大村の史跡説明板・案内板シリーズ | 惣原運動場(そうばる うんどうじょう)の標示板 |
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(写真1)写真全体が惣原運動場(大村市影平町) 惣原運動場の標示板は中央部後方にある。下記の(写真2と3)を参照 | |||||||||||||
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写真2) 中央部の白板が惣原運動場の標示板 中央部の左側は(昭和天皇)「御即位記念碑」 |
写真3) 惣原運動場の標示板 右奥側に国旗・校旗掲揚ポールがある |
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<用語解説> 惣(そう)とは、「室町時代、農村の自治組織。名主の中から選ばれた乙名 (おとな) ・年寄・沙汰人 (さたにん) などを中心に、寄合によって掟 (おきて) を定め、入会地 (いりあいち) ・灌漑 (かんがい) 用水などの共同管理や年貢納入の請け負いを行った。惣村 (そうそん) 。惣中。」(デジタル大辞泉より) 在郷軍人(ざいごう ぐんじ)とは、「平時は民間で生業に就いているが、戦時には必要に応じて召集され国防の任に就く予備役・後備役などの軍人。」(デジタル大辞泉より)
標示板写真周辺の説明 (場所の正確さについては上記の国土地理院の地図=「地図は、こちらから。」を参照願いたい) 大村市街地から、この惣原運動場へ向かう場合は、次の通り。国道34号線の与崎交差点から左方向へ進み、長崎県道37号・大村貝津線へ入る。 そして、1km行かない所(現在、三浦線海沿いマルシェなどのある反対側)にある(「日岳」や)日岳公園方向の看板(写真4を参照)がある道路を進み、次に(仏舎利塔などもある)尾根伝いへ登る。先の看板から約2km行くと鈴田の里学園方向へ左側に折れ、あまり行かずに今度は左側の丘へ登る小道を走行すれば丘の上に惣原運動場が見えてくる。 ・惣原運動場は周囲の景色も含めて素晴らしい ここの惣原運動場は、大村市内にある例えば大村高校、西大村中学校や郡中学校などの運動場ほどは広くはない。しかし、三浦小・鈴田小の児童、保護者、応援の地域の人が運動会や交流会などをするには、充分な広さがある。 また、この運動場は、このページ掲載(写真1を参照)でも分かる通り、トラック部分を除き周辺部は草地と木立に囲まれている。あと、国旗掲揚台の奥(東側)周辺には、コンクリート製ながら丸テーブルと丸椅子も設置されていて、いつでも樹木の下で休憩できる。 (写真5と6を参照) さらに運動場から遠くに目を向けると北東方向に山容のなだらかな五ケ原岳や山並みが見える。逆に、北西方向に目を転ずると大村湾、長崎空港、臼島、大村市街地も一望できる。このように、惣原運動場は、実に素晴らしい所である。 標示板の内容 (写真2,3、7)に白板で写っている惣原運動場(そうばる うんどうじょう)の標示板には、下記の<>内の青色文字が書いてあるので紹介したい。ただし、上野の転記ミスもありうるので、もしも、引用・参照されるならば必ず実物の標示板からして下さい。そのようなことから、下記内容は、あくまでも参考程度に閲覧願いたい。 < 昭和5年在郷軍人会の3代目鈴田陰平上郷(現陰平町)の山口武会長をはじめ有志が地域から寄付を集め、惣原の辻に1,320余坪の人々の憩いの場を兼ねた大運動場をつくりました。 この運動場は、古くから三浦地区と鈴田地区の交流の場として、毎年4月に子供から大人まで参加した日本一早い運動会が開催されています。 ※在郷軍人会とは、明治24年11月3日発足し、予備役等の人々で組織され、会員がお互いに競争して体も心も鍛えあい、家に残された家族を慰めたり、助け合ったり、困っている人々の手助け等を行っていましたしかし、在郷軍人会は昭和20年8月、第2次世界大戦終戦とともに自然消滅しました。 > ----------・・・----------・・・ 上記の標示板内容をまとめると次の通り (1) 運動場の完成は、1925(昭和5)年 (2) 運動場を造ったのは、当時の(鈴田村)在郷軍人会始め地域の有志 (3) 運動場の広さは、約1320坪=約4364平方メートル (4) 運動場の利用は、三浦村(現・三浦地区)と鈴田村(現・鈴田地区)の交流場で三鈴運動会などに利用 補足 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ: (初回掲載日:2025年5月6日、第2次掲載日:5月13日、第3次掲載日:5月17日、第4次掲載日: 月 日、第4次掲載日: 月 日) |
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