(史跡説明板) 上河原の弁財天(かみかわら の べんざいてん)
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名称:上河原の弁財天 |
様式:説明板 |
場所:沖田町(上川原の集会場) |
設置者:沖田町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2019年3月1日 |
GPS実測値:32度57分33.73秒 129度56分40.10秒 |
全体の大きさ:高さ150cm、横幅70cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'33.73"N,129°56'40.10"E |
史跡説明板写真周辺の説明
(写真1参照) この上河原の弁財天は、大村市沖田町の上川原(上河原、かみかわら、地元では「かみごうら、かんごら」と呼称)の上川原集会所敷地内にあります。 (この集会所は、写真1の中央部やや右側にある。郡川は、その北側)
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(写真1) 沖田町、上川原集会所周辺の空中写真(グーグルアースより) |
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(写真2) 沖田町、上河原の弁財天と史跡説明板(上川原集会所敷地内) |
ここは、北側の郡川からならば約80m(左岸の堤防からならば直線で50m位)で、逆に南側にあるに大村市立郡中学校・国道34号線・(旧)長崎街道からならば、約180mの位置にあります。長崎街道ウォーキングなどをされる方ならば、少しだけ寄り道をされるくらいの距離です。
この上河原の弁財天は、(写真2)の通り、現在は、石祠(せきし)の中にあります。ただし、以前は石祠だけでなく、お堂(建物)があったようです。それが、建物が大きくなり、発展した形で現在、上川原集会所となっています。そのようなことから、地元の方々は、集会所の中からも参詣されています。
ご参考までに、この集会所は、新築や増改築も含めて費用全額が、地元負担のみで建てられているようです。
・なぜ郡川近くにあるのか
再度、上河原の弁財天の位置関係に戻りますが、なぜ郡川近くに、この弁財天が建立されたかということです。ここからは、上野の推測です。それは、弁財天(弁天様)とは、インド神話で河川の女神のことですから、このことと郡川との関係が深いと思われます。
郡川は、大村市内最大の川で大村扇状地をつくった母なる川でもあります。また、大昔から住む人々に豊かな水と恵みを与えてもきました。しかし、過去から数多くの氾濫(はんらん)も繰り返して、その時は、”暴れ川”(あばれかわ)でもありました。
そのことは、近代でも例えば、1957(昭和32)年7月25日、26日の「大村大水害」時には、この沖田町の上川原集落や耕作地にも水が溢れ(あふれ)、水害に遭った(あった)といわれています。
そのようなことから、河川の女神である弁財天へ、郡川の氾濫を治め、江戸時代、貨幣価値(税金など)のあった米(コメ)を始め、農作物の豊穣(ほうじょう)を願って建立されたものと推測されます。
史跡説明板の内容
このページ(写真2)に左側に白く写っています上河原の弁財天(かみかわら の べんざいてん)の史跡説明板には、、下記< >内の青色文章が書いてあります。その説明板を拡大したのが、右側下段の(写真3)です。
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(写真3) 沖田町、上河原の弁財天の史跡説明板(本体部) |
なお、(写真3)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。
< 上河原の弁財天
この弁財天(べんざいてん)は地元で「かんごら(上河原)のびざいてん(弁財天)さま」」と呼ばれ、地域の守り神として祭られている。
(大村)郷村記によれば江戸時代の「天和元年(一六八一)に多羅山(たらさん)の法印権大僧都(ほういんごんのだいそうず)(最高位の僧侶のこと)によって建立」された。また、当時の広さは「境内は奥行が六間二(尺)<約十メートル>、横幅は五間<約九メートル>」と記されている。
大辞林によると、弁財天とは「インド神話で、河川の女神。音楽・弁舌(べんぜつ)・財福(ざいふく)・智慧(ちえ)の徳があり、吉祥天(きっしょうてん)とともに信仰された」と解説されている。この国語辞典を参考にすれば当時の建立目的として郡川(こおりがわ)の氾濫(はんらん)を治め農産物の豊穣(ほうじょう)、住民の安全や財産を守ることなどを祈願して建立されたと推測される。なお、現在、毎年七月と十二月に地域で大事に祭っている。
二〇一九年三月一日 沖田町内会・福重地区活性化委員会 >
補足
(この原稿、準備中。しばらく、お待ちください)
・詳細な関係ページ:『上河原の弁財天』
(初回掲載日:2019年5月15日、第2次掲載日:5月17日、第3次掲載日:5月18日、第4次掲載日:5月20日、第5次掲載日:5月 日)
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