔類唐泉寺にあったものとは、直ぐには言い難いものです。
(写真3) 中央部:薬師如来
(写真4) 唐泉寺跡周辺にある泉

 次に、(写真4)のを、ご覧願います。このは、唐泉寺跡ではないかと言われている福重町公民館の隣(南側)にある薬師如来から、直ぐ南隣の民家敷地にあるものです。いつも、コンコンと清らかな水が湧き出しています。なぜ、この唐泉寺跡と結びつくのか、それは大きな意味があります。

 は、人が生活する上で無くてはならないものです。当然、住職などの住居(場所)を選定する場合、飲み水の確保は最優先の条件だったでしょう。また、宗教上も水は必要です。福重・松原など丘陵地帯にあった寺院跡で共通(”条件”とも言える)なのは、「水の確保(泉の湧き出ている周辺)」と、「眺望が良い所」などです。

 この唐泉寺跡周辺も、先の2条件に合致しています。なお、この詳細については、既に「古墳と神社仏閣の場所(古墳と神社仏閣の場所は、なぜ共通項が多いのか? )」ページに書いていますので、参照願います。

史跡説明板の内容
 このページ上部から2番目(写真2)の中央部に白板のように写っています薬師如来と唐泉寺跡の史跡説明板には、下記< >内の文章が書いてあります。(右下側の説明板の画像=PDFデータより加工を参照)

薬師如来と唐泉寺跡の史跡説明板(PDFデータより加工)

 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。  また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。 なお、この史跡の詳細説明は、「福重の名所旧跡と地形」の『唐泉寺跡』紹介ページから参照願います。

 < 薬師如来と唐泉寺跡
 薬師如来の創建について大村郷村記を参照すれば「この場所は白河天皇(在位一〇七二〜一〇八六)時代の応徳二年(一〇八五)の創建で、宗旨は真言宗、本尊は七仏薬師なり」とある。ただし、この記述は「おおむらの史記」や「福重のあゆみ」によると、唐泉寺を指していると思われる。

 「紫雲山延命寺縁起(しうんざん えんみょうじ えんぎ)」によると久寿(きゅうじゅ)ニ年(一一五五)に郡地方の十四寺院が集まって宗論(しゅうろん)がおこなわれたのは、この寺の住職春輝による開催である。春輝は宗論に勝ったものの唐泉寺は、他寺院から焼き討ちに遭った。その後、薬師如来は再建されたが、また天正年間(一五七三〜一五九二)に今度はキリシタンによって焼き討ちに遭った。

 しかし、江戸時代前期の寛永一三年(一六三六)に再度建て直された。なお、唐泉寺跡は現在の薬師如来のある所もしくは隣の五道氏宅周辺と思われる。その近くからは五輪塔などの欠片(かけら)が多数見つかっている。この薬師如来は周辺の町民が毎年祭っている。

 二〇一八年三月一日  福重町町内会・福重地区活性化委員会 >


補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



・詳細な関係ページ:「福重の名所旧跡と地形」の『唐泉寺跡

(初回掲載日:2018年5月8日、第2次掲載日:5月15日、第3次掲載日:5月17日、第4次掲載日:5月20日、第5次掲載日: 月 日)


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