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山田の滝=迹驚の滝(とどろきのたき) と
迹驚の淵(とどろきのふち)
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この山田の滝(やまだのたき)は、長崎県大村市上諏訪町にあります。雨の日の後などには、水量の多い時もありますが、通常期、川の本流部にしては、そう多くありません。この川の上流部=水源に、上水道か農作業用の水路の堰(せき)があるため、昔よりは水量がないようです。
それでも雨の後などは、水量豊富な滝にも変身します。この滝の上流部も調査しましたので、後で書きたいと考えています。なお、大村郷村記を参照すれば、この滝の水源付近にも滝があるようですが、今回の紹介ページは、山田の滝周辺のみの紹介です。
山田の滝周辺の魅力は、大上戸川(上流は山田川とも呼ばれている)本流部のいくつかの滝にプラスして、両岸に高さ20m近くはあろうかと思える岩場(崖)、川床に多数ある巨石、うっそうと繁茂している樹木も併せた渓谷美が素晴らしいと言えます。ここの岩場や巨石などは、多良山系火山の噴き出した溶岩流の跡と思われます。
また、この川の左岸の崖の岩窟(岩の洞穴)には、人の石像みたいなものがあり、興味引く岩場です。(後の項で紹介予定) あと、この滝の下流部(川の本流部)には、1m内外の滝のような流れもありますが、全部紹介はできないかもしれません。
(1)山田の滝と迹驚の淵(右写真参照)
山田の滝(迹驚の滝、とどろきのたき)の落差は、約11m。
迹驚の淵(とどろきのふち)の大きさは、横幅約8m、奥行き約20m 、淵の手前側の深さ約2m50cm(淵の深さは中央部や滝に近い方がさらに深いと思われたが計測できなかった)
この山田の滝は、下記の大村郷村記やその現代語訳の項に書いていますが、江戸時代、大村郷村記が編纂された頃までは、迹驚の滝と呼称されていました。右の写真でもお分かりの通り、水量によって幾分は違うかもしれませんが、通常は4段位で流れ落ちています。見方を違えれば左右の岩壁は、まるでお互いに迫ってくるようにも見え、その隙間をついて滝の水が流れているように感じてしまいます。
迹驚の淵=山田の滝の滝壺は、一番深い所の計測ができていないので何とも言えないのですが、大村郷村記通り(約9m)ではなくても、かなり青く見えるので相当深く感じます。大村郷村記の記述を参考にするなら、この滝壺の左岸の岩壁に本経寺・日迢上人の記述した碑文が彫られてあるはずですが、現時点では探し切れませんでした。分かり次第、別項目に書きたいと思っています。
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大村村郷村記による山田の滝の記述について
最初にお断りを書きますが大村郷村記には、山田の滝と言う名称では記述されていません。滝の名称は、迹驚の滝(とどろきのたき)と言う呼称で書いてあります。大村郷村記が編纂された相当後から、この滝は山田の滝と呼ばれてきたと思いますが、その由来は、この滝の下流にある山田権現(山田神社)の影響と思われます。上野個人としては、この旧の迹驚の滝の名称も、なかなか興味深い滝の名前とも思います。
また、大村郷村記は江戸時代の古記録だからとしても記述内容が全部正しいとは言えません。例えば、「滝の落差は拾間程=約18m」と書いてあります。しかし、現在、目測で見ても実測してみても18mもないと思われます。このように大きさの表現あるいは様々な事項含めて、充分注意しながら見ていく必要のある古記録とも言えます。
山田の滝について、復刻版の大村郷村記・第一巻(編者:藤野保、1982年1月発行)の、ページに下記の太文字のように記述されています。なお、文章が長いため、ホームページ上で見やすくするために何行かごとにわざと改行やスペース(空白)を入れたり、点なども加えています。また、旧漢字仮名使いのため、上野が一部変えています。あと、原文では、多くが1行の縦書きですが、中には由緒や事項の説明をするため2行で記述されています。その2行説明文は、<>内で表示しています。そのようなことから、下記は、あくまでもご参考程度と言うことで、引用などされる方は必ず原本を、ご覧願います。
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瀧之事
一 迹驚の瀧 瀧壼巖壁碑銘 山田山中大石碑銘
池田分山田の奥にあり、瀧の高サ拾間程、左右山層り巌聳へ、緑樹陰森として周園の巖壁恰も屏風を立たるが如し、水は其巖間を傳ひ漲り落るなり、瀧壷長サ拾間、横五間、深サ五尋程 <此瀧壺を迹驚の淵と云ふ> 水色藍の如し、水源は城の尾山・伏勢山の両谷より出る、御手水の瀧の下流なり、
瀧壺右の方巖壁に七面大明神鎭座<石豫長壼尺九寸、法華宗の護法神なり、元緑年中本経寺八世日邊上人安置之>あり、往昔より災旱に遭時は、里人此淵に於て雨を祈るに必鷹験ありと云ふ、
又左の方巖壁に碑銘<日迢記之、文末に記載す>文あり、此瀧壺の下に又淵あり、題目淵と號し<比淵の向岩石面に日迢刎題目を鐫る故に云ふ> 瀧壺より石を傳ひ、川中を下る事凡壱町程にして七面大明紳の石鳥居あり、此鳥居際右の方路傍へ岩窟あり、窟中に日迢上人の石像あり、
此所より又下る事三拾九間程にて、右の方路傍に山田権現の社同石鳥居あり<當杜は元緑年中因幡守純長創建なり、舊此社は後の高山圓満山の嶺に鎭座あり、中興今の所に迂座、石鳥居は純長夫人の寄附にして、額は純長の自筆なり、事神社の部當社縁起に委し>
次に庵室あり<宝永二年日迢構営> 瀧壷より庵室まての間左右険山相對し、渓間には奇岩・怪石多く、渓川は曲折盤旋して此際を漲り流れ、或は淵となり、或は瀬となる、其水至て清冷なり、又河邊及山間には櫻・楓敷百株ありて、櫻花の欄慢、楓樹の紅葉する頃は、遠近の遊人群参して、詩を賦し歌を詠して美景を賞す、誠に幽寂の霊境なり、
此川の上流に瀧あり、御手水の瀧と云ふ、 迹驚の瀧より行程四町程、此問深山にて僅に樵夫の通ふ山径あり、甚瞼路なり
瀧壺迹驚淵巌壁碑銘 (注:碑銘文全体は省略)
山田山中大石碑銘 (注:碑銘文全体は省略)
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上記の大村郷村記の現代語訳を下記に書きます。ただし、私の素人訳のため、間違いもあるかもしれませんので、ご注意願います。
滝のこと
一つ 迹驚の滝(とどろきのたき) 瀧壺迹驚淵巌壁碑銘(滝壺の岩壁にある石碑) 山田山中大石碑銘(山田の山中にある大きい石の石碑)
池田分の山田の奥にある。滝の高さは約18m程である。左右に山がそびえたっていて、緑深い樹林となっている。周囲の岩場(崖)は、あたかも屏風(びょうぶ)を立てているようである。水はその岩場を満ちあふれて落ちている。滝壺の長さ(奥行き)は約18m、横幅は約9m、深さは約9mである。この滝壺を迹驚の淵(とどろきのふち)と言う。水は藍色(濃い青色)と同じである。水源は城の尾の山および伏勢の山の両谷から出ていて、御手水の滝(おちょうずのたき)の下流である。
滝壺の右の方の岩壁に七面大明神が鎮座されている。<石像で長さが約5.7cm、法華宗の守護神である。元禄年間に本経寺(住職の)八世・日迢上人がここに安置したものである> 大昔より日照りがあった時季に村の人は、この淵で雨乞いを必ず祈祷したと言う。また、左の岩壁に碑文<日迢上人がこれを記述したので、この文章の最終部に記載しておく>がある。
この滝壺の下に、また淵があって題目淵(だいもくぶち)と言って、この淵の向こう側の岩面に日迢上人が題目を彫ったものと言う。滝壺より石を伝い、川の中を下ることおおよそ180mほどに七面大明神の石の鳥居がある。この鳥居の境目の右の傍らに岩の洞窟があって、岩穴に日迢上人の石像がある。この所より、また下ること70mほどで右の方のかたわらに山田権現の社、同じく鳥居がある。<当社は元禄年間、因幡守純長(大村純長)が創建した。この神社は後年に高山の圓満山に鎮座された。この中頃に今の所に迂回して置かれていた。石の鳥居は大村純長夫人の寄付で、銘は大村純長の自筆である。このことは神社の部の当社の縁起書が詳しい>
次に庵がある。<宝永2年=1705年に日迢上人が作った> 滝壺より庵までの間、左右の険しい山が閉じ合わさったようで、渓谷には奇岩(珍しい形をした岩)・怪石(形の変わった岩)が多い。谷間の川は曲がりくねり巡って、この境目を流れ、あるいは淵となり、瀬となっている。その水は極めて清くて冷たい。
また、川辺及び山間部には桜、楓(かえで)が沢山繁っていて、桜の花が満開、楓の木が紅葉の頃は、あちらこちらから物見遊山の人が集まって詩を詠んだり、歌をうたったりして美景を鑑賞している。本当に奥深く静かな霊場である。この川の上流に滝があり、御手水の滝(おちょうずのたき)と言う。迹驚の滝より、距離が436mほどで、この間は深い山であり木こりの通う山道がある。それは険しい道である。
瀧壺迹驚淵巌壁碑銘(滝壺の岩壁にある石碑) <注:碑文の口語訳は省略>
山田山中大石碑銘(山田の山中にある大きい石の石碑) <注:碑文の口語訳は省略> 現代語訳は以上です。
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現代語訳の補足
上記の大村郷村記の中で、迹驚の滝(とどろきのたき)の上流部に「御手水の滝(おちょうずのたき)」があるように記述されています。私の調査が現時点(2009年2月)で不十分なため、正確なことが言えませんが、この大村郷村記の記述は、もしかしたら上流部(城の尾)にある「御手洗の滝(みたらしのたき)」の誤記入とも考えられます。
また、別の考え方をすれば、迹驚の滝と、「御手洗の滝」と、もう一つ「御手水の滝」と、合計3滝あるのかもしれませんが、大村郷村記の水源を書いている文章の流れからして、やはり「御手水の滝」は、「御手洗の滝」の誤記入と思われます。それに、大村郷村記の滝の記述は、私が調べた範囲内(現在の大村市内)では、高さ5m以上くらいないと記述されていないことも補足しておきます。
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七面大明神(写真左上)と
山田の滝 (写真右側)
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七面大明神の鳥居の銘板
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七面大明神の補足
大村郷村記にある通り滝の近くに(右岸の崖)に七面大明神があります。この七面大明神は、山梨県、身延町身延山観光協会のサイトや大村郷村記などを参考にしますと、この神様は七面天女のことで日蓮宗系において法華経を守護する女神のようです。伝説・伝承によると身延山近くで日蓮の説法を聞いていた美人が日蓮から水をもらうと龍になり法華経を守ること約束し空に舞い上がり七面山に行ったとも言われています。
私は観光で身延山久遠寺の本堂に行った時、天井画を見ました。そこには、このことと関係あるのかないのか勉強不足のため不明ですが、迫力ある墨龍(黒色や金箔で描かれた龍)が描かれていました。
あと、大村郷村記に書いてある通り江戸時代までは、この七面大明神の石の鳥居もあったようで右側の写真下側(七面宮)は、その鳥居の銘板と思われます。現在この銘板は、神社境内脇に置かれています。
この山田の滝<江戸時代当時は、「迹驚の滝(とどろきのたき)」と呼称していた>周辺は、日蓮宗の本経寺と大変関係が深い所です。この七面大明神以外にも(滝近くの岩壁に)「瀧壺迹驚淵巌壁碑銘」、(題目淵の岩に)「題目の碑文」、(境内近くに)「山田山中大石碑銘」、「日迢上人の石像」など、全て本経寺と直接関係があります。
別な側面から今まで記述したことで不思議に思われる方がいらっしゃるかもしれません。それは、特に仏教(今回の場合、日蓮宗)と女神である七面大明神(七面天女)との関係です。今回テーマが違うので詳細に書きませんが、江戸時代までは神仏習合(神仏混合)は、普通一般的なことで、神仏分離は明治初年の排仏棄釈からとも言われています。
なお、神仏混合例は他にも沢山ありますが、ご参考までに一つだけ例をあげます。大村市福重町(旧・矢上郷)にある『矢上の祇園牛頭天王』神社も、近くの日蓮宗の妙宣寺が例祭の時には執り行っていたとの記録があります。(この『矢上の祇園牛頭天王』についての詳細は、ここからご覧下さい)
改めて江戸時代に何故この滝周辺に、これほどまでに七面大明神(七面天女)のこと含めて)日蓮宗の本経寺と関係があったかと言う点です。ここからは全く私の勝手な推測ですが、大村郷村記には雨乞いなどもしている記述もあるので、周辺の村全体で滝を水の神様として祀っていて、それらを執り行っていたのは全て本経寺と思われます。
この滝は、宗教上でも大事な所(霊地)と思われ、また当時の経済のほぼ全てを決めるような米の生産と密接に関係のある水の確保(滝の下流に井手=用水路の取水口があるため)にも大事な滝だったと考えられます。
なお、今回は滝や渓谷などを中心に記述していますので、いずれ機会あれば神社仏閣などの別テーマでシリーズを連載する時にでも、詳細にこの七面大明神(七面天女)や山田権現関係の記述はしていきたいと思っています。
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山田の滝の上流の川床
(写真奥に砂防用突堤が見える)
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「直線滝」(仮称)の上側
(落ち口の溝が一直線に見える)
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「直線滝」(仮称)
(滝が一直線に見える)
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(2)山田の滝、上側にある「直線滝」(仮称)と上流域について
先に記述した山田の滝の上側(上流域)についても、私は調査しました。滝の水源について大村郷村記には、「城の尾の山および伏勢の山の両谷から出ている」=山田の滝の上流約500mの所にある御手洗の滝(みたらしのたき)の上流付近と記述されています。つまり、現在の大村市東本町2丁目 (字「城の尾」)と、伏勢の山谷から出ていていることが、確認できました。
しかし、山田の滝流域と限定した場合、この字「城の尾」付近までは、やや距離があり過ぎるような気がします。それで、この滝の約100m上流部には砂防用の突堤があるのですが、今回一応この付近とまでしました。
この砂防用の突堤の、さらに上流側数百メートルも念のため、私は調べましたが比較的緩やかな川及び地形となっていました。突堤の下流側(右写真1番目)が、これまたなだらかな川床(岩盤)となっています。川の中央部には、水溜りみたいになっている所も数か所ありました。
また、この川の両岸にある岩場は、板状節理になっていて、まるで幅広い自然の階段のようにも見えます。特に、右岸の方が板状節理が分かりやすいです。
水量についてですが、字「城の尾」付近に上水道か井手(用水路)の取水口があるため、ほぼ全部こちらに取り入れられるため、下流の山田の滝方面には通常(雨が降らない日)は、その取水口よりも下流側の谷水が流れ込んでいるようでした。水質についても、大村郷村記に書かれているような「その水は極めて清くて冷たい」と言うより、まあ大村市内にある普通の川と同じような気がしました。
「直線滝」(仮称) について
これから、この項目の見出しにある滝について書きます。この滝は、山田の滝の直ぐ上側にある滝です。私は、大村郷村記や公的な文書に、この滝のことが書かれていないか調べてみました。結論から先に言えば、私が調べた範囲内では、記述されていないようです。先の項目にも書いていますが、大村郷村記には落差5m以上の、大村市内では比較的に高い滝しか記載されていません。
この滝は高さは約3mですが、長さ約7m と傾斜しています。滝の長さの半分以上は一直線の溝のようになっています。あと、ここの滝壺の大きさは、横幅約12m、奥行き約8mです。滝壺手前側の水深は約2mでした。しかし、中央部や滝に近い方がさらに深いと思われましたが、計測できませんでした。
あと前述した通り 、この滝についての正式名称は大村郷村記などには、ありません。また、全国的に「落差、何メートル以上を自然の滝と言う」みたいな「滝の定義」は、今のところないようです。それで、落差はあまりないのですが、この山田の滝流域には他にもいくつか滝があるので、そこと区別する上でも仮称で呼びたいと考えています。
傾斜しながら約7m、ほぼ一直線に流れ落ちる形状からして、「直線滝」(仮称)と呼びたいと思っています。念のため、何か正式な滝の呼称などが見つかれば、その名称に改訂いたします。
あと、この「直線滝」(仮称)のもとになっています落水口の溝ですが、右側2と3番目写真で、お分かりの通り、岩盤の割れ目が広がったものと推測されます。元々は多良山系の火山の噴き上げた溶岩が固まり、岩の切れ目部分が川の本流部となったため、ここに何千年、何万年と水や小石などが流れ、この岩の割れ目をさらに削り取り、まるで彫刻刃のようなもので深く切り込んだ溝のようになっています。
この溝や岩盤の表面は、現在では滑らかな形状に変わり自然の造形美のような雰囲気もあります。また、この上流部一帯は、滝の音は当然聞こえますが、野鳥の鳴き声やなだらかな川床からして、板状節理の岩場に腰かけていると、けっこうノンビリ気分にもなります。
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題目淵(だいもくぶち)
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題目の彫られた岩場
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仮称「題目淵の滝(だいもくぶちのたき) 」
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(3)題目淵、題目碑の岩、「題目淵の滝」(仮称)
題目淵(だいもくぶち)の大きさは、横幅約14m、奥行き約6m 、淵の手前側の深さ約1m50cm(淵の深さは中央部か右岸の方がさらに深いと思われたが計測できなかった)
この題目淵(右写真の青く見える渕)は、大村郷村記に記述されています。ここは大きな石が並び、まるで自然の堰(せき)みたいになっていて小さな池みたいにも見えます。なぜ、この淵を題目淵と言うかの由来について述べます。
まず、そのことを述べる前に題目(だいもく)とは、国語辞典の大辞泉によると<日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の7字>と書いてあります。これが彫ってある石は、右上写真中央やや奥の右側に見える右岸の岩場にあります。
この岩や、そこに彫られている題目の拡大写真は、右中央写真です。この文字部分の大きさは、高さ約1m20cm、横幅約1m10cmです。文字自体の一部は、肉眼でも、この写真でも見れます。中央部分に大きな文字がありますが、その行含めて全文は縦書きの7行ほどに見えます。ただし、全部の文字判別はできませんでした。
それで文字としては分かっているのですが、文章のつながりまで確認できない部分もありますので意味が分かる範囲内で下記太文字3行を書いておきます。ただし、見方によっては別文字のようにも見えてますので、正確性に欠けます。そのようなことから、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。なお、後でさらに判明すれば、この項は改訂する予定です。
(一番右側の全文) 元禄十三年庚辰天
(中央部分の3行) 南無妙法蓮華経 本経寺 山神 水神 *(注1)
(一番左側の一部分)大村之太守家門永昌
*(注1)は、中央部分の一番下側にあります。それは、花押(署名みたいもの)のようにも見え、長丸の模様の中にいくつか形が見えます。
題目の碑=7行の彫られた文字が現在のところ一部分しか分かっていないので、現代語訳も正確性に欠けますが、推定含めてまとめ的に書きますと次の「」内のような解釈も可能と思われます。( )内は上野の補足です。
「(題目の碑は)庚辰(かのえたつ、こうしん)の元禄13(1700)年に建立した。
(日蓮宗のお題目)南無妙法蓮華経 (大村の日蓮宗寺院である)本経寺(ほんきょうじ) 山神(やまのかみ) 水神(みずのかみ=水神様) 」
以上の不十分な現代語訳でも、おおよそのことが分かってきます。大村郷村記には、山田の滝や題目淵のある川は当時、大村川と呼称されていました。同時にこの川には別名もあり、山田権現付近下流からは順番に山田川、本堂川、大上戸川とも呼ばれていました。
郡川ほど長さも幅も大きくありませんが、当時の大村川(現在の大上戸川)は、農業用、生活用あるいは宗教的にも大事な川だったことが分かります。特に、農業用水としては、干ばつなどになれば死活問題で、それはこの周辺に住む人々全体にとって重要問題だったろうと推測できます。
その関係から、先の大村郷村記の項で「迹驚の淵の前で雨乞いをした」記述でもお分かりの通りです。この題目淵にも南無妙法蓮華経と同じ中央部分に山神 水神を祀っていることでも、そのことが良く伝わってきます。あと、仏教寺院である本経寺と山神 水神が同じところにあるので違和感を覚える方もおられるかもしれませんが、江戸時代までは神仏混合(神仏習合)の宗教でした。
「題目淵の滝」(仮称) について
この題目淵から直接流れ落ちる小さな滝(右側写真)があります。滝の落差は、約1m80cmです。この滝について大村郷村記などには、正式な名称の記述はありません。また、全国的に「滝の定義」は、ないようですし、それで、落差は短いのですが、水量が豊かで、しかも題目淵から直接流れていることや、この流域には他にもいくつか滝があるので、そこと区別する上でも仮称で呼びたいと考えています。
この滝を大村郷村記に習って、今後、仮称「題目淵の滝(だいもくぶちのたき)」 と呼びたいと思っています。また、何か正式な呼称などが見つかれば、その名称に改訂したいとも考えてもいます。私は、写真撮影や計測のため、何度もこの仮称「題目淵の滝」 を見ました。この滝の頭部は、右上写真でもお分かりの通り大きな石です。しかし、水の流れ込み部分だけは水や小石などにより、まるで自然の彫刻刀で刻み込まれた溝のような感じに見えます。何千年かけて彫ったのでしょうか。
上流部にある山田の滝もいいですが、途中にあるこの題目淵、題目碑の岩、仮称「題目淵の滝」も自然が造り出し、さらには先人が願いを込めた一体のものとして足を止めたくなる景観です。特に、水が綺麗な時季に青々とした淵に題目碑の岩が写る時、心静かにもなります。
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左端(仮称)「題目淵の滝(だいもくぶちのたき)」と、二つ
連続している滝と淵、岩場にもご注目を
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(4)連なる滝と淵
前の項目で書きました題目淵、題目碑の岩、仮称「題目淵の滝」の下流付近をご紹介します。まずは、右写真をご覧願います。一番左端に写っているのが仮称「題目淵の滝」の一部です。その約4m先あたりにも落差70cmほどの水の流れがあります。この間は淵と言うほどではありませんが、水たまりみたいになっています。
さらに右端方向に進むと落差約1m20cmほど(右写真の見えている部分のみ)の小さな滝も見えます。ここは写真に写っている部分から、さらに下ったところも入れれば約5mの間が傾斜になっていて、水が跳ねているようにも見えます。
あと、この下には目測で正確性はありませんが、上流から下流間の長さが約10m、奥行きが約15mの淵があります。この淵に名前がないか大村郷村記を調べましたがないようでした。この淵辺りからは、やや川幅が広くなってきます。
もう一度、右写真をご覧願います。ここに写って両岸の岩場は、大村郷村記にも同じようなことが書いてありますが、まるで高さ20m位の屏風(びょうぶ)を両岸に立て、さらにその間隔を狭めたような感じにも見えます。
山田の滝付近の岩場は、多良山系の火山が溶岩を流し、その先端部にあたると言われています。右写真に写っている付近は川の本流部ですので、川床にある石などは水が何万年か何千年かけて削り取っていったものもあろうかと思われます。滝と言うほどのものではないですが、これら連続している落差のある水の流れや淵も、さらには両岸の岩場も含めて一つの見どころとも言えます。
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山田の人面石?
(鼻が高く、なかなかの男前)
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(5)山田の人面石?
先の項目(3)連なる滝と淵の場所より、ほんの少し下流側に下ると左岸の高さ20m位の岩場に岩窟があります。この中に人の目、鼻、口、顎などを荒削りで造ったような、まるで「石像」か「人面石?」みたいにも見える珍しいものがあります。
この石像らしきものの高さは(目測で不正確ですが)石像全体で幅は約3m、高さ7mくらいありそうな感じがします。大上戸川の水面から頭部までは15m位と思われます。私は今年2月4日、最初この近くにある淵及び川床にどーんと座っているようにも見える巨岩をデジタルカメラで収めていた時、目線位置を変えようと偶然、左岸の岩場を見上げました。
そうしましたら岩窟の中に人の顔にそっくりなものがあるので、「あれは何だろう?」と思い、左岸に渡り近づいてみました。そこには学校の美術時間に例えば石膏製(多面体の)アグリッパ胸像を面取り像としてデッサンした経験がありましたが、あの荒削りに良く似ていました。
自然の岩場ですからギリシャ(ローマ)彫刻ほどでは当然ないものの川から見上げた状態で、人の右目、眉毛、鼻、閉じた口に似ていたので慌ててカメラを構え直しました。鼻が高く、なかなか男前みたいにも見えました。
その後、あの石像らしきものは何なのか、山田の滝について記述されている大村郷村記、近代の書籍類やホームページなどを調べてみました。また、写真付きの報告書を作り、色々な方々にも相談してみました。さらには3月1日に4人で、この滝の調査の機会に皆さんにも、この石像らしきものを見て頂きました。(この時調査した二つの滝の報告書は、ここからご覧下さい)
その結果、どうも「これは人工的に作られたものではなく自然の岩場が偶然こんな形をしているのだろう」と言うことに落ち着きました。私の方からも「それならば、今後この石像らしきものは人面石とすれば、かえって子どもたちが興味持ってくれるかもしれない」と返事して、そのような形で今回も書いています。
一応、これからは山田の人面石(仮称)していきます。ただし、今後このことについて何か史料(書籍類)に記述されていることが分かれば、それは当然その通りに改訂いたしますので、あらかじめご了承願います。
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(6)断崖、巨石や奇岩が造る渓谷美
山田の滝流域全体に、断崖、巨石、奇岩などがあります。これは多良山系火山の噴き上げた溶岩が流れ下り、この一帯がその最終地点みたいに言われています。大上戸川の両岸の断崖は、高い所で20mくらいあります。先にご紹介しました大村郷村記にも(現代語訳)「周囲の岩場(崖)は、あたかも屏風(びょうぶ)を立てているようである」との記述通りです。
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巨岩、奇岩が横たわる川床
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見る位置にもよりますが川床に立ってみると、まるで両岸の崖が迫ってくるような感じにさえ思えます。特に、山田の滝周辺の断崖は、そそり立つと言う表現がピッタリするほどです。
そのため、大村市内にも渓谷の素晴らしい所は何か所かありますが、その中でも、この山田の滝流域は他にない独特の景観、渓谷美を造り出しています。そのことから先の大村郷村記にも記述されている通り、古来より景勝地として大村領内では有名でした。
しかし、その景勝地も一説によると1957(昭和32)年の大村大水害以降、この周辺は荒れてしまったと言われています。ただ、水害前の景観を知らない私が話しても説得力はないかもしれませんが、逆に現在は手付かずの自然が残されてる数少ない流域とも言えます。この一帯が山田の滝風致地区に指定されている反映もあるのかもしれません。
私は、この山田の滝流域は、最上流部は先にご紹介しました砂防用の突堤付近、最下流部は山田神社の入り口になる鳥居に向かって右横のやや上流付近と致しました。巨岩、奇岩は、最下流部から最上流部まで、ずっと川床のいたる所にあります。特に、山田神社拝殿付近横の上・下流域には、目立ってゴロゴロとした大きな石が横たわっています。(右上写真の二つの石とも高さ3mを越しています)
この石などに苔むした様子がなかなか良くて、素人カメラマンの心を動かしています。大村市内ある鳴滝、御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝」とも言う)と、今回の山田の滝を併せて、仮に”大村三滝”と呼ぶならば、この山田の滝流域の滝それ自体は、それほどではないとも思われます。しかし、大小5つほどの滝、そそり立つ断崖、川床に横たわる巨岩・奇岩、いくつかの川の淵、周辺の緑深い樹林などを全体併せた渓谷美は、他に負けない素晴らしいものです。
これにて一応、山田の滝紹介の記述部分はまとめになりますが、このページ全体通して今後も補足あるいは写真の追加などをしてみようと思っています。また、何か情報をお持ちの方は、eメールをフォームメール・ページから頂けば嬉しい限りです。
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山田の滝紹介の動画
下記ビデオ内容について、撮影場所は長崎県大村市、上諏訪町です。山田の滝を始め上流、下流にある各滝や渓谷、さらには珍しい人面石なども写っています。撮影日は2009年2月4日と26日で昼の時間帯です。掲載している映像時間は約9分40秒です。 |
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初回掲載日:2009年2月8日、第二次分:2月22日、第三次分:2月25日、第四次分:3月1日、第五次分:3月14日、第六次分:3月26日、第七次分:4月1日、、第八次分:5月9日
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