大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 鹿の島弁財天(しかのしま べんざいてん) |
まず、この鹿島へ行く場合、JR大村線・松原駅からならば海岸(大村湾)方向へ約50mの所に墓地があります。その墓地にある相撲取りの墓を左側に見ながら市道(旧・長崎街道)を北北東へ約500m進みますと、この鹿島周辺にある漁港の脇に着きます。そして、(写真3)と同じような風景が見えます。 そこから鹿島を目指して進みますと、島へ登る階段手前の左側の堤防近くに(写真1)の鹿の島の弁財天の史跡説明板が見えてきます。あと、先の階段を登っていきますと、鹿島中央部に弁財天の石祠、戦没者の招魂碑や石塔類があります。 なお、鹿島自体の詳細な紹介は、先のリンク先から閲覧願います。とにかく、この島は、現在のコンクリート製の堤防や橋などがなかった頃、近くは市道(旧・長崎街道)から、遠くは松原の丘陵地域から見た場合、まるで一幅(いっぷく)の絵画のように見えたと想像できるくらい良い景色の所です。逆に、鹿島から、例えば先の海などを前景にして、後景に武留路山などを眺めた場合、これまた素晴らしい眺望です。 さらに、この漁港に運良く出入りする漁船なども入れながら大村湾を写すとするならば、絶好のシャッターチャンスともいえます。あと、島周囲の海岸は約250mありますが、一部の堤防や橋脚などを除けば太古の昔から変わらぬ海岸線でもあります。いずれにしても、この鹿島は、風光明媚な所といえます。 史跡説明板の内容 なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。 < 鹿島の弁財天 「老松みどり映えた鹿の島」と呼ばれました。もとは浅瀬でつながれた古墳の島です。 大正時代より料亭がつくられ、昭和の四十年代まで営まれました。 島の中央部には、戦争で犠牲となられた地区出身の戦没者の招魂碑が建立されています。 令和三年三月三十一日 松原宿活性化協議会 > 注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。 しかし、今回は(写真3)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ: (初回掲載日:2021年4月4日、第2次掲載日:4月6日、第3次掲載日:4月10日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日) |
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