大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 武士の墓<渡辺伝弥久(でんやく)の墓>と馬の墓 |
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史跡説明板写真周辺の説明 まず、(写真A)から参照願います。この写真の中央部に白い板のように見えているのが、今回紹介しています武士の墓<渡辺伝弥久(でんやく)の墓>の史跡説明板です。(写真撮影:2019年4月15日) この場所を説明するには、近くに目印になるものがないので難しいです。(上表の緯度経度やグーグルアースの入力数値から確認を願います) そのようなことから、次からは、この場所の大まかな位置関係の紹介です。
大村市内から行く場合、鈴田大神宮周辺から旧・長崎街道を登り、直線で900m弱(道路距離ならば1km強)行った所の直ぐ下側(南側)へ数メートルの地点にあります。逆に、諫早方面からならば「籠立場跡・藩境」などのある鈴田峠(無舗装の自然道)を大村側へ下り、舗装道路に出た辺りから直線で300m強、さらに下った所になります。 (写真A)と(写真1、3)でもお分かりの通り、この場所は、2基の墓碑があります。まず、(写真A)の右奥=(写真1、3)の左奥側にあるのが、四角形の小さな形状(高さ30cm、横幅22cm)ながら碑文のある墓碑です。(この碑文のある墓碑は、後の項目で詳細に紹介予定) あと、もう一基は、(写真1)の中央部または(写真3)の手前右側に、頭部が尖って(とがって)高さや大きさ(高さ1m43cm、横幅47cm)もあるのが、碑文のない墓碑です。普通に考えるながら、碑文のある墓碑=渡辺伝弥久(でんやく)の墓と思えます。だから、碑文のない墓碑が、馬の墓というと、そうではないと、私は考えています。 <注:上記の2基の墓碑は再調査しています。このページの部分改訂も含めて考えていますので、しばらく、お待ちください> (この後半原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 史跡説明板の内容
天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉は島津氏を降伏させ、九州を平定しました。その二年後(一五八九)、大村純忠(すみただ)の末弟である肥後天草の志岐(しき)城主、志岐麟泉(りんせん)が謀反(むほん)を起二しました。 そのとき、この墓の被葬者渡辺伝弥久は、大村喜前(よしあき)(純忠の子で初代大村藩主)の使者として志岐氏を諌(いさ)めに行きました。 しかし、その計らいは実を結ぱなかったばかりか、伝弥久は帰路で大雪に遭(あ)い、この場所で家来、馬とともに亡くなったといわれています。よって、俗称「武士の墓」として祀(まつ)られています。 渡辺伝弥久は元亀三年(一五七二)七月、武雄の後藤貴明(たかあきら)が平戸の松浦氏、諫早の西郷氏とともに、純忠の居城である三城城を攻撃した折の、「三城七騎籠(こも)り」の武将の一人です。 そして幕末、明治維新期に活躍した渡辺清・昇兄弟の先祖にあたります。 平成三十一年三月三十一日 住みよい町づくり「チーム鈴田」 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) (初回掲載日:2019年4月22日、第2次掲載日:6月23日、第3次掲載日:7月27日、第4次掲載日: 月 日、第5次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日、第7次掲載日: 月 日) |
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