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福重小の紹介

(大村市立)福重小学校の開校の歴史
注:上記は合成画像(カラー線も上野が引いた) 大村市史・第四巻(近代編)、189ページに「明治五年八月 福重小学校創立」と記述してある。

福重小学校の開校の歴史
 (「大村市立福重小学校の歴史」や、その「年表」ページを参照願います)

はじめに
  右側1番目の画像通り、2016年3月31日に発行された大村市史・第四巻(近代編)、189ページの「小学校教育」の『大村における小学校の創立』項目先頭に、 福重小学校の創立が書いてあります。その内容は、 「明治五年八月 福重小学校創立」と記述してあります。

  これまでも、「福重小学校の創立年」については、学校の公式記録でも、この福重ホームページでも「創立は明治5年」の表示で、創立年までは書いてきました。今後は、大村市史・第四巻189ページにあるように、「福重小学校の創立年月は明治5年8月」と、月も入れた表示で記述していきたいと思っています。

なぜ、開校の歴史を書いているか

 既に、「大村市立福重小学校の歴史」や、その「年表」ページがあるにも関わらず、なぜ今回この福重小学校の開校の歴史ページを新規掲載しているかについて、この項目から書いていこうと思っています。その開校に至る前の事柄がいくつかありますので、そのことから先に触れます。

(1)江戸時代までの教育の状況について
 この項目、江戸時代から近代国家になる前の教育状況は、どうだったのかと言いますと、教育施設として、いくつかの藩には藩校(藩の学校)があり、それは主には武士などの子息が中心でした。一例として、大村藩の場合は、五教館(ごこうかん)がありました。ご参考までに、五教館の場合、武士の子息だけでなく、町人などの子どもも入学が許されていました。

 また、各藩内の各地域には、一般に寺子屋(てらこや、下記の国語辞典参照)と呼ばれる教育もありました。ただし、先の藩校も寺子屋も学んでいたのは、武士、神官、僧侶、商人、豪農などの子弟が多く、後の用語で「国民皆学」という言葉もありますが、そのような状態になってはいなかったと思われます。

寺子屋(てらこや)=江戸時代の庶民のための初等教育機関。武士・僧侶・医者・神職などが師となり,手習い・読み方・そろばんなどを教えた。寺。寺屋。(国語辞典の大辞林より)

(2)明治維新以降の教育の変化
 明治維新以降、それまでの封建国家から、近代国家に生まれ変わるために次々と新しい制度、政策が打ち出され、重要な法令なども施行されていきました。その一例が、中央集権制、廃藩置県、身分制度の廃止などがあります。(この項目では、これらの内容は全て省略)

 教育についても、日本のあらゆる分野の基礎づくりにするため、それまでの藩校や寺子屋と違った近代的な教育改革もおこなわれました。それらを進めるために、明治4年7月18日には文部省が設置されました。また、その後、近代学校制度の基本法令と言うべき学制(下記の辞典を参照)も、明治5年8月2日に発布されました。

 これらの詳細は文部科学省サイトの「一 幕末維新期の教育」、「二 近代教育制度の創始」、「三 近代教育制度の確立と整備」ページなどから参照願います。なお、大村市史・第四巻(近代編)184ページからの「近代教育制度の導入」の項目にも、詳細に書いてあります。

  学制(がくせい)=日本最初の近代学校制度に関する基本法令。明治5 (1872) 年発布,その後条文の改正追加が行われ,日本における近代学校の成立発展の基礎となった。同4年に設置された文部省は全国に実施する学校制度を確立するため,学制起草委員を任命して学制を立案制定した。(ブリタニカ国際大百科事典より)

 この学校制度の体系は、小学、中学、大学の三段階を基本としたものでした。その中で、今回その一部について書いています。その前に、実は全国の小学校開校への経緯について、先の文部省設置前頃から、「小学校をつくろう」みたいに言われていたのです。しかし、京都府など一部の県しか進んでいませんでした。

 それで、文部省は、全国どの府県もいっせいに小学校の開校をすすめるため、先の学制(明治5年8月2日)を公布して、法令をもって強力に推進していったのでした。そのことを事前に知っていた府県や市町村では、小学校開校に向けた準備も公布前からおこなわれていたと思われます。

福重小学校の開校
 江戸時代末期頃、当時の福重村(現在の大村市福重地区=10町内、福重小学校の校区)の教育状況についての資料は、残念ながら、ほとんどありません。ただし、「南鷹次郎先生誕生百年記念 南鷹次郎」(昭和32年12月5日発行、南鷹次郎先生伝記編纂委員会)15ページに、次の<>内のことが書いてあります。また、南鷹次郎については、下記<>内の人名辞典を参照願います。 

1872(明治5)年8月創立の福重小学校、当時の創立場所に建てられている記念碑(大村市寿古町の株田)

 「 四 少年時代  (一)寺小屋時代   先生は八才から十才まで福重村の寺小屋に通って、井手某という師匠から習字と漢学を学んだ。 (後略) 」

  < 南鷹次郎=1859−1936 明治-昭和時代前期の農学者。 安政6年3月生まれ。明治22年母校札幌農学校の教授,40年東北帝大農科大学教授。農科大学が北海道帝大となると,農学部長をへて昭和5年2代総長。教育と北海道農業の発展につくした。昭和11年8月9日死去。78歳。肥前大村(長崎県)出身。 (デジタル版 日本人名大辞典より)>

  上記「」内でも分かる通り、当時の福重村にも寺子屋の「井手塾」があったことが分かります。また、先の本には、武士などが隠居(いんきょ)した後、地域の子息などに教えていたことも書いてあります。つまり、藩校みたいに整った学校ではなくても、各村でも寺子屋みたいな感じで教育の機会や場所はあったものと推測されます。

  そして、明治維新後、明治4年7月18日、文部省の設置前後頃から全国で、小学校の開校を進める動きが始まりました。そのような動きに呼応するような形で、長崎県内でもあったものと思われます。さらに、先の項目でも紹介しました通り、文部省は学制(明治5年8月2日)を公布して、法令をもって強力に小学校開校を推進していきました。

  その法令は、準備期間がありました。その間に福重村は、例えば小学校の場所決め、教育用の什器備品や両親(児童)への就学呼び掛けなどの準備をおこなったと推測されます。そして、学制の公布月日(明治5年8月2日)に合わせるような形で、福重小学校は開校を迎えたと思われます。ですから、先の大村市史・第四巻に書いてある通り、 「明治五年八月 福重小学校創立」なのです。

 開校当時は、福重だけでなく、松原も一緒で児童数は8名でした。場所は、寿古郷(町)の「株田」で当時の福重村の庄屋(役場)跡と言われています。ここには、現在、右上から3番目写真の通り、福重小学校跡の記念碑があります。

 なぜ、このように公立の学校として福重小学校の開校が速かったかと言いますと、それは、藩校=五教館みたいな所が福重村にはなかったので、逆に、「国の法令に合わせて、公立の小学校を開校しなければならない」みたい理由だったのかもしれません。逆に、五教館のあった旧・大村町は、公立の小学校開校は約1年遅れとなり、下表にある通り藩校の廃止と同時に、玖島小学校(現・大村小学校)の開校となったのでした。

明治時代、公立学校としての各小学校開校年月

 先の項目で紹介しています大村市史・第四巻(近代編)の189〜191ページに明治時代に創立された『大村における小学校の創立』項目があります。そして、そこには創立順に、現在の大村市立小学校が書いてあります。ただし、当時は現在の大村市(1942年2月11日に発足)になる、はるか前なので松原村、福重村、竹松村、萱瀬村、西大村、大村町、鈴田村、三浦村などは合併前の独立した自治体でした。

 さらに標題でも分かる通り、下表はあくまでも明治時代に創立された小学校だけですから、明治時代以降に創立された小学校は、189〜191ページに記述されていません。ここでは、一覧表で分かりやすくするため、その学校名、創立年、創立場所、特徴などを書いています。

 また、下表の例えば学校名などは創立後も、様々な変遷がありますが、ここでは大村市史・第四巻に記述してある内容を中心に書いています。なお、公立の小学校とは、県市町村が明治維新以降、つまり近代の教育施設として建てた小学校のことを指していますので、江戸時代の藩校や寺子屋のことではありませんので、ご注意願います。

-
公立の小学校名
創立年

創立場所(現在の町名に直した),、その他、特徴的な事柄など

市HP
1
福重小学校 明治5年8月 寿古(町の「株田」。児童数8名。明治12年に立福寺町に分教場設置、まもなく廃止。
2
鈴田小学校 明治6年1月 岩松町の旧庄屋跡に開校。
3
竹松小学校 明治6年3月 茅屋で開始、数年後、旧庄屋に移転。
4
玖島小学校(後の大村小学校 明治6年7月 玖島1丁目(五教館跡)、五教館の廃止年月も前同。児童数180名(男120、女60)
5
萱瀬小学校 明治6年9月 原町の庄屋跡に平屋一棟の新築で創立。
6
松原小学校 明治6年10月 福重村と分離し庄屋跡を校舎として(福重小学校から)独立。
7
池田小学校(後の西大村小学校) 明治6年11月 古町の庄屋跡に創立。児童数85名(男75、女10)
8
三浦小学校 明治7年1月 日泊町の福田家の自宅を教室。同年7月、宮崎神社付近に新築移転。
9
黒木小学校 明治7年6月

縦4間(7.2m)、横3間(5.4m)の校舎を新築

 重複しますが、上表記載の学校名は、あくまでも明治時代創立の小学校のみです。しかし、2016年現在、大村市立の小学校は、次の<>内の学校名(全15校)があります。(下記順番は、大村市ホームページ・「小学校」ページの掲載順と同じです)

 <
 三浦小学校 、鈴田小学校 、三城小学校 、大村小学校 、東大村小学校 、西大村小学校 、中央小学校 、竹松小学校 、萱瀬小学校 、黒木小学校 、福重小学校 、松原小学校 、放虎原小学校 、旭が丘小学校 、富の原小学校 

 上表記載の有無に関わらず、各々の学校とも創立年月、創立場所、特徴、その後の変遷も含めれば、たくさんの事柄が様々あります。あくまでも仮の話ですが、「大村の小学校の変遷史」と言う詳細な冊子を作成するならば、それだけでも、かなりのページ数になりそうなことが推測されるほどです。ですから、上表内容は、極一部の事柄しか触れていないことを、ご了承願います。


補足

 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)


(第一次掲載:2016年6月17日、第二次掲載:6月19日、第三次掲載:6月22日、第四次掲載:6月24日、第五次掲載: 月 日)

 

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