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大村の歴史
大村大水害
大村大水害を語り継ぐことも大切では(天災は忘れた頃にやってくる)
主 な 内 容
掲載状況
 はじめに
掲載中
1)大村大水害当時、長崎県内外の水害の概要
掲載中
(1)当時の豪雨状況
掲載中
(2)当時の被害状況
掲載中
  ・長崎県内の被害状況
掲載中
  長崎県外の被害状況(熊本市の場合)
掲載中
  ・長崎、佐賀、熊本3県下の被害のまとめ
掲載中

2)大村大水害、大村市の記録より

掲載中
 ・水害発生
掲載中
 ・雨量
掲載中
 ・災害救助
掲載中
 ・救援
掲載中
 ・被害状況、大村市史より
掲載中
 ・二つの記録の補足と感想
掲載中
3)濁流(昭和32年7月水害作文集)について
掲載中
4)大村大水害時に流された碑文石は何を物語っているのか
掲載中
 ・滝壺脇から10mも流された”碑文石”
掲載中
5)水害を体験された方の話しと、私のかすかな記憶
掲載中
 ・私のかすかな記憶
掲載中
6)先人の教訓と大村市洪水ハザードマップ
掲載中
 ・大村市洪水ハザードマップ
掲載中
7)まとめ
掲載中
(1)大村大水害を語り継ぐことも大切では
掲載中
(2)災害に強い都市になるのは
掲載中
(3)河川愛護団体の紹介(一例)
掲載中
あとがき
掲載中

はじめに
 .天災は忘れた頃にやって来る  この言葉は国語辞典の大辞泉によれば、<天災は、災害の悲惨さを忘れたころに、再び起こるものである。高知市内の寺田寅彦旧居跡に建てられた碑に刻まれている文章>と書いてあります。

 大村は、一般に「大昔から天変地異が少なく、そのため人柄も穏やかな人が多い」とも言われています。確かに、そのような一面は否定しません。しかし、何も地震、台風、集中豪雨、大火などの災害と、大村は全く無縁の地域かと言えば、やはり同じ日本で同じ長崎県ですから規模の大小や回数が多いか少ないか別としても、色々な災害は過去発生していて、その記録も古くからあります。

(1957年、大村大水害の写真)水田住宅付近
(濁流が流れている)
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の65ページより

 この大村の歴史シリーズは、どちらかと言いますと近代史や現代史に関しては多くありません。しかし、今回なぜ、1957(昭和32)年7月25日に発生した大村大水害などについて書こうと思ったのか、いくつか理由があります。それは、主に下記の3点
 ・今年(2011年3月11日)発生した東日本大震災があったこと。
 ・地元の方の情報提供により大村大水害時に流された推定数トンの大きな石の碑文について3月に調査したこと。
 ・私の子どもの頃とはいえ大村大水害は実際に見た記憶があり、いずれ少しでもそのことを文章化しておこうと以前から思っていたこと。
などからです。

  私の記憶、補足、感想などは後で書く予定ですが、その前に大村市及び大村市教育委員会発行の大村大水害の記録がありますので、今回三つの書籍名などを最初に紹介します。『大村市史 下巻(1961年2月11日、大村市発行)『市政施行30周年記念特集号 大村のあゆみ(1972年2月11日、大村市発行)、『濁流 昭和32年7月水害作文集』(1957年12月12日、編集者:大村作文の会・大村市国語研究部、発行:大村市教育委員会)です。

 『大村市史 下巻』は、データ表・文章含めて詳細な記録(水害部分は約6ページ)です。『大村のあゆみ』は、写真集に文章が簡潔(前同約5ページ)にまとめられている作りです。さらに、『濁流』は、大村市立の小・中学校の生徒さんが作文された文章を中心に水害から復旧まで、あるいは天気図、豪雨分布図や被害状況図など(本全体146ページ)が掲載されています。

  ホームページ用としては、特集号『大村のあゆみ』の方が分かりやすいので、今回これを中心に写真、文章とも引用、参照し、さらには『濁流』の本については、文章や記録集を概要紹介する形て作成していきたいと思っています。なお、大村市内で大水害の記録などは沢山ある訳ではありませんし、『大村のあゆみ』は、簡潔にまとまった文章なので途中で省略すれば、かえって分かりにくくなりますので引用部分は全文紹介したいと考えています。なお、写真は全部で9枚が掲載されていますが、私のホームページ用サーバ(メモリー)容量の少なさから数枚の紹介で留めますので、その点はあらかじめご了承願います。

大村大水害の名称や発生年月日などについて
  大枠は同じであっても、この水害の発生日時や名称について人によって若干違うことを述べられる場合があります。このページでバラバラの書き方をすれば、かえって混乱の元になりますので、今回それら件について、下記の通りの表現と内容で統一的に書いています。この点あらかじめ、ご了承願います。念のため、この時の水害は、犠牲者や被害の規模が大きかったことから広く一般には諫早大水害と呼ばれています。
 (1)名称:大村大水害
 (2)発生年月日:1957(昭和32)年7月25日
 (3)犠牲者数:19名死亡
 (4)発生要因:記録的な豪雨<「80年ぶりと言われた雨量(730ミリ)を記録」(今日では”集中豪雨”とも呼ばれている)>

  あと、この時の水害は、長崎県内各地域で同時期に発生しました。大村市内より犠牲者や被害が大きかった諫早市の(本明川水系の水害)諫早大水害の方が、県内においては広範に知られています。ただし、この水害は、諫早市、大村市だけでなく島原半島や県内各地域さらには、佐賀県、熊本県まで広範囲に大きな被害が発生しました。

記憶は一代、記録は末代 「大村大水害を語り継ぐことも大切では
 私のもう一つのホームページ『上野ログハウス』の「聞いた言葉シリーズ(目次ページ)」第65回目に「記憶は一代、記録は末代」と言うページがあります。このページに人の記憶は、当初覚えていても長年経つと曖昧になる可能性があることや、記録に残さないとその記憶さえも一代でなくなっていくことを主に書いています。

 さらに、せっかく写真や文章を記録として書籍類に残しても、図書館でしか見れないものになっていては現在進行形として即座に調べたりすることもできない状況があります。そこで、あくまでも将来は別としてもホームページに書けば少しでも活用できる可能性があることも、先のリンク先ページには掲載しています。

 その例として、この当時の大水害記録集として諫早市ホームページには、『諫早大水害50周年記念誌(目次ページ)』が掲載されています。この内容は、市民も参加して原稿を書いておられます。全体悲しい災害ながら「あの日は忘れない」、「風化させない当時の記録」の見出しでも分かる通り、大変分かりやすいページです。また、災害当時のことだけではなく、現在・将来に向けての「防災へ取り組み」なども書いてあります。

(1957年、大村大水害の写真)水主町付近
道路は冠水、家屋には床上・床下浸水と思われる。ここは(旧・長崎街道)大村アーケード通りを過ぎて駅前通りを挟んで西側へ向かう道路と思われる。中央やや右側の電柱には「小川金物店」さらにその右側には「DPE」の文字が見え推測ながら「ナガノカメラ店」と思われる。
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の66ページより

 大村市のホームページには、諫早市みたいに大水害特集ページは見当たりませんが、1957(昭和32)年の「大村市政だより」に当時の災害状況が掲載されています。それは、いずれもPDFファイル形式で「1957(昭和32)年8月上旬号 No146 」、「1957(昭和32)年8月中旬号 No147」、「1957(昭和32)年8月下旬号 No148」、「1957(昭和32)年9月上旬号 No149」などです。水害発生直後の「市政だより」ですから、大村大水害の実情を生々しく伝えてあると言えます。

  あの水害を教訓に萱瀬ダム、重井田ダムなどを始め小さな川も含めて流域には防災、砂防ダムなども多く できました。しかし、保水能力を弱めるような山林を 開発、造成して造られたオフィスパーク、工場団地、 住宅地なども水害当時に比べものにならない位に広い面積で山間地に出来ました。 また、大村市内は土地が 安い分、田畑のど真ん中に工場、住宅地が、水害後たくさん出来ています。(これらは諫早市と全く違う施策のような気がします)

 田んぼは、ダムの替りにもなると言われるくらい貯水能力がありますが、現在では大村市内平坦部は 見渡す限り工場地、住宅地、道路などに変わりました。ある面このようなことは、都市発展上やむを得ないことかもしれません。しかし、いくつかのダムや川の堤防工事くらいで自然の圧倒的な、驚異的な力に立ち向かえるのでしょうか。

 1957年と同規模の集中豪雨が二度と起こらないと思うのか、あるいは起こっても大丈夫な態勢なのでしょうか。 原発事故などで度々用いられている「想定外」の言葉は責任逃れの便利な言葉です。しかし、 大昔から災害にも苦労された先人の教訓を無視 した現代人のやり方は、自然の驚異的な力の前では無力であることも、既に数多くの先人の記録が教えておられるような気がしてなりません。

 私が今回書こうとしている大村大水害についてのページは、諫早市ホームページの『諫早大水害50周年記念誌(目次ページ)』に比べれば、まるで”月とスッポン”みたいなものです。それでも、このページ掲載により、ほんのちょっとでも大村大水害を知るきっかけになればと考えました。つまり、個人的な希望ながら「大村大水害を語り継ぐことも大切では」との思いで、このページは作成しています。

 そのようなことから内容の不十分さは、私自身百も承知の上です。そのため出典資料やリンク先などは、しつこいくらい記入していますので、ご参考にされる方は、必ず原本や元データを閲覧願います。ささやかな内容ながら、この大村大水害ページを閲覧して頂ける皆様、よろしくお願いします。

(初回掲載日:2011年5月30日、第二次掲載日:2011年6月3日、第三次掲載日:2011年6月14日

1)大村大水害当時、長崎県内外の水害の概要
(1)当時の豪雨状況
 まず、広範囲に犠牲者や被害をもたらした水害の発生原因になった当時の気象状況から見ていきたいと思います。これからの数字やデータは、主に気象庁長崎海洋気象台サイトの「1957年(昭和32) 7月 諫早豪雨」から引用、参照して書いています。また、上図は元データから引用したのもですが、下図はレイアウト上、編集して一つにまとめたものです。
この点あらかじめ、ご注意願います。もしも、引用・参照される場合は、必ず「長崎海洋気象台、1957年(昭和32) 7月 諫早豪雨」から、お願いします。(注A〜注Fなどは上野が補足で書いたものです)

各地の日雨量(mm)
 
1957年7月25日
1957年7月26日
萱瀬(注A)
677.2
17.5
小長井(注B)
583.0
155.0
愛野(注C)
898.2
94.0
森山(注D)
988.5
135.8
(注A)=大村市、(注B、D)=現在の諫早市、(注C)=現在の雲仙市

各地の毎時雨量を合計した24時間の降水量(mm)
 
1957年7月25日朝〜26日朝までの合計
大村
732.0
北諫早
587.0
西郷(注E)
1109.2
多比良
846.4
島原
765.2
五家原岳
448.0
田代原(注F)
651.0
(注E)=現在の雲仙市瑞穂町、  (注F)=現在の雲仙市国見町
*各地とも雨量計測時間が違っているので、詳細は上記の気象庁サイトの元データをご覧下さい。

 上記二つの表を見ますと、いかに当時の雨量が凄まじいものであったか良く分かると思います。特に、(当時、南高来郡瑞穂町)西郷の雨量は、記録的でした。内閣府サイトの「災害概要(記録)」によれば、この西郷の1109.2mmの雨量は、その後1976年9月11日に発生した徳島県の日早の記録1114mmについで、(2011年6月)現在でも2番目の数字と思われます。あと、今回長崎県内だけでなく被害の大きかった熊本県の降水量関係も調べたのですが、私の探し方が悪かったのか把握できませんでした。

 このような雨量は、数字だけでなく分かりやす表現に変えるならば、大雨の時などに用いられる言葉として一般に「バケツで水をかけたような雨」と言います。上の表は、それが一時ではなく、ずっと長時間続いたことを意味していると思われます。

 また、この1957年以前の状況は、調べきれていません。そのため詳細は分かりませんが、私の推測として、その後も1982年(昭和57年)7月の長崎大水害が発生していますし、県内各地とも大昔から規模の大小は別としても度々、集中豪雨やその被害もけっこうあったと推測されます。いずれにしましても、この1957年7月の記録的な集中豪雨が、長崎県内外で大きな被害をもたらした主原因といえます。

(2)当時の被害状況
<長崎県内の被害状況
 下表は、水害当時の長崎県下の被害状況です。作成に当たり「長崎海洋気象台、1957年(昭和32) 7月 諫早豪雨」サイトの表から引用して作成しました。被害状況の表なので途中どれか省略とか統合するみたいな方法は、当然できませんので一部()内や「-」の記号などを除き、ほぼ元データ通りの書き方です。自治体の単位は、あくまでも1957年当時のものであり、その後、市町村合併などにより全ての自治体が変化しています。なお、下表の大村市の被害状況は重複しますが、次の項目「2)大村大水害、大村市の記録より」に詳細に書く予定です。

 
諫早市
大村市
島原市
佐世保市
南高来郡
北高来郡
その他郡
総計
死者(人)
519
19
12
5
46
74
30
705
行方不明者(人)
67
-
1
-
3
6
-
77
負傷者(人)
3500
14
1
5
107
38
70
3735
住家全壊(棟)
391
52
14
25
120
140
57
799
住家半壊(棟)
1113
97
17
7
117
110
1195
2656
住家流失(棟)
313
15
30
-
72
43
28
501
床上浸水(棟)
2301
1876
2500
252
2115
867
844
10755
床下浸水(棟)
2332
2993
3254
2162
4007
1266
3795
19809
道路損壊(件)
650
116
115
17
150
318
185
1551
橋梁流失(件)
370
65
31
-
83
101
80
730
堤防決壊(件)
306
60
41
-
79
190
89
765
山がけ崩れ(件)
400
84
20
128
181
747
410
1970

 私の個人的な推測と補足ながら、この長崎県下の被害状況表は各自治体が集計した数字をまとめられたものと思われます。そのため自治体ごとの集計の違い、あるいは記録がなかったりと言うこともあるようです。いずれにしましても、長崎県下の状況は、広範囲に多数の尊い人が亡くなられ、家屋、橋、堤防などが壊されました。また、郷土史などの関係から言えば貴重な史料や遺物なども流失、損壊にあったようです。

また、上表には表れていない田畑の被害も当然あったと思われます。稲作について、1957年は断念された田んぼもあったことと思われます。当時の農家は、現在のように多角化や多品種の栽培ではなく、米からの収入割合は現在よりも比重が相当大きく経済的にも困られたことと推測しています。

<長崎県外の被害状況(熊本市の場合)
 私は、長崎県外の被害状況も探してみました。しかし、諫早大水害の全体のまとめみたいなものは、いくつかあるのですが個別に長崎県内と県外に分けたような記述や表を見つけきれませんでした。それで、次の<>内に熊本県熊本市のサイト、「市政だより」2009年11月号、6ページ、写真と年表で振り返る熊本市120年のあゆみ(主なできごと(略年表)」を引用して書いています。ただし、改行の違いや()内などは変えたり補足しました。

 < (1957年=)昭和32年、7月  七・二六水害で市の33%が浸水し、 金峰山周辺で山津波 (注G:)(死者・行方不明者171人) 
注G:山津波=山腹から多量の土砂・岩片が土石流となって流れ出す、大規模な山崩れ。 国語辞典の大辞泉より)

  上記<>内の死亡者数を見ますと、上表(長崎県内の被害状況)の諫早市以外の合計の死亡者数=186人よりは少ないですが、大きな犠牲者数には変わりありません。また、この記述は年表ですから詳細に書いてありませんが、たぶんに家屋、橋、堤防などにも多くの損壊があったことと推測できます。

 また、「市の33%が浸水し」と書いてあります。これを例えば自分たちの住んでいる町や市の面積に置き換えて考えると、いかに大規模な浸水だったか、少しでも想像できるものです。たぶんに高台にある住宅地は別としても、平坦な市街地ならば大抵どこでも浸水被害はあったのではないかと推測できる数字とも言えます。いずれにしましても上記の記述は、熊本市のこの水害の規模が大きかったことを示しています。

<長崎、佐賀、熊本3県下の被害のまとめ>
 この長崎、佐賀、熊本の3県被害状況のまとめついては、西日本新聞サイトに「災害・事故年表」の「(昭和32年)1957年07月九州西部に集中豪雨(諫早大水害)」ページがあります。それが、次の「」内です。ただし、一部、上表などと重複内容のため途中省略部分もありますので、ご注意願います。もしも、引用・参照されるなら必ず先のアドレスから元データをご覧願います。

 「 九州西部に集中豪雨(諫早大水害) 1957年7月25日  
 同日から28日にかけて、長崎・佐賀・熊本3県にまたがる大村湾から島原半島を経て熊本市周辺にいたる狭い帯状の地帯を集中的に豪雨が襲い、大きな被害を出した。  (この後の記述=諫早市周辺の降雨量や被害状況は省略) 3県下の被害の総計は、死者856人、行方不明136人、負傷3860人、家屋全半壊6811戸、家屋の浸水7万2565戸、耕地の流失・埋没・冠水4万3566ha、船舶被害222隻にのぼった。 この諫早水害をきっかけにして、狭い地域に大量の雨が降る「集中豪雨」の研究が始まったという。 」 

 上記は大変分かりやすいまとめなので補足は必要ないと思いますが、これまで上表などに記述していない事項として陸地側だけでなく船舶被害もあったことが分かります。また、<「集中豪雨」の研究が始まった>と言う下りも、現在にもつながっていることなので注目すべきことだろうと思いました。また、全体通して、この時の集中豪雨やそれによる被害が、広範囲に3県に及んでいたこともよく分かる内容です。

(初回掲載日:2011年6月6日、第二次掲載日:2011年6月8日、第三次掲載日:2011年6月10日

2)大村大水害、大村市の記録より
 この2)の項目は、全て1972(昭和47)年2月11日、大村市発行の『市制施行30周年記念特集号 大村のあゆみ』の65〜69ページを引用して書いています。なお、ホームページのレイアウト上、改行、文字の色や太さなどは、原文と異なります。もしも、引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。また、この間の5ページには、9枚の写真が使われていますが、その一部のみを先の項目の写真含めて今回掲載しています。(注)は、全て上野の補足です。

水害発生! いまわしい記録

水害発生
 昭和32年(1957)7月25日(注1)、朝から降り始めた雨は正午ごろからだんだん強くなり、午後1時30分ごろにはすでに杭出津地区は床下浸水7戸を出し、竹松・福重地区の水田(注2)も冠水、午後2時には長崎海洋気象台から大雨警報が出された。この時の雨量が115ミリ、郡川の水位は1メートル50センチに達した。そこで市では午後3時に大村市災害対策本部を設け対策にのりだした。

(1957年、大村大水害の写真)岩松駅付近
(線路が曲がり、盛土が流されている写真と思われる)
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の68ページより

  この時間に市役所(注3)の2階からみると、徳泉川内の山際から、田の平・草場一帯の内田川沿いの水田は鉄道線路だけを残して一面濁流と化していた。その後雨はますます降りつづき、各地の河川、堤防や橋梁が欠壊、流失したという報告があいついだ。水主町方面をはじめ駅前通りから本町、 海岸沿いの商店街、西大村方面の住宅街の浸水は甚しく、深さが50センチ に達したところもあった。

 こうして全市濁流におおわれ交通や通信も全く途絶する状態となった。警察や消防団、陸・海自衛隊では応急措置を講じ、また市民の避難誘導に出動し、午後7時には全市に避難命令が発せられた。同8時ごろから、が然雨は激しくなり、連続雷鳴を加えて文字通り盆をくつがえしたように降りつづき、8時50分から9時50分までの1時間に140ミリの降雨量が記録され、市街地は浸水1.8メートルから2メートルに達した。

 市の中心部を流れる大上戸川、内田川のはんらん(注4)で、各所の堤防が欠壊、大村湾の満潮時10時前後が最大雨量となったため11時ごろまでが最深浸水となった。一方午後9時ごろ、鈴田、岩松附近は山間部から濁流が一挙に鈴田川河口に奔流し、水田は一瞬河床となり巨大な岩石(注5)を流出し、ざらに岩松駅を中心として鉄道、国道寸断され、附近の橋梁、住家等、欠壊、流失した。

(注1):人によっては「大村大水害は数日間にまたがった集中豪雨だった」と述べられる方もいるが、この日が公式には大村大水害発生日である。また、単に「大村水害」と称される人もいる。この当時、大村市内には大きなダムはなかった。ご参考までに、郡川上流域にある萱瀬ダム(長崎県が初めて建設した多目的ダム)は1962年に完成した。郡川の支流の一つ佐奈河内川の上流域にある重井田ダム(防災用ダム)は、1983年に竣工した。(先の萱瀬ダムについては2001年に嵩上げ工事も完了した)

(注2):竹松・福重
地区の田んぼの場合、中山間地などを除き低い所の田んぼは、ほとんど冠水したり、石の流入、石垣の崩れなど大きな被害があった。そのため稲作も出来ない田んぼもあった。松原地区の低い地域の田んぼも、ほぼ同様の被害があった。
(注3):現在の市役所庁舎は1964年に完成しているので、この当時は以前あった場所で旧庁舎のことである。

(注4):この記述には福重地区を流れている郡川佐奈河内川、野田川、石走川(現在の通称:よし川)のことが書かれていないが、大上戸川、内田川、鈴田川と同様に増水や氾濫などもあった。

(注5):大上戸川上流域にある山田の滝の滝壺脇にあった碑文の彫られた大きな石(推定数十トン)も、この当時、滝壺から約10m下流に流された。

雨量

  このように80年ぶりといわれる雨量(730ミリ)を記録、市内中心街は家屋の残がいや、家財、流木などで足の踏み場もなく泥海と化した。


災害救助
 26日はこの事態に備えて午前3時、災害救助法が発令され、被災市民1万人がその適用をうけ、緊急食糧としてにぎりめしやパンなどがただちに配給され、7月31日まで続いた。そして最も災害のひどかった水主町、駅前通り、中央マーケット地区1,300人に対しては 3日間配給を延期された。 また救護物資として毛布、下着、釜、鍋、医療品なども被害状況に応じてただちに配布され、そのほか全国各地から送られてくる援護物資は、その数40万点にも達した。これらも次々に各戸に配られ、災害に打ちのめされた被災民を元気づけた。 対策本部でははじめ被災者の救援物資補給に重点をおいたが、これに並行して伝染病のまんえんをおそれ、28日から防疫班を設けて、被災地一円を消毒してまわり緊急防疫措置をとったほか、検病、診療にものりだした。

(1957年、大村大水害の写真)市職員による救出作業
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の67ページより

 市議会でも27日災害対策協議会を開き、今後の被災者救済、復旧計画などが協議された。対策本部では28日早急復旧を関係方面へ陳情するため、大村市長、 森市議会議長は東京へ、渋江助役、鹿島副議長らは県へ出向いた。陳情の主な点は@中小企業復興のため2億円程度の特別融資をして ほしい。 A復旧工事費として特別融資をしてもらいたい。 B災害の大きかった鈴田川、大上戸川、内田川、郡川を根本的に改修してもらいたい。などであった。

 水道断水地区にたいしては、大村・竹松両部隊の給水車により応急給水がおこなわれ、主要道路の清掃も29日から陸・海自衛隊、青年団、消防団を始め各種団体の応援をうけ、矩期間のうちに床上までつもった泥土をはじめ流木などがかたずけられた。これらは市内水田1,020町歩のうち流失埋没した300町歩の土砂だけで24万リューべあり家屋1万戸に入ったドロが6万リューべ、全市内に流れこんだ土砂は総計100リューべにのぼるといわれた。

 また水田120町歩に対しては救援苗が北松の町村から15台のトラッ クで送られ、植付可能の水田30町歩には早苗のみどりがよみがえった。 このように、全市民が一丸となって日夜復興に努力したため、予想 より早く市街の整備も終り、8月24日には災害対策本部を閉鎖することになった。

救援
 「水害にうちひしがれた被災者を救え」と全国各地、海外から寄せられた救援の金品は連日山をなした。その主なものは政府の援護物資の毛布、衣類、ナベ、カマ、日用品など、32,449点、北は北海道、南は奄美大島から寄せられ、一般救援物資は衣類35万点をトップに名古屋から瀬戸もの2万7千点、全国各地からクツ千点、毛布千枚、ゴザ1万枚、米224俵、麦46俵、調味料60タル、しょう油22石等であり、海外からは米軍の脱脂粉乳7斗入り ドラムカン48本、カン詰8,500個、インドの紅茶120袋、ハワイから衣類45包のほか遠くはエチオピア皇帝からの毛布248点などあらゆる人々からの温かい手がさしのべられた。

 以上が、『市制施行30周年記念特集号 大村のあゆみ』からの引用した文章内容です。ほぼ全て現在でも分かりやすい文章表現ですので、個別に注や補足を書いていません。後の項目で、その点は若干加筆したいと考えています。なお大村大水害の被害状況は、『大村市史 下巻』の方が詳しいので下記に書いています。

被害状況、大村市史より
  大村の歴史を語る書籍中、通史(ある特定の時代・地域・分野に限定せず、全時代・全地域・全分野を通して記述された総合的な歴史。国語辞典の大辞泉より)形式で、内容も広範囲で豊富なもの(本自体も分厚い)として、大村市史(上巻、下巻)があります。この二分冊の一つで『大村市史 下巻』(1961年2月11日、大村市発行)の第三章 災害(482〜493ページの間に)「第二節 風水害と火災」と言う内容があります。

-
被害種別
被害規模
   被害種別   被害見積もり(千円) 
 死者
19名
-
 行方不明
-
-
 重症
7名
-


 全壊(流失を含む〉
56戸
29,120
 半壊
74戸
12,800
 一部損壊
502戸
57,400
 床上浸水
1,807
45,175
 床下浸水
8,529
42,645


 全壊
68棟
29,240
 半壊
25棟
6,250
 一部破損
101棟
17,600



 半壊-市立
5棟
7,963
 半壊-私立
-
-
 一部破損
13棟
1,105
-
 敷地崩壊
102ヶ所
家屋2,040
 家財・備品・その他
8,900件
浸水の部に計上

 この節の最初の方には、市史発行以前の大きな台風やその被害状況などの資料があります。その次に特別に「七・二五・水害」と言う項目を設け、1957(昭和32)7月25日に発生した大村大水害について資料含めて6ページにわたって詳細に書いてあります。この項目だけ、なぜ詳細に書いてあるのでしょうか。

 それは私の推測ながら、大村大水害七・二五・水害が、それまでの災害と違って、人、住宅、建物、橋、土木施設、山林、耕作地から船舶に至るまで、その規模が大きく広く、悲惨だったことと併せ市史の発行年(1961年)が、水害時よりあまり年月経っていなかったためと思われます。

 この項目の最後の方(486〜487ページ)に大村大水害の被害種別や被害見積もり額なども含めて被害状況一覧表が詳細に書いてあります。今回その全部は書けませんので、486ページの一覧表の中から死者、民家や建物などの一部分を拾い上げて、さらに書き方も一部変えて右表に書いています。

 なお、それ以外の農地、山林、土木、船舶や商工業関係の被害状況(合計1ページ強)は省略していますので、ご了承願います。また、見やすいようにレイアウト含めて文字表現なども変えています。正確かつ詳細に知りたい方は、必ず原本(『大村市史 下巻』)から参照、引用をお願いします。


二つの記録の補足と感想
 この項目は、大村市から発行された市制施行30周年記念特集号 大村のあゆみ』(1972年2月11日)と、大村市史 下巻』(1961年2月11日)の大村大水害部分について(この部分は以降、”二つの記録”と称する)の補足と感想を書いています。この二つの記録紹介は、前述の通り既に相当部分を引用・参照して紹介してきましたので補足に関しては、そう多くはないのですが若干他の発行物との比較などで一部追加も書きます。

  また、大村大水害の上野個人の補足や感想は、別の項目に書く予定です。そのようなことから、ここの項目は、あくまでも二つの記録についての補足や感想にとどめておきたいと思っています。改めて当時は、今みたいにパソコンがあった訳でもありませんし、インターネットなど全く影さえもない時代です。それでも、「さすが、市役所の記録だなあ」と思いました。そのようなことも含めて上記記録の補足や感想を順不同ながら下記に列記します。

(1)二つの記録、特に『大村市史 下巻』の方が大村大水害について、具体的に詳細で幅広く、まとめて書いてあると思います。このような災害の記録や統計をとる場合、一定の基準があるのか、ないのか私は知りませんが、このような内容があれば分かりやすいばかりではなく、今後の対策などにも生かしやすいと思いました。

(2)死者の数について他の資料と比較して補足します。この災害直後に発行された『大村市政だより』<1957(昭和32)年8月上旬号 No146>トップ記事の市長談話3段目に「(前略)なおこの大災害で二十一名(内二名は諫早市で死亡)の方々が水の犠牲者になられましたこと(後略)
と書いてあります。それから4年後に発行された『大村市史 下巻』の方には死者数は「19名」です。この「19名」は、先の『大村市政だより』の通り大村市内のみの死者数と言えます。

 災害記録の取り方の違いを私は分かっていないのですが、例えば警察調べと自治体調べの違いかなあとも想像はしています。ただし、この19名を以降、大村市の公式な死者数としておられるようですので、私も何回となく用いています。「21名」でも「19名」でも、昔から残る数字も含めて近代の大村市にとっては、かつて経験したことのないような未曾有の大災害だったことに違いはないと言えます。

(3)大村市の水害対策本部は、(先の項目に書いた通り)1957年7月25日の発足日(水害発生日)より、8月24日の閉鎖日までです。この大災害にしては1か月間と言う比較的短期間で終了しています。これは市の職員さん達を始め市内の陸・海自衛隊、青年団、消防団を始め各種団体の方々が、この水害時に救助や災害対策などに当たり市民救助ため、大車輪の活躍をされたためと推察しています。そのような奮闘により、「予想よりも早く災害対策本部を閉鎖」されたことに繋がったのでしょう。

 ただ、この市の災害対策本部と言うのはあくまでも市民が災害を受けたので、その救援・支援が主目的と思われます。ですから、それ以降も例えば破壊された橋の架設、決壊した堤防のつき直し、稲作の再植え付け、石などが上がった田んぼの復旧、山崩れの対処策などは、ずっと何カ月あるいは何年も続きました。

(4)この大村大水害に対して、先の項目には<「水害にうちひしがれた被災者を救え」と全国各地、海外から寄せられた救援の金品は連日山をなした。>と書いてあります。この当時のマスコミと言えば(テレビも徐々に普及しかけてはいましたが)全国レベルでは、まだまだラジオや新聞などが主で、今みたいに全家庭までテレビはなかった時代です。それでも、多くの救援・支援物資が大村まで届いたということは、全国各地や海外の方々からの心暖まるご厚意だったと思われます。

 個人的なことながら私は、大阪在住時代に1995年の阪神・淡路大震災を軽微ながら経験しました。その時、私よりも大きな被害を受けた同僚が、「人が困っている時こそ、人のありがたみが良く分かるなあ」と言っていたことが、今でも思い出されます。大村大水害の発生から(2011年現在で)既に54年経ちますが、このような
全国各地や海外からのご厚意に対しても、今後語り継ぐ事項ではないかと思いました。

 以上が重複した内容もありましたが、二つの記録についての補足と感想です。先に書きました通り別の項目にも感想などを書く予定ですので、また、その時にも触れたいと考えています。

(初回掲載日:2011年6月14日、第二次掲載日:2011年6月16日、第三次掲載日:2011年6月19日、第四次掲載日:2011年6月20日

3)濁流(昭和32年7月水害作文集)について
 これまで何回となく紹介しています大村大水害の記録を書いた大村市発行の二つの書籍とは別に『濁流 昭和32年7月水害作文集』(1957年12月12日、編集者:大村作文の会・大村市国語研究部、発行:大村市教育委員会)と言う本があります。これは極簡単に言えば当時水害を体験された大村市内の小学校・中学校の児童・生徒さんが書かれた作文集です。

 当然
、ひらがなばかりの文章もありますが、水害後に見たまま聞いたままに書かれているので水害の生々しさが伝わってくるものです。また、この作文集には、大村市長、大村市教育長をはじめ親と教師の記録、あとがきなどもあり、データとして見る上でも役立つものです。一冊の本の中に水害の全体像が分かる資料があるのは、その意味で貴重なものとも言えます。私は、当時苦労されて編集された先生方に改めて敬意を表するものです。

大村大水害記録が多種類で豊富

 この中に掲載されている児童・生徒さんたちの作文とは別に添付されている大村大水害の記録が多種類で豊富です。私のホームページのサーバに充分なメモリーがあれば、その内の何種類か画像として掲載したいのですが、メモリー不足のために出来ません。それで、これから名称程度になってしまいますが、データ関係の紹介をします。原文は縦書きですが、横書きに直しています。また、()内は上野の補足です。

<七月異常豪雨による水害の一般概況>のデータ名称
七月二十五〜二十六日豪雨分布図(雨量と水位のデータもある)
七月水害降雨量 風向、風速表(降雨量のデータは時間単位別にある)
七月二十五日天気図
・各年度別七月降雨量 降雨日数比較表
大村市被害状況一覧
大村市児童・生徒被害状況(全校にわたって規模や人数の大小は別に被害に遭われている)
大村市災害図(床上浸水、農地冠水などが図示されている)
県下被害地域
などです。この中で、大村市児童・生徒被害状況では、各学校の校区別に死亡や重傷者数だけではなく家屋全壊、家屋半壊、がけ崩れ、床上浸水、床下浸水、家財流失、教科書流失、学用品流失、衣類流失、欠食児童、田畑流失、他畑埋没、山林流失などの人数や規模があります。これだけ大村大水害の校区別記録を詳細に書いてるデータはないと思われます。

 その意味からして、これらの記録集は、市全体や地域単位で、この水害を見る場合に大変役に立ちます。あと、上記とは、別に128〜129ページに中学生が書かれた「水はこうながれた」と言う文と「大上戸川洪水調査図」があります。これは水害後の9月に大上戸川の下流域から上流域までを現地調査された記録です。このページは直接現地に行かなくても、まるで何かを手に取って見るように具体的で分かりやすい文章と図です。

 この作文の最後に次の「」内のまとめも書いてあります。「(前略) こうしたことより、まず川幅を今までの二倍以上ひろげ川の堤防をコンクリートで固めて、うんと高く強くしなければならないという事。橋は橋台だけでなく両方の岸までコンクリートで固めなければならないという事になった。」  この「」内文章は、今後の水害再発防止策を書かれたものであり、私は関心しました。

児童・生徒も犠牲者
 上記の大村市児童・生徒被害状況の中には当時の大村中学校1名、三城小学校2名、萱瀬小学校2名、合計5名の児童・生徒さんが犠牲者になっておられます。大村市全体の死亡者数は19名ですから、先の児童・生徒さんの犠牲も含めて改めて悲惨な災害だったことが思い出されます。

(初回掲載日:2011年6月24日)

4)大村大水害時に流された碑文石は何を物語っているのか
  時の流れは速いもので1957年の大村大水害から既に(2011年6月現在で)54年間経ちました。これまで紹介しました写真や記録を見ますと、荒れ狂う洪水(濁流)や目を覆いたくなるような惨状などは、生々しく昨日のことのようにも思い出されます。ただ、当然のことながら当時市内のいたる所で見られた水害の爪跡は、今では何も残っていない状況です。

重さ何十トンもの大きな石を流す自然の力
  そのような現況下、今でも大村大水害の脅威といいますか、人間が想像できないくらいの驚異的な力があったと言いますか、そのことが確認できる場所があります。それは大村市上諏訪町、大上戸川の上流域(この付近では山田川とも言う)にある山田の滝や滝下流域の川床です。ここには、ちょっとした倉庫くらいの大きな石が、ゴロゴロあります。石によっては何十トン、あるいは最大級の石は、数百トンもあるかと思える位の大きさです。

山田の滝下流の川床に横たわる巨岩(物置位の大きさがある)

川の中にある碑文の石(大村大水害に流された。推定数十トン)
<正面が碑文面で拓本作業中。横幅約190cm、長さ
約205cm>

  このような河原の真ん中にある大きな石を見ると、「なぜ、こんな大きな石が、ここにポツンとあるのか。なんと水の力は大きいのか」と思わざる得ないものです。全部の石が大村大水害時に流されたとは言いませんが、この水害との関連で一つだけ明確に分かる石があります。

滝壺脇から10mも流された”碑文石”
  それは、水害前なら山田の滝の滝壺左岸側にあった”山田の滝壺脇の碑銘”(この碑文の正式名称は別に長い名前があるが今回は省略)です。現在地は、滝壺下流の川床にあるので私は”川の中の碑文”と呼んでいます。あと、この碑文石は、江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも、碑文内容が記述されていますし、大正時代に撮影された写真にも、この滝壺脇にあった大きな石は写っています。

 大村大水害時に推定数十トンの大きな石が、山田の滝の滝壺脇から下流約10mの所に流されたものです。(このことは地元・上諏訪町の方からの情報である)このページは碑文内容を紹介するシリーズではありませんので詳細に書きませんが、概要を述べると江戸時代の元禄13(1700)年に本経寺の第八代住職・日迢(にっちょう)上人が様々な願いを込めて建立したものです。

 一口で「この石は数十トン位ある」と言いますが、皆様、普通乗用車(重量約1トン)とかトラックの10トン車をイメージして下さらないでしょうか。仮に”川の中の碑文”の石が10トン位あったとして、その重量を運べるトラックの大きさを思い浮かべると、いかに重い石であるか容易に想像できると思います。そのような大きな石が、元あった場所から大村大水害時に流れたのです。あと、この川の通常の水量ですが、水の流れている幅は1mあるかないか位です。

 私は、この流された碑文石を見て、改めて自然の力がいかに圧倒的、驚異的であるか、まざまざと再認識しました。それと同時に、「人間が自然を征服・コントロールする」とか「自然災害は二度と起こらない位に防災対策は完璧だ」みたいな言葉が、なんと傲慢で空虚な言葉であるかも思い知らされました。

 地球の長い歴史に比べれば人類の歴史は、一声を発する時間にもならないし、ましてや人一人の寿命などは(たとえ100年間生きたとしても)瞬きにもなりません。地球上に住む動植物は自然の豊かな恵みによって生かされています。しかし、大
自然がゆえに時として、地震、津波、噴火、風水害など大きな被害も人にもたらします。だからこそ古来から日本人は、自然を敬い、恐れ、自然と仲良く暮らす知恵と努力をもって生きてこられました。

  この項目冒頭に述べた通り、1957年の大村大水害の災害状況を現在でも確認できるものは市街地には、もうないと思われます。しかし、この山田の滝の下流域には、この水害時に流された”川の中の碑文”を始め右上側写真で紹介しています大きな石などが、川床に沢山あります。山田の滝へ行かれる機会あれば、「(大村大水害時に)自然の驚異的な力によって、ここまで運ばれてきたのか」と言うことを、ご覧頂ければと思います。

(初回掲載日:2011年6月26日、第二次掲載日:2011年6月28日

5)水害を体験された方の話しと、私のかすかな記憶
 
私は2011年6月、大村大水害を体験(目撃含む)された十数人に当時の状況をお聞きしました。ただし、どうしても私の地元・福重地区が多くなって、床上・床下浸水どころか死傷者や家屋の損壊まで出た萱瀬地区、大村地区、鈴田地区の方の話は聞く機会が、ほとんどありませんでした。下記は、私がお聞きした範囲内で各地区別に分けて書きたいと思っています。今後、福重地区以外の方も聞ける機会があるかもしれませんので、その時この項目は追加掲載していこうと思っていますので、あらかじめご了承願います。

水害を体験された方の話し

<福重地区>

 ・郡川佐奈河内川(さながわちがわ)、野田川(山田川)なども氾濫した。石走川(通称よし川とも言う)流域の田んぼも冠水した。
 ・郡川の鬼橋と矢次橋の中間あたりが決壊したと思う。そこから激しい濁流があった。
 ・郡中学校近くの橋(現在は暗渠みたいになっている所)に流れてきた木々が、まるでダムみたいになって一層水が増水した。

 ・(そのような各河川の氾濫、増水によって)福重地区内では沖田町、寿古町などで床上か床下浸水があった。また、皆同町、今富町、野田町などでは田んぼへの冠水が広範囲にあった。佐奈河内川や野田川の堤防が決壊して一部の田んぼに大きな石も上がって稲作が出来なくなった。
 ・沖田町公民館付近の住民は郡中学校に避難したのを覚えている。
 ・大雨だけでなく、ずっと連続して激しく雷が鳴って落雷していたと思う。

 ・郡岳の土砂崩れ(注)<郡岳(826m)8合目付近より下側、中央尾根の西側付近で土砂崩れ>があった。ただし、崩れ方の大きさは、その後年の大雨時の大規模崩落(大きさは上下の長さ約300m、横幅約30m)が、長さも幅も大きかった。(注):「郡岳の土砂崩れ」は1957(昭和32)年の発生よりも、後年の土砂崩れが大規模だった。また、ここは平地から確認しずらいが、規模の大小は別としても、その前後あるいは現在も含め小規模土砂崩れは何回となく起こっている

(上野の補足:この郡岳の土砂崩れ現場は過去から現在まで何回となく発生していて大村大水害や、その後年の大規模土砂崩れだけではない。ただし、大水害時の後年に発生した山崩れが大きかったので、数十年間、木が成長せず、どこからでも見えていたため郡地区の人に記憶が残っている)

 ・当時、川棚町に住んでいたが、裏山が土砂崩れして家にかかってきたが、難を逃れた。川棚からも大村へ稲の再植え付け用に苗を提供した。
 ・当時、森山町(現在は諫早市)に住んでいたが、周囲の家40軒含めて土砂崩れで家が流された。自分は仕事先にいて難を逃れたが、後で見た本明川沿いは筆舌に尽くし難い状況であった。

大村大水害の爪跡、バスも横転(4台のバスが写っていて左側1台が完全に横倒し。中央やや左の1台はタイヤ部分が土に埋まっている)
<現在の大村駅前バスターミナル東側付近>
(竹松地区在住のMさん所蔵写真より)

<竹松地区>
 ・とにかく物凄い雨で、ずっと雷が鳴っていたように思う。郡川の堤防がいたるところで決壊し、竹松の町中に増水して来て(当時、国鉄大村線の)竹松駅ホーム近く(高さ1mくらい)まで冠水した。道路には木や板など流れてきたのを覚えている。

<大村地区>
 ・家は水主町(かこまち)にあったが、水は床上どころか箪笥(たんす
)の下から3段目位(1m数十センチか)まで浸水した。
 ・水が引いても家や道路周辺には、木やゴミも含めて何でも散乱していた。片づけるのに何日間もかかった。

 ・右側の写真説明(上野の推測も含む):写真の場所は現在の大村駅前バスターミナル付近と思われる。この写真にはバスが4台が写っているが、左側1台は完全に横転している。
中央やや左側の1台はタイヤ部分から窓枠下付近まで土に埋まっている。奥の家並みは通常に見えるが状況から推測して床上・床下浸水したと思われる。

 浸水して濡れたと思われる布団が「北島食堂」と言う看板のある家(中央左の2階建)に干されている。道路及びバスの駐車していた周辺は写真の通り色々なものが流れてきて、さらには電線は切れ、電柱は傾き、水路か暗渠(あんきょ)の蓋(ふた)みたいなものが浮き上がっているようにも見える。また、手前側の道路と思える所には小さな溜め池が出来たようになっている。

 この項目の冒頭にも書いていますが、何らかの機会あって大村大水害を語って頂ける地区の方がいらっしゃいましたら上記内容以外にも追加掲載したいと考えています。また、私のメールへ、町名と水害状況などの情報を教えて頂ければありがたいです。お待ちしています。

<萱瀬地区>
 ・昼間なのに、真っ暗に見えるほど、物凄い雨量だった。
 ・ずっと稲光(いなびかり=雷の電光)が光っていて、その時だけ明るくなった。
 ・萱瀬地区内の川に掛かる橋が全部流された。そのため、萱瀬は一時期、孤立地帯みたいになった。
 ・橋がないので、会いに行くにも、連絡しようにも行けなかった。連絡を取ろうと思って両岸に行ってみても、川の大きい音(濁流音)で、お互いに話が伝わらなかった。それで、紙に伝言を書いて小石を中に入れて対岸に投げ入れ、お互いに連絡を取り合っていた。
 ・郡川などの川周辺にある全部の田んぼに、濁流が上がってきて流された。(水田が使えなくなったと言うこと)
   (上記の萱瀬地区の追加年月日:2016年7月1日)

私のかすかな記憶
 私は1952(昭和27)年生まれですから、大村大水害時には満5歳直前でした。ですから、かすかな印象と言いますか、雰囲気くらいしか覚えていません。当時、私の所は農家で、庭は米や麦などを乾燥させるため横長でまあまあの広さがありました。その庭の先に石垣があり、そこに背丈の高い大きなサボテンが目立つようにありました。また、この石垣付近から今富町、郡川流域、竹松地区や西大村地区の平野部、さらには大村湾、箕島(現在の長崎空港)や西彼杵(にしそのぎ)半島も一望できました。また、今回の水害で取り上げている野田川(山田川)と佐奈河内川の下流域も見えていました。

 そのような所に、たぶん他の大村地域と同じように日雨量が700mm
以上の豪雨が降ってきました。これから、私のかすかな記憶を書きます。ただし、その後に同じような内容を父母から何回も聞かされて育ったので、かなりの部分で正確だとも言えます。(逆に言えば父母の記憶を元に私が覚えてきたのかもしれませんが)

 ・大村大水害の当日(1957年7月25日)昼頃から、雨が空からバケツで水かけるように、まるで水量の多い滝のように降っていたため昼間でも非常に暗かった。家の縁側から庭を隔てた4m位先の石垣上にあった高さ1m50cm位のサボテンが昼なのに全く見えないほどの集中豪雨だった。水はけの良い庭一面に深さ何センチかの池が出来たようにも見えた。 (母が言うには、「お前は(居間から)何回も縁側に行って庭や大雨を見ていた。怖がってもいた
」みたいな話もしていた)
・(一旦、雨が小康状態になった25日夕方前後か26日朝かに見たと思うが)今富町の平野部には土色をした溜め池がいくつも出来たみたいに田んぼが冠水していた。いつも見ている田んぼばかりの風景が、ガラリと変わったように見えた。

 ・野田川(山田川)流域=通称”山田の谷”にある何十町歩かの田んぼは一部の高い所を除き、全部冠水していた。野田川が蛇行している所、あるいは堤防の低い所は決壊して、その石垣自体がなくなって田んぼの中に新たな川が出来たように流れていた。
 ・実家の田んぼ真横にあった野田川の堤防が決壊したため大きな石が散乱し、2枚の田んぼが使えなくなった。(川の堤防は後で公的に工事されたと思うが、田んぼ内の整備は家族でコツコツと石を片づけ結局10年以上かけて元に戻した)

 ・稲の流された分を少しでも埋め合わせするために、父が色々な農家からもらって来て家族で再度植え直しした。
 ・(上記以外で)福重地区で見られたのが、山間地の土砂崩れや田畑の石垣の崩れなどもあった。それらの工事は私が福重小学校に通学する頃まで数年間続いていたと思う。さらに記憶が曖昧なので具体的な橋名まで今回書かないが、郡川佐奈河内川に架かっていた木造の橋が、この時に二つほど流され破壊したと思っている。

 以上が、大村大水害についての私のかすかな記憶です。当時は今みたいに全部の家にテレビあるいは自家用車などがある時代ではなく、当然災害の情報も住んでいる地域限定となるのは止むを得ないことです。そういった制限はありますし、私の子どもながらの記憶ですが、今までに見たことのない水害の光景は、脳裏にずっと焼き付いたままです。今後、二度と見たくない情景でもあります。

(初回掲載日:2011年7月1日、第二次掲載日:2011年7月3日

6)先人の教訓と大村市洪水ハザードマップ
先人の教え、全国各地の災害関係記念碑は、なぜあるのか

 
この項目、2011年3月11日に発生した東日本大震災に関係していることから先に書きます。まず、「大津波記念碑」とか「津波石碑」などをキーワードに各検索サイトや動画のユーチューブに文字入力して頂くと、沢山のページが表示されます。これらのホームページ(動画含む)には、何も三陸海岸に数百基も立てられている石碑や津波到達標識(標示柱や標示板含む)ばかりではなく、全国いたるところに、この種の記念碑が数多くあることが分かります。(なお、動画ユーチューブに「失敗は伝わらない」との文字入力しますと、三陸海岸の津波や石碑についての説明動画もある)

  特に、この中でも岩手県宮古市の姉吉地区にある大津浪記念碑は、国内の新聞・テレビばかりではなくニューヨーク・タイムズなど国外でも取り上げられ大きな話題になりました。(英語版ニューヨーク・タイムズ記事は、ここからご覧下さい、このサイトには石碑の写真や動画もある) この大津浪記念碑の碑文には、次の「」内のことが書かれています。<下記()内の送り仮名は補足である>

(1957年、大村大水害の写真)水田住宅付近
(濁流が流れている)
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の65ページより

  大津浪記念碑  高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ) 此処(ここ)より下に家を建てるな 明治二十九年にも、昭和八年にも津浪は此処まで来て 部落は全滅し、生存者、僅か(わずか)に前に二人後に四人のみ 幾歳(いくとし)経るとも要心あれ 

  この記念碑(石碑)は、多大な犠牲を出した教訓から、先人が子孫に対して例え再度、津波が来ても二度と犠牲者を出さないようにとの悲願を込めて建立されたものと思われます。この先人の教訓を守られ、今回の津波到達時に宮古市の姉吉地区にいた方々は、犠牲者が出なかったようです。

 また、大阪浪速区幸町には<「安政大津波」の碑>もあります。このリンク先には、碑文の最後の方に(現代語訳で)「心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい」と書かれています。つまり、江戸時代の先人は、後世の人々が碑文に墨を入れながら安政年間に犠牲者が出たことを思い出し供養することで、もしかしたら再度の津波の危険性があることをずっと忘れないようにとの戒めても込めて石碑に彫られているのでしょう。なお、長崎県内にも諫早大水害、長崎大水害、各地の水害、土砂崩れ、雲仙噴火など自然災害による犠牲者を悼む記念碑や供養塔などは数多くあるようです。

 私は、この大村大水害ページ冒頭に『天災は忘れた頃にやって来る』という言葉を書きました。それに補足する形で『歴史は繰り返す』(ローマの歴史家クルチュウス=ルーフスの言葉。過去に起こったことは、同じようにして、その後の時代にも繰り返し起こる。国語辞典の大辞泉より)の言葉も書き加えたいと思います。また、全国各地には津波記念碑だけでなく、例えば地震、火山噴火、水害(洪水)、火災などの災害関係記念碑は、沢山あります。これらは犠牲になられた方々を偲ぶものばかりではなく、先人たちが先に挙げた教訓や注意喚起などの意味も込めて後世に伝えるために建立されたものと考えています。

 大村大水害の記念碑が市内にあるか、ないか私は不明ですが、たとえなくてもこのページでずっと紹介しています大村市発行の2冊と大村市教育委員会発行の『濁流』と言う書籍は、これらの石碑と同じ位の価値あるものと私は考えています。記録集や郷土史資料としても参考になりますし、その内容(当時の児童や生徒さんが書かれた作文集含めて)には、数多くの教訓と現在でも通じる示唆も書いてあります。

大村市洪水ハザードマップ
 ここまで大村大水害に関係する記録、書籍類あるいは全国に沢山ある災害関係記念碑、さらには先人の教訓などを書いてきました。もしも、現在の大村市内で何らかの機会に、この話をしたとします。すると(大村弁で)「あー、もう大村大水害から54年か、そげん経つとなら注意せんばねえ」とか「今年は東北で震災や津波もあったけん、大村も災害は無縁じゃなかけんねえ」みたいなことを述べられる方は、自然災害について分かっておられる方のお話しだと思います。

 でも、中には「昔のことは知らない」、「自分には関係ない」、「自分の生きている内には、もう起こらない」、あるいは「いくら用心しても事故や災害はあるよ」、「そんなこと、あんたに言われる筋合いはない」とかの話もあるかもしれません。どれも一理あって、それぞれの意見は否定できないものです。そのようなことから、個人同士では話がかみ合わないこともあるかもしれませんので、下記に紹介します大村市洪水ハザードマップをご覧頂けないでしょうか。ご参考までに、この大村市洪水ハザードマップはホームページ版だけでなく、各出張所などに印刷物(実物はA1サイズの両面。片面が郡川、もう片面が大上戸川・内田川)も置いてあります。(河川の読み、郡川=こおりがわ、大上戸川=だいじょうごがわ、内田川=うちだがわ)

大村市洪水ハザードマップ
01_大村市洪水ハザードマップ(郡川)<PDF版>
02_大村市洪水ハザードマップ(大上戸川・内田川)<PDF版>

 このデータは、大村市ホームページ「安全対策課の説明文」によりますと「大村市洪水ハザードマップ(2009年2月原案作成) このマップは、郡川・大上戸川・内田川が大雨によって増水し、氾濫した場合に予想される浸水の範囲とその深さ、及び避難所などを示したものです 」と言うことです。

大村市洪水ハザードマップ片面の一部分(大幅な縮小版)
(実物はA1サイズの両面。片面は郡川流域
)
<大村市ホームページより>

 また、先の説明ページの中には、「このマップでは、大雨の規模は、郡川では概ね50年に1回程度(467mm/日)、大上戸川・内田川では概ね100年に1回程度(107mm/時間)降るとされる規模の雨を想定しています」とあり、利用の注意、日頃の備えと避難する時の心得など、大変分かりやすい図やイラスト入りで作られています。

 上記のリンク先からご覧頂くと分かりますが、郡川、大上戸川、内田川流域で、上記説明文の通りの大雨があった場合、何十センチごとの浸水地域が色分けしてあります。さらには避難の場合は、近くの避難場所やその経路も書いてあります。この色分けされた地域を見ますと、先に紹介しました『濁流 昭和32年7月水害作文集』の「大村市災害図((床上・床下浸水や農地冠水地域などが図示されているもの)」と、一部違う所もあるようですが大体において同様です。

 この 大村市洪水ハザードマップが、大村大水害時の災害図をもとに作成されたのか、またはそれとは関係なしに現在の技術を持って例えば各河川流域の地形(標高など)や川の水が運ぶ水量予測値などから計算されて作られたものか、私は全く知識がないので分かっていません。ただ、日雨量732mmも降った後に発生した1957年水害の災害図と、だいたい同じですから予想図として正確ではないでしょうか。

 あと、このハザードマップにも書いてありますが、1957年の大水害より例えば郡川上流域には郡川には萱瀬ダム、佐奈河内川には重井田ダム、大上戸川や内田川には河道の整備などが実施されました。また、どの河川流域でも堤防も橋も頑丈なものになりました。ただ、皆様も良くご存知の通り、たとえダムが出来たとしても堰き止めることが可能なのは、そのダムの上流域だけです。しかし、先のダム下流域にも本流に近い位の支流がいくつか流れ込んでいるのです。

 それに、山林を色々な名目で開発し、結果そこに通じる何本かの道路に大雨が降ればアスファルトの上は、まるで川がいくつも出来たみたいに流れ下っています。そのような水量に、もともと日雨量700mmも降れば大村市の大半が、ちょっとした”溜め池”状態でしょうから、それから発生する水害は予測がつくものと言えます。

土砂崩れ(崖崩れ)も怖い災害
また、このハザードマップには注意事項として、河川だけでなく土砂崩れのこともイラスト入りの分かりやすい注意事項が描いてあります。この土砂崩れや崖くずれ(がけくずれ)について、『濁流 昭和32年7月水害作文集』144ページの被害状況図によれば、(1957年当時)「がけ崩れ」が220ヶ所あったと書いてあります。これには例えば郡岳7〜8号目付近で起こった「郡岳の土砂崩れ」(注)みたいなものも入っているかどうか不明ながら、この水害時に山林、田畑あるいは民家の裏山なども崖崩れが起きました。(注):「郡岳の土砂崩れ」は1957(昭和32)年の発生よりも、後年の土砂崩れが大規模だった。また、ここは平地から確認しずらいが、規模の大小は別としても、その前後あるいは現在も含め土砂崩れは何回となく起こっている

崖崩れと言えば既にご紹介しました通り、熊本市の年表には、<(1957年=)昭和32年、7月  七・二六水害で市の33%が浸水し、 金峰山周辺で山津波(死者・行方不明者171人)> と書いてあります。この山津波は、土砂崩れや崖崩れと同じことです。つまり、水害は何も河川流域だけでなく、川とは関係ないみたいな所でも被害はありうることを示しています。 土砂崩れ(崖崩れ)は、大雨時に一気に民家を押し潰す場合もあって怖い災害と言えます。

以上、この項目は、自然災害についての先人の教訓や大村市洪水ハザードマップなどについて書いてきました。これらについて様々なご意見はあるかもしれませんが、私は色々な意味で参考になるものだと思いました。

(初回掲載日:2011年7月5日、第二次掲載日:2011年7月7日

大村市土砂災害ハザードマップ
 この項目で紹介しています「大村市土砂災害ハザードマップ」は、上記項目の「「大村市洪水ハザードマップ」とは、表現や文字数の違いでも分かる通り、内容が違います。その「土砂災害ハザードマップ」について、大村市「土砂災害ハザードマップ」(目次ページ)に、次の<>内の説明文が書いてあります。

   (前略) このマップは、急傾斜地崩壊などの土砂災害の発生の恐れがある場所を記載し、市民の皆さんに、避難などの適切な行動をとっていただき、また、日ごろから土砂災害に対し備えていただくためのものです。 (後略) 

大村市土砂災害ハザードマップ
 ・三浦地区(PDF版)
 ・大村地区(PDF版)
 ・鈴田地区(PDF版)
 ・松原・福重地区(PDF版)
 ・萱瀬・西大村地区(PDF版)

 なお、このマップには(印刷物では常識な)発行日もしくは作成日は書いてないようです。ただ、少し参考になるのは、市ホームページの更新年月日が「更新日:2014年12月24日」となっていますので、これよりは以前と思われます。また、この地区別マップが同時作成、同時発行でなければ早期に出来たものは、先の「更新日」より相当早いとも推測されます。

なお、このページの表は、分かりやすいように省略して太文字で見出しを付け、リンク先ページに飛ぶように掲載しています。しかし、、大村市サイトの「土砂災害ハザードマップ」(目次ページ)や内容ページの見出しは、表内の上側3ヶ所と下側2ヶ所は表現上、違いがあります。

それは、上から順に「三浦・大村:鈴田地区」は、「大村市土砂災害ハザードマップ」となっていて、次の「松原・福重・萱瀬・竹松地区」は「危険箇所ハザードマップ」となっています。このように見出しの表現上の違いはあるのですが、内容(中身)は、どちらも同じように見えます。(この項目の追加年月日:2016年6月27日)

まとめ
  これまでの各項目で人、自然それに災害との関わりについても、まとめ含めて書いてきました。そのようなことから内容の重複は承知の上で、これから全体のまとめを書いていきたいと思っています。この点は、あらかじめご了承願います。

(1)大村大水害を語り継ぐことも大切では

 まず、改めて日本の地形をスケッチしますと、弧状の長い列島に大陸に比べれば山がちで、多くの川は山の水源から海まで短くて急流です。しかも、まわり海ばかりなので様々な気候の影響を受けやすく風水害も年間通して、どこかであります。さらに地殻ではユーラシア・プレートなど、いくつもの岩盤が複雑に日本周辺にあると言われ、そのため火山や地震も多いです。

 このように日本は、地形も気候も大陸的な特徴ではなく、本当に様々で複雑になっている列島です。逆に、だからこそ四季、温泉、水、山林、田畑や海からの恵み含めて我が国は、豊かで美しい自然も存在しています。しかし、大自然がゆえに一たび今回テーマの水害含めて各種の自然災害が発生すれば、それは驚異的、悲惨的なものになる場合があります。

(1957年、大村大水害の写真)岩松駅付近
(線路が曲がり、盛土が流されている写真と思われる)
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の68ページより

 長崎県や大村市の自然も、先に述べた全国の状況と大差はないと思えます。地震も他県に比べたら少ないみたいに思われていますが、県内各地には活断層がいくつもあります。また、そのようなことから2011年3月15日付け長崎新聞には「(江戸時代の)1725(享保10)年に大村城下で直下型地震があったこと」を報道されていましたので、昔から県内や大村市でも大地震もあったのでしょう。

 とにかく全国各地で自然災害も多いので、太古から人が多く住んできた平野部だけでなく山、川、海含めて八百万(やおよろず)の神様を祀る宗教や風習が沢山あります。これらは、自然に感謝しつつも「八百万(自然)の神様、どうか災いがありませんように」と言う意味が強いと思われます。

 また、大昔から自然災害の多かった反映と推測していますが、先人は色々な教訓めいた言葉を残されてきました。それは冒頭に書いて何回となく紹介してきました「天災は忘れた頃にやって来る」を始め、「(そな)え有れば患(うれ)い無し」、「災害に時なし、場所なし、予告なし」、「人は明日の天気は変えられない」など沢山あります。また、西洋でも「我々の最大の災害は我々自身より来る (ジャン・ジャック・ルソー)
」などの格言も残しておられます。

 私なりの理解として、これら先人の言葉の共通項は、根底に「自然は、人と比べものにならないくらい大きくて強い力がある」、「その割には人間は忘れやすいから格言に変えて後輩諸君に伝えるぞ」と言う考えがあったのではと思えます。また、古今東西、人が大自然に向き合う術(すべ)を語っておられるようにも聞こえます。そのような意味からして、この大村においては幾年たっても今回のテーマの中心でもある大村大水害を語り継ぐことも大切と言えるのではないでしょうか。

(2)災害に強い都市になるのは
 この項目を述べる前に個人的なことながら私が大村高等学校を卒業し大阪空港に就職した(約40年前の)1970年代当時、プロペラ機のYS-11やフレンドシップF28の窓から見えた大村は、本当に山間部、平野部どこでも緑濃き豊かな景色が広がって「美しい」と言う表現がピッタリでした。いつの頃からか詳細分かりませんが、その山並の一部は切り開かれ、田畑の真ん中に工場や住宅地ができ、帰省のたびに「隣の諫早市は住宅地、農地、工場地など整然と分けられているのに、隣の大村市は都市計画上どうなっているのだろう」と疑問を持っていました。これらの件は、後で若干述べたいと思っています。

 本題に戻りますが、通常は、
郷土史含めて歴史事項は、書籍類やホームページ類含めて現在進行形の事柄については、ほとんど書いてありません。しかし、今回のテーマ=大村大水害自体は、(2011年現在で)54年前に発生したことですから歴史的には、まだまだ真新しい出来事で、それらの教訓も含めて例えば郡川の河川改修工事などは今なお継続中の案件もあります。あのような水害を後世に語り継ぎ、さらにはどうしたら犠牲者や大規模な被害を起きないようにすべきかも考えたいと思います。

(1957年、大村大水害の写真)市職員による救出作業
<『大村のあゆみ』(1972年2月11日発行)の67ページより

  結局、あの大水害の教訓は、先人の書かれた書籍類を参考にしてまとめてみると下記のことを言っておられるのではないかなあと私なりに考えました。ただ、私は郷土史も防災も全くの素人です。ですから下記の中には、的外れな事柄も書いているかもしれません。ですから、「あー、このような意見もあるのか」と言う程度に、ご覧頂けないでしょうか。

(一)「水害は二度と起こらない」ことはない
 まずは、日雨量で(大村大水害の場合)732mmとか、それより少ないですが500mm〜600mmとかの集中豪雨は、「もう二度と起こらない。過去の出来事だ」と言う考えを捨て去る必要があるのではないでしょうか。むしろ現在でも、この猛烈な雨量を持ってすれば市内平野部のどこでも、ちょっとした溜め池みたいになる可能性があると思われます。同時にそれは河川周辺地域を中心に床上・床下浸水を招く、あるいは丘陵地帯や山間部なら土砂崩れなどの可能性もあると推測した方がいいのではないでしょうか。まずは、「水害は二度起こらない」とか「災害や天気予報の各種警告は自分に関係ない」と言う考えが、対処・対応策を遅らせるもとになるのではと思えます。

(二)水害対策はダムや河川改修工事だけではなく、身近な手入れも必要では
 大村大水害以降、郡川、佐奈河内川、大上戸川、内田川、鈴田川などには、二つのダム建設や河川改修工事が行われ、水害当時より対策は図られたと思われます。しかし、ダムを造ったとしても、それはダム上流域の水を溜めるのであって下流域にも本流に負けない位の支流が何本かあるのです。また、上記に書いた通り猛烈な集中豪雨が発生すれば、平野部を中心に浸水の可能性があるにも関わらず住宅や道路脇の側溝や排水路に、葉っぱやゴミが邪魔をして水が流れないなら、さらに大雨は溜まりやすいと思われます。身近な掃除や手入れも、河川改修工事と同じくらい必要ではないでしょうか。

(三)山林の乱開発は保水能力を弱めるもとになるでは

 私は、都市や産業の発展を否定している訳ではありませんし、全ての山林含めて土地開発をすべきでないと言うものでもありません。しかし、日本全国で産業・インフラ整備・交通の発展などと称し、どれだけ無駄で不必要な公共事業も行われたか、枚挙にいとまがないほどです。また、そのような中には「バブルの波に乗り遅れるな」のごとく、これまた全国各地で緑濃き山間部を切り開き工業団地を造成した所もありました。

 その当時から何十年経ったのでしょうか。これらは過剰な見積もりに寄って立つことも多く、果たして全部がぜんぶ工業団地や土地開発の空き地は埋まったのでしょうか。結局は、山林の保水能力を弱め、そのことが水害の遠因にはならないのでしょうか。口では政府、地方自治体始め、どこの会社・団体でも異口同音に「自然を守ろう!」、「自然と人間の共生をはかろう!」みたいなスローガンは言われます。しかし、口先よりも、やることが肝心であって、山林の保水能力を弱めるような乱開発をしておいて自然と人間の共生をはかろう!」と言っても、果たして自然はそのように応えてくれるのでしょうか。

 この項目、主に防災面について書いてきました。ダムや河川改修工事も大切ですが、それと同時に日々、人が防災意識を持ちつつ、周辺の手入れなど身近な出来る範囲内のことを継続していくことが、結局、、「(そな)え有れば患(うれ)い無しの一歩ではないだろうかと思えます。それは河川工事より、むしろ難しく忍耐強いことかもしれません。このことに繋がる一例を下記項目に紹介して、この項目はまとめたいと思っています。

郡川河川愛護団体による草刈り

(3)河川愛護団体の紹介(一例)
 水害のもとにもなった河川は、一方では子どもの頃から遊び、慣れ親しんだ川でもあります。私は、別のホームページの「聞いた言葉シリーズ(目次ページ)」の「第97回目『住民もやるから行政も」と言うページに「寿古町の郡川河川愛護団体」、「沖田町の郡川河川愛護団体」の一例を紹介しています。なお、このような河川愛護団体は、他にも皆同町や他地区でもあるようです。

 先の例のような地域住民の方が自らの意思で川の草刈り、ゴミ拾い、さらには河川敷で家族・町内で沖田町ふれあいイベントや消防訓練などをされてもいます。これらの活動を見て、仮に「ささやかなこと」とか「防災上あまり意味がない」みたいなことを言われる方がいたとしても、私はどんなに金かけて河川手入れの啓蒙宣伝するよりも効果があるのではと思えます。

 先に書きました通り町内別の河川愛護団体例は、大村市内に徐々にではありますが、他の町内でも行われているようです。私は、このような町内の方々が、大村市内を流れる河川に慣れ親しむと同時に、河川敷の手入れや防災意識を地道に粘り強く継続しておられるのに頭下がる思いです。また、これらの諸活動は市内外の方で河川ウォーキングなどを日々楽しまれている人にとっても、気持ちのいい散策路にもなっているではと想像もしています。

 以上、かなり重複していますが、これまでの各項目で書いてきたことや、今回新たに追加したこと含めて、このシリーズ全体のまとめとします。

(初回掲載日:2011年7月10日、第二次掲載日:2011年7月13日

あとがき
 
この大村大水害シリーズも、あとがきを書く段階になりました。私は、この『福重ホームページ』の「大村の歴史(目次ページ)」シリーズに1957年発生の、ある面新しい歴史事項を書いたのは初めてのことでした。今まで古代以前、あるいは中世・戦国時代、それに新しくてもせいぜい江戸時代くらいまでのことしか書いてきませんでした。そのようなことから昭和時代の、この災害をどう捉えて、どう編集したら良いのか素人の力量不足から試行錯誤してきました。

 そのため各項目で、どうしても内容や表現の重複があったことは、申し訳ないです。また、サーバのメモリー不足から写真も沢山掲載できませんでした。このように毎回のシリーズとも、色々と不備不足はありますが、なんとか今回、大村大水害の一端は、ご紹介できたかなあと思います。既に書いた通り大村大水害は、子どもさん5名含めて市民合計19名の犠牲者、公共の建物や民家の損壊、耕作地や農作物の被害などが出ました。このシリーズを書くために水害の資料を見る機会があり、改めて大きい災害だったのだなあと思い直しています。また、当時、私は子どもでしたから知らなかったことですが、全国各地や海外からも大村市民に対して心暖まる義援金や援助物資を頂いたことも今回良く分かりました。

郡川上流域にある萱瀬ダム湖と黒木小学校
 (奥の山並みは、多良山系)

  あとがきですから、もう多くのことを書くのは、愚の骨頂みたいなものかもしれません。水害や水つながりで、今まで書いていないことも一つだけ触れておきたいと思っています。それは、現在の大村市は、決して毎年ではありませんが、水不足が予想される時期に節水運動のチラシ配布や宣伝カーが市内を回ります。長崎県央地域で山林も多く萱瀬ダムなどは長崎市への水供給地域でもあるのに、この水不足問題は、必要量に応じた雨量がない限り常態化する可能性もあるのではないでしょうか。

 原因は、様々あろうかと思いますが、水資源(水源量)を上回る人口増、(水が必要な)工業団地など産業発展や都市計画上の問題その他の要因もあるのかもしれません。私は今回繰り返して書いてきましたが、人口増や産業の発展を否定している訳ではありません。しかし、社会において何事もプラス面だけ恩恵だけあって、それらと違ったマイナス面などがないと言い切れるのでしょうか。むしろ常に物事を進めれば、長所も短所もメダルの裏表の関係と同じように回って行くものだと思います。

 既に何回も紹介しました大村大水害の17年後に作成された『市政施行30周年記念特集号 大村のあゆみ
(1972年2月11日、大村市発行)の114〜123ページ間には、「基本構想大村市の都市像住みよい豊かな調和のとれた都市ー」などの見出しとともに、その説明文や最後に基本構想図も描かれています。大枠は、この当時も現在も変わらないのかもしれませんが、まだまだ、約40年前のこの書籍には、タイトル通り「住みよい豊かな調和のとれた都市」構想を目指しておられたのでしょう。

  その後、他市が水不足で苦労されても大村市は無縁だったのに、まさか節水を呼び掛ける広報車が市内を走り回ることを誰が予想したでしょうか。それだけ、以前の大村は緑豊かな、水資源も環境も抜群だった所でした。このようなことをどう考えて、それこそ「住みよい豊かな調和のとれた都市」構想を目指すにため、また同時進行で災害に強い都市造りを進めるには、どのようにして行けばいいのか、今日的な課題と言えます。

 一見何もしていないように見えても、未来の、後世の人から自然をたまたま現在借りて生きている現代人が、そのままの自然か、それ以上の環境にして後世へ引き渡すのは何か大きな開発や事業をすることより困難で粘り強い取り組みかもしれません。未来の大村市民は私たち現代人に対し、後は野となれ山となれ=「大洪水よ我が亡きあとに来たれ」みたいなことは、決して望んでおられないでしょう。

 私は、このシリーズを書いてきて改めて大村大水害後、いくつかの書籍に書かれた先輩方は「たとえ再度水害が発生しても犠牲者の出ない強靭な防災都市の大村市にしてくれよ」と叫んでおられるような気がしてなりません。人は明日の天気は変えられないですが、せめて人によって造り出されるかもしれない災害誘発要因を取り除くことは可能とも言えます。

 私自身も、個人としては限度限界がありますが、天災は忘れた頃にやって来るの言葉を噛みしめて郷土史、地域活動その他の分野で、ささやかながら出来る範囲内のことを取り組んでいきたいと思っています。これにてあとがきも終了ですが、資料や文章の必要性があれば、また加筆補正も考えてはいます。最後になりましたが、ずっとこのシリーズを読んで頂いた閲覧者の皆様、大変ありがとうございました。

(初回掲載日:2011年7月15日

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