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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 立石様と古代の道跡

(史跡説明板)立石様と古代の道跡
 名称:立石様と古代の道跡  様式:説明板
 場所:草場町(草場公民館から西南西へ115m下った市道脇)  設置者:草場町内会、福重地区活性化委員会
 設置年:2016年3月1日(平成28年3月1日)  GPS実測値:32度58分14.15秒 129度56分59.55秒
 全体の大きさ:高さ153cm、横幅70cm  (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°58'14.15"N,129°56'59.55"E

 <注:この立石様と古代の道跡については、既に詳細なページとして、「福重の名所旧跡と地形」の立石様大村の古代の道と駅福重のあゆみ、古代の道と駅などを掲載中です。できれば先のリンク先ページも、参照願います

史跡説明板写真周辺の説明

 右側1番目写真を紹介します。写真中央部やや左側(東側)にある大きな石が、草場町にある立石様です。この場所は、草場公民館から西南西(下側、国道34号線)方向へ、115メートル下った市道の左側(南側)直ぐの一段高い所にあります。

草場町にある立石様史跡説明板
草場公民館から西南西へ115m下った市道脇にある)

 また、この石の直ぐ前は、市道の三叉路でもあります。あと、逆に国道34号線の交差点(空港北口)から登る方向ならば東北東方向へ、650メートル弱の位置関係にあります。

 なお、この立石様は、最初から現在地にあった訳ではなく、元あった場所は、東側方向へ十数メートルいった里道(赤道)の脇あった言われています。昭和時代後期頃の圃場整備(基盤整備)の時に、トラクター作業などに邪魔になるために、現在地に移設されたようです。

 この写真でもお分かりの通り、立石様や、その奥側に写っていますビニールハウスなどがある畑は、下部側にある市道より約150センチメートル高い所にあります。写真の手前側が、草場町を東西に通る市道です。

 この道路は、昔から通称で「草場の一本道」とも呼ばれてきたようです。なぜなら、仕事・生活・通学など、(この道路の左右側に集落が集中している)草場町の方々は、日常この道を通っておられたからでしょう。

 現在も草場町の丘陵地帯を縦断する場合、この市道が基本的には変わりないようです。ただし、例えば広域農道(通称:レインボー道路)などが数十年前に出来ていますので、昔よりは横断する道路も整備されてきています。しかし、国道34号線に出る場合は、今でも、この市道が便利ではあります。

古代の道跡(切通の道)
 次に、右側2番目写真を紹介します。先に書きました立石様から大村湾側(西側)へ下った同じ市道は、切通(きりとおし、きりどおし)の道になっています。この形状は、古代の道(官道)を造る時、真っ直ぐな道にするために尾根(丘)を切った(削った)跡とも言われています。

草場町を通る市道の切通 <真っ直ぐな古代の道(官道)を造る時に尾根(丘)を切った(削った)跡で、左右が崖みたいになっている。当然、当時は狭く、現代まで徐々に拡幅されてきた>

 写真でもお分かりの通り、道路の左右側が、崖みたいに見えています。ただし、現在は一段高い所は、田畑や住宅地になっています。また、現代になるにしたがって耕運機から、さらに幅の広い自動車・トラックなども通行できるように徐々に拡幅されてきました。

 そのため、「この市道の、この場所が切通だ」と言われない限り、やや分かりにくいかもしれません。ただし、(古代の道=官道)当時は、当然もっと狭く、私の推定ながら馬2頭がすれ違う程度の道幅(広さ)だったかもしれません。

 ご参考までに、この切通は、草場公民館から下る方向でも良く分かります。逆に、大村湾側(国道34号線側)から登る方向は、右側2番目写真通りですので、市道や左右の崖の状況が、より分かりやすいかもしれません。

 あと、古代の道(官道)を造る時に、何故わざわざ尾根(丘)を切って(削って)、切通の道にしたかと言う理由です。それは、緊急情報(国の防衛上の情報、例えば敵が攻めてきたとか)などを、国府=首都(古代肥前国の国府は、現在の佐賀市大和町で肥前国政庁跡がある)へ馬に乗って最短時間で伝える必要性から、出来るだけ真っ直ぐな道が必要だったと推測されています。

  改めて、道路の変遷(へんせん)は、交通手段(一例:馬車〜耕運機〜自動車)の発展により、全国でも大村市内でも拡幅や舗装など様々あります。それでも、何故この草場町を縦断する市道が、古代の道(官道)と、呼ばれているかについてです。それは、下記項目「史跡説明板の内容」にも書いていますが、この道路周辺には、古代の道跡駅跡に由来する地名(字=あざ)が、いくつかあるからです。(詳細は、下記項目を参照)

史跡説明板の内容
 右側上から1番目写真のやや右側に写っています立石様と古代の道跡の史跡説明板には、下記< >内の文章が書いてあります。(右下側の説明板の画像参照) 原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。また、見やすくするために改行、行間なども一部変えています。

立石様と古代の道跡の史跡説明板内容(PDFデータより加工)

 なお、この史跡の詳細説明は、「福重の名所旧跡と地形」の立石様大村の古代の道と駅福重のあゆみ、古代の道と駅などから参照願います。

< 立石様と古代の道跡
 この通称「立石様(たていしさま)」と呼ばれている自然石は、古代の道(官道)の道標(みちしるべ)との説がある。大村市内でも全国例でも「立石」あるいは「石立」との地名があるのは、ほとんど古代の道(官道)の道標から 由来している。

 石の大きさは高さ一三〇、横幅一六〇センチメートルである。元は現在地より東に一〇数メートル離れた里道(赤道)脇にあったが、水田整備(基盤整備)の時に現在地に移された。

  ここを通る市道は古代の道(官道)跡との説もあり、西側へ下る切通しは官道を真っ直ぐにするために尾根を切ったと思われる。

 草場町には馬込(馬を泊めておく所=駅) 、立石 (道標の石がある所) 、高縄手 (高くて真っ直ぐな道)など、古代の道と駅跡から由来したと思われる地名も多い。

 二〇一六年三月一日  草場町内会・福重地区活性化委員会 

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)




・詳細な関係ページ:「福重の名所旧跡と地形」の『立石様』、『大村の古代の道と駅』、『福重のあゆみ、古代の道と駅

(初回掲載日:2016年3月27日、第2次掲載日:3月28日、第3次掲載日:3月29日、第4次掲載日:3月30日、第6次掲載日: 月 日) 


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