最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク
大村の史跡説明板・案内板シリーズ 松原庄屋跡(まつばら しょうや あと)

(史跡説明板)松原庄屋跡(まつばら しょうや あと) 
 名称:松原庄屋跡  様式:説明板
 場所:大村市松原本町(松原小学校の敷地内)  設置者:松原地区活性化協議会
 設置年:2020年3月21日(令和2年3月31日)  GPS実測値:32度58分23.94秒 129度56分35.77秒
 全体の大きさ:高さ190cm、横幅70cm  国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°58'23.94"N,129°56'35.77"E
(写真1) 中央部の白板が松原庄屋跡史跡説明板、その手前は石垣と旧・長崎街道、奥側は松原小学校(校舎と運動場)

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、(写真1)の中央部に白板のように写っています松原庄屋跡の史跡説明板は、現在、大村市立松原小学校の敷地内にあります。より詳細にいえば、運動場と石垣の間にある植栽の植わっている場所に立っています。また、現在は使用されていないようですが、同校の正門2基の内、(学校に向って)右側(北側)から約1mの所です。

 注:(用語解説) 庄屋(デジタル大辞泉より)「江戸時代、村落の長。地方 (じかた) 三役の最上位。年貢納入責任をもち、村の自治一般をつかさどった。主に関西での呼称で、関東では名主 (なぬし) 、北陸・東北では肝煎 (きもいり) と称した。  <上野の補足:極簡略化すれば「村長」もしくは「村役場」みたいなものか>

(写真2) 石垣の右奥側=学校正門の北側にある松原庄屋跡史跡説明板、石垣の右側は旧・長崎街道、左側は松原村庄屋跡(現・松原小学校の敷地)
 また、この石垣は正門の空いた場所を除けば目視で(直線の合計)約60mあります。そして、素人の上野が見た目で、一部分の(新しく)つき直しも見られますが、石垣の多くは、明治時代初期に松原村の庄屋(注:参照)が廃止される以前のものと推測されます。あと、この石垣は、庄屋の敷地と、その前を通る道路=長崎街道とを分ける役目もあったと思われます。(写真2参照)

 同時代の大村藩は、一般に良く「大村藩領48ヶ村」と、いわれています。今の大村市内にも、かつて例えば松原村の南隣の福重村、竹松村、萱瀬村などを始め、現在の「大村8地区」のもとにもなった村や町があり、当然、各々の村には庄屋もありました。ただし、その多くの庄屋跡は、良く調べたら今も確認できますが、この松原村の庄屋ほど直ぐに場所や、敷地の大きさが分かりやすい所はないと推測されます。

 その確認しやすい要因は、この石垣が今もあり、先の庄屋跡を明確に示すように目立っているからでしょう。また、この石垣は、松原村の庄屋跡を明示するだけなく、「旧・長崎街道は、ここを通っている」との大きな目印や目標物にもなっています。

 そのようなことから、松原村の庄屋跡や、ここを通る長崎街道跡を紹介をする場合、大村市教育委員会発行の「大村市の文化財」を始め、多くの書籍類やホームページなどに必ずと言って良いほど、(写真2)と同じような石垣と道路の写真が掲載されています。

史跡説明板の内容
 このページ(写真1)中央部に白く写っています松原庄屋跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。先の説明板を拡大したのが、右側下段の(写真3)です。

(写真3) 松原本町、松原庄屋跡史跡説明板(本体部)
 なお、(写真3)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

< 松原庄屋跡
 ここは、松原村の庄屋があった場所です。庄屋とは、江戸時代の村役人で、年貢を集めたり、村人の戸籍の届けをまとめ、藩から村に命じられた道や橋の修理の指揮、藩からの連絡事項の伝達など、村のまとめ役でした。村の百姓の中から任命されていました。
 
 庄屋の制度は、明治五年に全国で廃止され、庄屋の屋敷は松原小学校になっています。

 令和二年三月三十一日
 松原宿活性化協議会 >


 補注1:上記に「庄屋の制度は、明治五年に全国で廃止」とある。この「明治五年」(1872年8月)には、当時の福重村寿古郷(現在の大村市寿古町)に福重と松原とで共同して、「福重小学校」が開校している。そして、翌年の「明治六年」=1873年10月7日、福重村と分離して、旧庄屋を校舎として松原小学校として独立している。

 補注2:上記の補注1の通り、松原小学校は、福重小学校とともに、「明治5(1872)年8月の創立」なので、大村市内で最初の小学校で最古の公立小学校(県内でも同様か?)である。また、福重小学校は、その後、明治時代の水害や、先の大戦時に福重飛行場ができたため現在地(福重町)に至るまで3度の移転を余儀なくされた。しかし、この松原小学校の敷地は、一部拡張があったものの江戸時代頃の松原庄屋と変わりなく、その意味で場所自体も古いといえる。

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



・関係ページ:
(初回掲載日:2021年3月4日、第2次掲載日:3月10日、第3次掲載日:3月14日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日) 


大村の史跡説明板・案内板シリーズ(もくじ)
「大村の歴史」シリーズ(もくじ)

最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク