大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 松原庄屋跡(まつばら しょうや あと) |
史跡説明板写真周辺の説明 同時代の大村藩は、一般に良く「大村藩領48ヶ村」と、いわれています。今の大村市内にも、かつて例えば松原村の南隣の福重村、竹松村、萱瀬村などを始め、現在の「大村8地区」のもとにもなった村や町があり、当然、各々の村には庄屋もありました。ただし、その多くの庄屋跡は、良く調べたら今も確認できますが、この松原村の庄屋ほど直ぐに場所や、敷地の大きさが分かりやすい所はないと推測されます。 その確認しやすい要因は、この石垣が今もあり、先の庄屋跡を明確に示すように目立っているからでしょう。また、この石垣は、松原村の庄屋跡を明示するだけなく、「旧・長崎街道は、ここを通っている」との大きな目印や目標物にもなっています。 そのようなことから、松原村の庄屋跡や、ここを通る長崎街道跡を紹介をする場合、大村市教育委員会発行の「大村市の文化財」を始め、多くの書籍類やホームページなどに必ずと言って良いほど、(写真2)と同じような石垣と道路の写真が掲載されています。 史跡説明板の内容 < 松原庄屋跡 ここは、松原村の庄屋があった場所です。庄屋とは、江戸時代の村役人で、年貢を集めたり、村人の戸籍の届けをまとめ、藩から村に命じられた道や橋の修理の指揮、藩からの連絡事項の伝達など、村のまとめ役でした。村の百姓の中から任命されていました。 庄屋の制度は、明治五年に全国で廃止され、庄屋の屋敷は松原小学校になっています。 令和二年三月三十一日 松原宿活性化協議会 > 補注1:上記に「庄屋の制度は、明治五年に全国で廃止」とある。この「明治五年」(1872年8月)には、当時の福重村寿古郷(現在の大村市寿古町)に福重と松原とで共同して、「福重小学校」が開校している。そして、翌年の「明治六年」=1873年10月7日、福重村と分離して、旧庄屋を校舎として松原小学校として独立している。 補注2:上記の補注1の通り、松原小学校は、福重小学校とともに、「明治5(1872)年8月の創立」なので、大村市内で最初の小学校で最古の公立小学校(県内でも同様か?)である。また、福重小学校は、その後、明治時代の水害や、先の大戦時に福重飛行場ができたため現在地(福重町)に至るまで3度の移転を余儀なくされた。しかし、この松原小学校の敷地は、一部拡張があったものの江戸時代頃の松原庄屋と変わりなく、その意味で場所自体も古いといえる。 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ: (初回掲載日:2021年3月4日、第2次掲載日:3月10日、第3次掲載日:3月14日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日) |
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