弥勒寺の陽林
まず、この石塔の紹介文では大村市の文化財(改訂版)<大村市教育委員会、2004年3月発行>と言う本には、弥勒寺跡について以下のように紹介されています。次の< >内が、その引用で、「弥勒寺の陽林」に関しての記述は太文字にしています。
< 弥勒寺町公民館の裏手の水田の所にあった寺院です。郡七山十坊の一つで、建てられた時期は不明ですが、平安時代後期には寺の名が出ています。寺領21石といわれ、初め真言宗であったのが、貞治5年(1366)禅宗に変わっているようです。天正2年(1574)キリシタンによって壊されました。
江戸時代になって、寺の名が地名となって残り、郷名となり、現在も町名となっています。3代藩主大村純信の時の.正保4年(1647)堂を建て、弥勒菩薩を祭り、寛保2年(1742)再建されました。
幕末の拝殿は2間(約3.6m)×2間半(約4.5m)の茅ぶきで、境内は東西11問(約20m)南北9間(約16m)で、薬師如来も祭られ、他に屋敷が3畝(約300u)ありました。寺跡を寺屋敷・七山屋敷といいます。
すぐ横の公民館の敷地内に、「陽林」と刻んだ大きな自然石が建っています。これは地蔵菩薩のことだといわれています。また「不動明王」と線刻した自然石が建っており、鎌倉時代のものといわれていますが、ともに弥勒寺との関係ははっきりしません。なお、現在弥勒菩薩・薬師如来は、同じ町内の個人宅に祭ってあります。 > (引用終了)
以上の紹介文に、「陽林」=地蔵菩薩と記述されていますが、なぜ「地蔵菩薩」なのか詳細は不明のようです。また、この石塔は、「誰かの墓碑ではないか?」との説もあります。どの説も決定的な根拠がないようです。
上野の補足
上記の太文字部分以上に書籍類での陽林の紹介文はないようです。ただし、この石塔紹介文が(大村郷村記を参照されたのかもしれませんが) なぜ「地蔵菩薩」なのか、素人目に良く分からないものです。
あと、諸説ある中で、これから述べることはあくまで推測なのですが、この寺院で「力や功績のあった僧侶(住職みたいな人)の墓碑ではないか」との意見が地元であることも参考程度に、ご紹介しておきます。(その当時の時代は、弥勒寺が戦国時代のキリシタンによって破壊・焼き打ちにあう以前と推測されます)
また、上記以外にも説があります。これらの件については、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページの「陽林」項目に詳細を書いていますので、ご参照願います。
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