漢字二文字の石塔(石碑)紹介
この項目は2012年4月現在で分かっている範囲内で、陽林、道看、三伯、陽白の4石塔(石碑)について書いていこうと思っています。既に、陽林と道肴(石走の道祖神)の2基については、各ページに詳細内容を掲載しています。ただ、掲載中の文章と、ここで書いている内容とは、先の各紹介ページと主旨が違うため別角度で書いている場合もあります。
いずれにしても、この4石塔(石碑)は個別に書きながら後で共通項があればまとめようとも思っています。また、各基別に特徴点もありますので、そこから掘り下げて見て見たいとも考えています。これらの4石塔(石碑)についての明快な根拠のある史料(資料)がないため、私の推測、想像も交えた書き方にもなりますが、その点は、あらかじめご了承願います。
|
陽林(弥勒寺町公民館敷地内)
<白線の文字部分はCG写真加工>
|
1)陽林(ようりん)
この石塔(石碑)は、先に何回か書きました通り、陽林や弥勒寺の熊野権現ページで既に紹介中です。改めて所在地、大きさ、特徴などを書きますと、次の通りです。
・所在地:弥勒寺町公民館敷地内(東側)、弥勒寺の熊野権現への階段近くにある。
・大きさ:台座を除いて高さ約204cm、横幅約98cm。
・特徴:自然石で上部のやや中央より左側部分に陽林の文字が彫ってある。この文字の下側1m位の所に何か宗教上のマークか、文字があった跡らしきものもある。
・陽林が紹介されている書籍関係:『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の68ページ「弥勒寺跡」には、(大村)郷村記を引用する形で、次の<>内(太文字)が書いてあります。<(前略) すぐ横の公民館の敷地内に、「陽林」と刻んだ大きな自然石が建っています。これは地蔵菩薩のことだといわれています。>
先の『大村市の文化財(改訂版)』を書くに当たっての引用元と思える(大村)郷村記には、次の<>内(太文字)が記述されています。<地蔵 石立像 例祭不知>(現代語訳=「地蔵は石の立像で例祭は不明である」)
この「地蔵」説について、先に掲載中の「弥勒寺の熊野権現」ページに、私は疑問があると書いています。それは、重複しますが、<石立像>と表現する以上、寿古町の竈権現(かまどごんげん)の地蔵(右下側写真=竈権現の地蔵を参照)に近い形ではないだろうかと思っているからです。
また、陽林と同じ敷地内(元は同様に弥勒寺の熊野権現敷地内あった)には、弥勒寺の不動明王があります。この不動明王について、(大村)郷村記には、「不動 神躰野石 例祭九月十八日」(現代語訳:「不動明王、御神体は自然石である。例祭は9月18日に執り行われている」と記述されています。
陽林も不動明王も二つとも自然石の石仏、石塔ですから、ここで仮に陽林が『大村市の文化財(改訂版)』通り「地蔵」とする場合なら、先の不動明王の書き方と同様に(大村)郷村記には<「地蔵、神躰野石」と書いたと推測できます。しかし、そのような記述ではなく、<地蔵 石立像 >と、違った表現です。江戸時代、この”石立像”と言う場合は、石工が彫像した石仏、つまり、下右側写真の竈権現の地蔵のようなものだと、私は思っています。
逆に、この「地蔵」説を否定する考えが正しければ、今度は「この陽林と彫られた石塔(石碑)は、一体何だろうか?」、「何の目的で高さ2mも越す自然石に、わざわざ文字まで彫って建立したのか?」と言う新たな疑問が湧いてきます。それは、次の項目で述べます。
・誰かの墓碑説
この疑問について、建立年代は不明ながら地元では様々な意見が出されています。その代表例として、「この地で力、財力や功績のあった弥勒寺の僧侶(住職みたいな人)の墓碑ではないか?」との意見です。ただし、墓碑の大きさだけで生前の力が、全て表されているものでは当然ありません。
|
竈権現の地蔵
(寿古町、竈権現の前)
|
この陽林が、仮に古代や中世時代の建立とするなら、この当時の大村では、どの地域でも沢山の文字入りの石塔(石碑)があった訳ではないと思われます。特に、誰も彼も(特に、庶民は)、この種の文字入り石塔が建立できたと言うものではないので、ある面「力や功績のあった人の墓碑説」は有力な考えの一つとも言えるのではないでしょうか。
この「力や功績のあった人の墓碑説」の方が、ここの地域=弥勒寺のあった所(弥勒寺跡紹介ページ参照)からしても自然とも言えます。
・他の地蔵と外観対比で考えて
あと、陽林よりも相当新しい江戸時代建立の地蔵と比較するのは、本来おかしいのですが、寿古町の竈権現(かまどごんげん)の地蔵との大きさや外観対比も考えてみました。この竈権現の前にある地蔵(右側写真参照)は、土台部含めた全体で高さ約145cm、横幅約45cmあります。土台部を除き蓮華座から頭部までの地蔵本体は、約100cmです。
この地蔵本体は、そう大きくはありませんが、大村市内、長崎県内あるいは全国でも普通に見られる位のサイズです。それに比べ、陽林のサイズは、高さも横幅とも2倍以上あり、もしも「地蔵」とするならば相当大きいものと言えます。この大きさや像の作りなどの外観からしても、「陽林が、”地蔵”と言うなら違和感を感じる」と言う私の感覚も、そんなおかしなものではないと思うのですが、皆様の印象はどうでしょうか。
・他の文字塔例から考えて
また、私は、他の石塔類で例えば馬頭観音や大日如来と文字の彫られただけの文字塔もいくつか見た経験があります。どの文字塔も、馬頭観音なら「馬頭観世音」、大日如来ならば同名が中央に彫られていました。つまり、何の仏像を表しているのか、その同名の文字で全て彫られているのが一般的だと言うことです。
しかし、この陽林は、大村郷村記や『大村市の文化財』に書いてあるのが正しくて地蔵ならば、文字塔としては「地蔵」あるいは「地蔵菩薩」の文字が彫られているのが普通と言えますが、そうではないのです。陽林の場合、「地蔵」などの文字は一字もなく、”陽林”の2文字だけ彫られているのです。このように「地蔵の文字塔ならば、その文字は”地蔵”か”地蔵菩薩”だ」と言う点から考えても私は、「陽林が地蔵」と断定するのには違和感や疑問を感じています。
・弥勒寺付近は古代の修験道入口の一つ
(大村)郷村記によると、郡岳(こおりだけ、826m)の旧称・太郎岳には古代(奈良時代の初期、和銅年間)に太郎岳大権現が開山され、戦国時代の文明年間に多良岳(現在の多良大権現、金泉寺の前身)に引っ越すまで、この地にありました。その太郎岳大権現や途中にある御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝、古来からこの滝は修業場だった)などに修験者が登っていました。
その修験道が福重や松原には、そこから太郎岳(郡岳)へ登るルートが主な道だけでもいくつかありました。西側から順に、1,大野原方面から、2,武留路から、3,現在の県道(大村嬉野線の一部分)沿い、4,福重の石走川沿い(石走には太郎岳大権現の「一の鳥居」もあったとの伝承あり)、5,妙宣寺横から釈迦峰越え、6,弥勒寺から、7,立福寺から、8,重井田からなどの修験道です。(その極一部を既に『古代の道、福重の修験道』ページに掲載中)
修験道や仏教寺院の関係から、弥勒寺には仏教に関係した地名・字(あざ)も例えば「釈迦峰、上八龍、下八龍、赤坊園」などがあります。このような修験道、地名など、弥勒寺は深い関わりが古代からあって、今回の陽林のことも充分、このことと関係しているものとも思えます。
陽林のまとめ
陽林は、一体全体何なのかの結論を述べるには、まだまだ時期早尚と思います。ただ、私なりに色々と調べてみて、従来説=『大村市の文化財』に書いてある「地蔵」説ではないと思います。先の項目にも詳細に書いていますが、この書籍の引用元になっている(大村)郷村記に記述されている地蔵は、その表現方法から想像して「陽林のことではなく、別の地蔵のことを書いているのではないか」と言うのが、私の推測です。
この2mを越す陽林の石塔本体や大きな文字の彫り方からして、他の3基(道看、三伯、陽白)よりも、単純な表現ながら一番”立派な造り”とも言えます。このようなことから、先の項目で書いた通り、「この地で力、財力や功績のあった弥勒寺の僧侶(住職みたいな人)の墓碑ではないか?」との説は、ある意味、自然な考えとも思えます。ただ、何回となく申し上げている通り、それを裏付ける決定的な証拠(史料)がありません。
いずれ何らかの機会に弥勒寺跡周辺から遺跡や遺物などが発見され、もしかしたら詳しい(当時の)弥勒寺や陽林解読の糸口も出てくる可能性もあるかもしれません。さらには、全国例で「陽林は、・・・・を意味するものだ」と言う別角度からの情報提供もあるかもしれません。そのような遺物、史料や新情報が出てくれば、私は、このページに書いている内容に何らこだわることなく改訂したいとも思っています。
|
石走の道祖神(福重町の石走) <CG写真加工未実施、中央に円相、中央最下部に道看の文字があ。>
|
2)道看(どうかん)
まず、この道看の彫ってある自然石の名称について書きます。この石は、通常、石走の道祖神と呼ばれています。その関係から、既に従来説を中心とするならば石走の道祖神ページで詳細に紹介中です。今回、新たなことも分かりましたので、新見解含めて掲載しようと思っています。ここで、改めて所在地、大きさ、特徴などを先にまとめて書きますと、次の通りです。
・所在地:大村市福重町の字(あざ)石走で、二つの石走川が合流する所から約50m北側に登った市道脇(九州電通の入口近く)にある。
・大きさ:高さ約83cm、横幅約104cm、周囲211cm、厚さ約14cm。
・特徴:厚さもあまりない平べったい自然石である。中央部より上部に円形のマークみたいなものがある。中央最下部に地面上の1文字と地面以下にある1文字含めて道看(どうかん)の文字が彫ってある。
・石走の道祖神が紹介されている書籍関係:『大村市の文化財(改訂版)』(大村市教育委員会・2004年3月26日発行)の47ページ「石走の道祖神」に書いてある。その紹介文章の全文は、石走の道祖神紹介ページから参照。このページでは、一部概要のみを次の<>内(太文字)が書いている。
<(前略) 「道有」と刻んだほぼ四角形の1mほどの石が立っています。やぼ神様といわれて (中略) 「道有」とは道が有るということで、道祖神の一つです。道祖神とは昔から塞の神(さいのかみ)・幸の神(さちのかみ)・歳の神(さいのかみ)などといわれ、悪霊(あくりょう)などが村へ入り込まないように祭られた神様です。て (中略) この道祖神のある所は、遠い昔、船着き場があって、郡岳に太郎山大権現があった頃から、ここを出発点に道が通じていたのだろうと思われます。 >
「道有」ではなく道看の文字だった
上記の通り、今まで石走の道祖神の中央下部に(地面下にある分かりにくい一文字含めて)彫られている二文字は、「道有」と信じられてきました。そして、様々な説はあるのですが、そのことから「道祖神」含めて「道」に関係ある説が一般的でした。これらの説に対して、並行して別の説もありました。
|
石走の道祖神(福重町の石走) <CG加工写真、中央に円相、中央最下部に道看の文字>
|
それは「道祖神ではなく、誰かの墓碑ではないか?」、「道有は古い漢字読みからすれば下から読むので『道が有る』の意味ではない。『道が有る』と言う意味なら書き方として逆の”有道”の漢字が正しい書き方ではないか」などでした。そのようなことを話していたところ数年前に大村市文化振興課の大野氏より、「上野さん、いっそのこと地面下にある文字も調査したらどうか」とのアドバイスをして頂きました。
ここは従来から福重の史跡巡りコースの一部であり、あるいは2011年11月25日NBCテレビ番組”あっぷる”の(「いぼ神様特集」の)「イボとり地蔵を徹底リサーチ!」」中で、上野の説明付きで紹介されたことなどもありました。そのようなことから、テレビ番組を見た人の中で有名になり、しばし地元でも話題となりました。
その時、 私は、いつまでも「従来から彫られている漢字には二つの説がある」とか「この道祖神自体にも様々な説がある」みたいな説明ばかりしていてはダメだなあと感じました。そんな折り、先の大野氏のアドバイスを思い出し、2011年12月16日に地面を20cm弱掘ってみました。
また、2013年4月28日に同様にして、今度は拓本作業をおこないました。その後、大村市文化振興課の方々の判断も仰ぎ、結果、”道看(どうかん)”という文字であることが分かりました。先の「看」は、正確には俗字の看ですが、パソコン変換できないので、先の文字を用いています。なお、道看は、の意味は、まだまだ仮説で確定てきではないですが、現在では”道観”と同じ意味かもしれないですが、今後も検証が必要です。
その後、彫られた線部分をCG加工したのが、右上側、石走の道祖神のCG加工写真(黄色の線部分)です。率直に申し上げて、どれが文字で、他は失敗線または石自体の割れ目など、いくつかの線部分でも判読しにくいところもあります。文字の実物も「道」と言う字の上に点々が二つあるような省略形の”看”の漢字のCG加工を仕上げました。
結果、この石走の道祖神の中央下部に彫られている二文字は、”道看(どうかん)”です。この文字が正しいとするならば、次に、「この道看の文字は何を意味するのか?」、「この石塔が道祖神でなければ、一体全体、何なのか?」と言う疑問が新たに湧いてきます。そのことについては、次の「丸いマークは円相で、禅宗の墓碑ではないか」の項目から書いていきます。
|
中央部の拡大<CG加工写真>
|
・地域伝承と道看の文字の補足について
この石走の道祖神についての書籍類の調べ方が不足していましたので、ここで補足を書きます。実は、長崎教育委員会で1965年3月31日に発行された「長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書」(以降:民俗資料調査報告書または報告書と称する)と言う書籍があります。これは、簡単に言えば当時の県内各市町村別に調査員を選出され、その方々が地域で長年伝承されている風俗や習慣さらには史跡、石仏など幅広く調査し、まとめられたものです。
大村市内の民俗などについても多数記述されています。ただし、この民俗資料調査報告書の名前の通り、民俗(大昔からの民間で伝わってきた風俗や習慣など)が中心ですから、石塔(石碑)専門の資料ではありません。しかし、地域伝承で石塔、石仏でも名称や極簡単な紹介はしてあります。ご注意:この民俗資料調査報告書には、今回調査した結果、文字は道看だったのに、この当時は”道肴”と書いてありますので、この点は要注意でご覧願います。
民俗資料調査報告書の280ページに石走道祖神の記述と思われるのがありました。それは、次の<>内です。(太文字は上野が付けた)<道祖神 大村市福重矢上 道肴の陰刻あり。いぼ神様という。> これを( )内などで補足しながら分かりやすく口語訳すると、「(石走の)道祖神は大村市福重(地区)矢上郷(現在の福重町)にある。道肴と言う文字が彫られている。(この道祖神は)いぼ神様(との言い伝えがある)」と言えるでしょう。
この報告書には既に彫られている文字は、道肴であること、伝承でいぼ神様と言うことまでは書いてあります。ただし、この書籍全体は、あくまでも地域伝承の簡単なまとめですから、伝承自体の真偽の問題と道肴と言う漢字の由緒や意味までは書いてありません。それは先に書いた通り、この民俗資料調査報告書は、石塔や石仏の専門報告書ではありませんから、このことの掘り下げた記述がないのは、当然のこととも思えます。
ここで私が注目しているのは、この調査がおこなわれた1965年よりも何年か前の時点では、石走の道祖神の文字が全て見えていたのではないかと言う点です。それは現在地よりも違う場所だったのか、あるいは今みたいに道路舗装されていなくて(現在は道祖神前の地面がやや高くなっている)地面下も見えていたのかもしれません。
あと、この民俗資料調査報告書が発行された1965年よりも後年になる大村市教育員会から1990年3月31日発行の『大村市の文化財』、2004年3月26日発行の『大村市の文化財(改訂版)』にも先の民俗資料調査報告書にある道肴の文字は反映されていなくて、二つの書籍とも「道有」の文字で書いてあることは先の項目で述べた通りです。
いずれにしても、2013年4月28日の拓本調査などによって、この文字は「道有」でも「道肴」でもなく、道看(どうかん)であることが判明いたしました。なお、後で書く予定の三伯、陽白についても、この民俗資料調査報告書に記述されていますので、その該当項目で同様にこれらの点は触れていきたいと思っています。
丸いマークは円相で、禅宗の墓碑ではないか
先の道看の文字とともに、その上部に付いている真円(しんえん、完全な円形)のマークについて、私は、当初その意味を何も知りませんでした。ただ、不明ながらも何か宗教上のマークか、あるいは何か意味があるのではと思っていただけでした。話しは脱線しますが、私は、「昔の人は、このような石塔(石碑)類だけでなく書籍類などについても、無駄なことはしないし、色々な意味を込めてある」と思っている者の一人です。
|
上部に円相が付いている |
そのようなことから何かヒントはないかと思っていたところ、大村市の隣、東彼杵町の史跡、安全寺大御堂跡(あんせんじおおみどうあと)に東嶺素門(とうれいそもん)と言う石塔(石碑)の見学や拓本作業をする機会がありました。そこにも東嶺素門の文字上部にあったのが、丸いマークでした。「あー、ここにも石走の道祖神と同じような丸印がある」と思い、何か共通項や意味があるのではと、さらに思うようになってきました。
その後、インターネットで色々と墓石・記念碑・石材店の多くのホームページを見る機会がありました。すると、各種墓石のサンプル紹介ページで同じ仏教でも各宗派別によって様々な違いがあり、その中で「(右側の画像参照) 円相が付いているのは禅宗の墓」みたいに書いてあるのが、いくつかありました。この丸いマークみたいなものは、”円相”ではないかと言うのが分かりました。さらに、国語辞典の大辞泉で円相や禅宗を調べて見ると、次の<>内のことが書いてありました。
<円相=禅宗で、悟りの形象として描くまるい形。心性の完全円満を表す>、<禅宗=仏教の一派。もっぱら座禅を修行し、内観・自省によって心性の本源を悟ろうとする宗門。達磨(だるま)が中国に伝え、日本には鎌倉初期に栄西が臨済禅を、次いで道元が曹洞禅を、それぞれ入宋ののち伝えて盛んになった。江戸時代に明の隠元が来朝して黄檗(おうばく)の一派を開き、現在この三派が並び行われている。以心伝心・教外(きょうげ)別伝を重んじ、仏の心をただちに人々の心に伝えるのを旨とするので、仏心宗ともいう。>
このようなことから、「名前の上部に円相の付いている石塔(石碑)は禅宗の墓碑(墓石)なのか」と思うようになりました。それならば、この石走の道祖神にも付いている丸いマークも同様で、そこから九分九厘、誰かの墓碑だろうと考えました。ただし、まだ「100%、誰かの墓碑で、その宗派は禅宗だ」と書いていないのには理由が二つあります。それは、主に下記の事項です。
一つ目、「墓碑なら道看と言う人の名前だろうか。仮にそうだとしたら、どんな人だったのか?」
二つ目、「元々あった場所は現在地より道路下方の水路や水田側にあったと言われているが、なぜ墓碑に不向きな場所にあったのだろうか?」
と言う疑問点です。
あと、地域伝承ですから真偽の関係から慎重に書かざるを得ませんが、地元では墓碑と言うより、長年にわたり「道祖神」、「いぼ神様」、「やぼ神様」などして、なぜ祀られてきたのかと言う素朴な疑問もあります。また、『大村市の文化財(改訂版)』や石走の道祖神紹介ページにも書いていますが、この石走と言う所は、古代、太郎岳大権現の一の鳥居があった場所との伝承もあるので、その関係は全くないのだろうかと言う点も今なお残っています。
(大村)郷村記に記述されていない石走の道祖神
江戸時代に編纂された(大村)郷村記には、地元で有名でないような小さな石仏までも大抵書いてあります。当然何でも100%記述と言うことではないのですが、この石走の道祖神については何にも触れられていないのです。大きさ(高さ約83cm、横幅約104cm)だけなら、福重にあるの石塔(石碑)類の中では大きい方で、しかも比較的大きな文字まで彫ってあるのにです。さらに地元で道祖神なのか、イボ神様なのかは別としても、何らかの形で長年祀っていたのは明らかなのに(大村)郷村記に書いていないのです。
この点でも色々と考えてみましたが、何の石塔か石仏なのか分からなくても(大村)郷村記には、例えば「石仏一体あり、由緒は不明」みたいな書き方も多いです。しかし、この石走の道祖神については、それすらもないようです。元々あった場所は、水路や田んぼ近くにあったと言うことですから、場所的には分かりやすかったとも思えるのですが、何も記述していないのは不思議な感じもします。
道看のまとめ
ここで改めて言うのもなんですが、このページの表題は、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”、何だろうか?」です。そして、掲載しているのが、陽林、道看、三伯、陽白の4基です。この中で石走の道祖神=道看を除く他の3基の説は少ないのですが、道看だけは説が多くあり過ぎて、かえって分かりにくい石塔(石碑)と言うべきでしょう。地元伝承含めて、その説を再度挙げてみると、1,道祖神、2,いぼ神様、3,やぼ神様、4,誰かの墓碑 5,修験道に関係する石塔などです。
彫られていた文字についても従来説では、「道有」でした。しかし、先の項目で述べた通り地面下の写真撮影あるいは、その後のCG加工などにより、道看が正しいと思われます。私は、今後、この文字解明により、従来説だけではなく、違った観点での考え方や研究が進んでいくことを期待しています。
・「現場、原典に当たれ」を再認識した
あと、それと歴史・郷土史は、昔の史跡や古記録を中心に書いていきますから、どうしても”前歴第一主義”あるいは”経験第一主義”的な傾向になりやすいです。しかし、今回アドバイスを受け地面下を掘っての拓本作業や写真撮影などは、初歩的と言いますか基本的なことを自らしてみて、改めて「真実は現場・原典に当たれ」みたいな言葉を思い出しました。郷土史の諸先輩方の書かれた従来見解(論文)を、写してアレンジした紹介文を作成するだけでなく、再確認・再検証してみることの大切さを私なりに少し学んだような気がします。
|
三伯(松原一丁目、東光寺跡)
<青線の文字部分はCG写真加工>
|
3)三伯(さんぱく)
今回この石塔(石碑)について、私は初めて紹介します。まずは、所在地、大きさ、特徴、関係書籍などを先に書きますと、次の通りです。
・所在地:<旧・福重村草場郷・字(あざ)東光寺> 現・大村市松原一丁目(市指定史跡の東光寺跡)
・大きさ:高さ約146cm、横幅約135cm、周囲290cm。
・特徴:上記の通り縦が長いが、横幅もあるため面積が広く感じる自然石である。この石塔(石碑)は三伯と言う文字に一番の特徴があると思われる。他の3基の石塔に比べても文字が最大である。
・書籍類について:(大村)郷村記には、この三伯についての記述はないようだ。また、大村市内で近代発行の書籍類にも書いていない。ただし、1965年3月31日に長崎県教育委員会から発行された「長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書」(以降:民俗資料調査報告書または報告書と称する)と言う地域伝承をまとめた書籍には、270ページに次の<>内が記述されている。(太文字は上野が付けた)
<馬の神 東光寺内 三伯(陰刻)の文字ある。>(口語約:「馬の神様が東光寺跡の所にあって三伯と言う文字が彫られている」)ただし、この報告書は先に書いている通り、石仏石塔の専門家が研究分析して書かれたものではなく、地域伝承を編纂されたものである。
なぜ、三伯の文字と「馬の神」と伝承されているのだろうか
この項目では、三伯の文字そのものと、この石塔(石碑)が何なのか、いくつかの説に基づく推定も考えていきたいと思います。まず、この三伯含めて今回のシリーズに登場している陽林、道看、陽白の4つの文字とも、それ自体に意味はないようです。これらの文字の上か下かに例えば「・・地蔵」、「・・馬頭」などの文字が彫ってあったとしたら、直ぐに前者は地蔵、後者は馬頭観音と分かります。しかし、今回の4基とも何かの石塔や石仏を表す文字がないのです。したがって、いくら伝承で「馬の神」との言い伝えがあったとしても、そのように直ぐには100%確定とはしにくいと思います。
なお、この三伯についても江戸時代編纂の(大村)郷村記には記述がないようです。この古記録以降に建立されたことも考えられますが、それならば例えば近代に建立された近くの草場の馬頭観音や矢上の馬頭観音と同じような形式で建立されたはずです。馬や馬頭などの文字あるいは仏像形式で馬の形が入らない、ただの漢字二文字だけの馬頭観音は市内には、ほとんどありません。
次に、地域伝承の説についてです。伝承は、古記録に比べ、どうしても真偽の問題がつきまといます。ここで、仮に先の民俗資料調査報告書にある通り、仮に「馬の神」だったとして考えてみます。大村市内の場合、あくまでも私の現時点(2012年5月現在)で調べた範囲内ですが、「馬の神様・守り神様」として石塔がある場合、ほぼ100%が馬頭観音です。さらに言えば市内で最も古い馬頭観音は、1700年代中頃から建立されています。
これらの建立理由は、馬頭観音の庶民信仰と農業・林業・輸送業などの産業の発展とともに馬の役割増大による影響が大きかったと言えます。その結果、市内全域で馬頭観音が江戸時代から近代にかけて多くが建立されてきた経過があります。(「大村の馬頭観音」シリーズに一部掲載中) つまり江戸時代中期以前に建立された大村市内での馬や牛など動物の「守り神様」的な、馬頭観音みたいな仏像類はないと推定しています。
ここから仮に、この三伯が地域伝承の通り「馬の神様」としたら、それよりも古い年代に建立されたと言うことです。はたして、そうなるのでしょうか。それだけ古くて、しかも縦横1mを優に超す大きさがあって、長年地域での祀られてきたするならば、何故(大村)郷村記に記述がないのでしょうか。小さな石仏まで詳細に書いてある(大村)郷村記からすれば、この三伯が書いていないのは、何か不思議な感じもしてきます。
ここまで書き進みますと、「はたして、この三伯は地域伝承通り、”馬の神様”として建立されただろうか?」と言う疑問さえ湧いてきます。ただ、地域伝承も無視は出来ず、例えば(かなり無理な想像になりますが)「当初の建立は・・・・の石塔として立て、その後かなり経って、後世に”馬の神様”みたいに転用されたのでは?」との解釈も出来はしますが、この解釈は違うように思えます。
あと、蛇足的になりますが、この三伯の「伯」だけを取りだし、さらに想像して例えば中国の「伯楽」と言う馬の良否を見分け育てる名人の故事を私は思い出します。ただ、この「伯楽」は人の名前ですから、動物の”馬の神様”とは結びつかないような気もします。いずれにしても、三伯と言う人の名前のような、それ以外では通常意味が分からない文字が彫られて、それが直ぐに”馬の神様”だと解釈へ結びつくにしては、根拠不足のような気がします。
三伯のある東光寺跡と場所などについて
この三伯のある東光寺跡の詳細説明文については、既に掲載中の東光寺跡紹介ページをご参照願います。極簡単に言えば大村でも相当古い創建で、しかも天正2年(1574)にキリシタンによる大村領内での他宗教への弾圧事件(神社仏閣の焼打ち・破壊・略奪さらには僧侶の峯阿乗の殺害などが起きた)前までは、寺領(石高は130石)で大村最大規模でした。
|
東光寺遺跡<大村市指定史跡>
(現・大村市松原一丁目、旧・福重村草場郷)
三泊は写真中央の自然石
|
その後、江戸時代に東光寺跡付近に薬師堂が建立されました。それが、現在地周辺です。つまり、この周辺は古代から江戸時代頃まで、ずっと東光寺や薬師堂があった所です。そのような場所に、はたして地域伝承通り、”馬の神様”と言うのが建立されたのか、場所そのものにも疑問符が付くような気がします。
なぜなら、私は大村の馬頭観音を調査して分かったのですが、この石仏は今みたいに町の中心地の権現様や公民館横にあったのではなく、以前はほとんどが集落外れ、あるいは道路脇にあったと言います。つまり、動物の、馬の”守り神様”や供養的な意味もあって元々の建立地は、村の中心地=村の守り神様でもある権現様などにはなかったと言うことです。さらにもっと明確に言いますと、いくら馬が大きな存在であっても、人や集落を守る神(権現様など)と馬の守り神様でもある馬頭観音を同じ所に置くと言うことを当初はしなかったのではないかと考えられます。
・どこからか運び込まれた可能性も否定できないのでは
先の項目で江戸時代編纂の(大村)郷村記に三泊の記述がないことを紹介しました。現在ある石祠、二体仏や宝篋印塔(ほうきょういんとう)よりも数倍も大きく、直ぐ目立つような三泊が(大村)郷村記に書いていないのは、不自然な感じがします。さらに言えば「三泊は、ここに最初からあったのだろうか?」と言う先に書いた疑問が残ります。
私は、ある仏教寺院の敷地内に様々な場所から持ち込まれた六地蔵、五輪塔や宝篋印塔などの一部分(残決)を見てきました。これらと同じように、「今回の三泊も近代になって、どこからか運び込まれた可能性も否定できないのでは」と思われます。ただし、これだけ大きな石ですから、もしもそのようなことであっても、遠くからではなく近くの場所からと考えられます。
・三伯の近くに修験道が通っていた
この東光寺跡から約30m上部には現在、長崎県道・佐賀県道6号大村嬉野線が通っています。これは、松原から野岳を通り、そこから嬉野へ通じている道路です。この道と、「福重の修験道」や「大村の古代の道や駅」紹介ページのコースと、やや違います。しかし、山岳宗教用の道路は数本だけでなく東西南北様々な登り口から通じていました。海岸沿いの松原から東光寺を通り、野岳や太郎岳大権現(現在の郡岳)などへ行く修験道もあったと思われます。
なお、念のため、これら修験道のことについては、先の陽林(「弥勒寺付近は古代の修験道入口の一つ」)、道看の項目にも書いています。彼杵郡家<彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった>のあったと思われる寿古町、松原本町さらには武留路町方面、その他からと、この周辺だけでも最低でも3本位の修験道が、地形上あるいは江戸時代の大村藩領絵図(この絵図上の道は今もほとんど変わっていない)などからも推測されます。
|
三伯(松原一丁目、東光寺遺跡)
<青線の文字部分はCG写真加工>
|
さらにもう少し明確に言いますと、この付近の川沿いや尾根上の道は、工事などで若干の違いはあっても、古代から現代までコース自体は大きく変わっていない思われます。なぜなら、道路は古代・中世・近世・近代でも、便利さから来るコース設定と、逆に田畑・用水路さらには土地所有の境界線などから道路設置の制限もあり、大規模工事などがない限り、そう大きく変わっていないからです。
このようなことから、今回の三伯も古代からに太郎岳大権現などに登るための修験道近くにあった可能性も大きいと想像されます。その意味からすれば他の陽林、道看、陽白と同じ状況で、この「修験道近くあった」と言う点からの考慮も当然必要と言えます。
三伯のまとめ
先に書いたことと重複しますが、この三泊は地元伝承では「馬の神」と言われてはいます。しかし、それ以外には、建立年代などの由緒も何も分かっていません。また、「馬の神」と言う伝承さえも様々な状況からして疑問符が付くと、私はずっと書いてきました。また、私の想像ながら三泊は、他の陽林、道看、陽白と同じように「人の名前みたいだ」とも思えました。
建立年の不明さから、石塔・石碑類の小さなことまで詳細に書いてある江戸時代編纂の(大村)郷村記に記述がない不思議さも述べました。さらに言えば当初の建立場所が現在地であったどうかの疑問までも書きました。以上、色々な観点からして三泊について、ほぼ全く未解明状態とも思えます。このような時には、再度、出発点に戻って、回りのことから調べていく必要があるのではと私なりに考えました。
そのようなことから、現在、郷土史の先生方によって、ほとんど調べ尽くされているような東光寺跡や、この場所周辺の史跡や伝承も含めて再調査しています。三泊の結論まで達するかどうか分かりませんが、この場所の以前の名称だった旧・福重村草場郷と言う所は、「大村の古代の道や駅」があり、さらには平安時代末期頃の「草場の経筒その1、その2」(=「大村の経筒」ページ参照)や「草場の単体仏」も出土している土地柄です。
このようなことから、何か三泊などにつながることもあるかもしれませんし、また何かの遺跡発掘などで新たな情報がもたらされるかもしれません。そのようなことになれば、このページは改訂や補足もしたいと考えています。
|
陽白(松原一丁目、個人宅横)
<白線の文字部分はCG写真加工>
|
4)陽白(ようはく)
この陽白についても今回、私は初めて紹介します。まずは、所在地、大きさ、特徴、関係書籍などを先に書きますと、次の通りです。
・所在地:大村市松原一丁目(個人宅の横、市道脇)
・大きさ:高さ約150cm、横幅約80cm、周囲200cm。
・特徴:上記の通り所在地は個人宅の横だが、そこは市道脇でもあり分かりやすい所でもある。陽白の文字は大きいので形は直ぐ分かりやすいが、彫りそのものが浅いためか漢字の作りで一部やや視認しずらい所もある。(右側CG写真は一部推測も含めて写真加工しているので、あくまでも参考程度にご覧願いたい) この石塔は所有者の方が良く祀られている。
・書籍類について:(大村)郷村記には、この陽白についての記述はないようだ。また、大村市内で近代発行の書籍類にも書いていない。ただし、1965年3月31日に長崎県教育委員会から発行された「長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書」(以降:民俗資料調査報告書または報告書と称する)と言う地域伝承をまとめた書籍には、269ページに次の<>内が記述されている。(太文字は上野が付けた)
< 道祖神 一の郷梶尾(福島宅の道端) 高さ1.5米 横0.5米 陽白(陰刻) 疣の神という。お茶を供へる。 >
口語訳: 上記<>内を補足しながら口語訳すると、次の「」内通りと思える。(太文字は上野が付けた) 「 道祖神、一の郷(現在の松原一丁目)字(あざ)梶尾(かじのお)と言う場所にある。大きさは、高さ1.5m、横幅0.5mである。(石塔には)陽白と言う文字が彫り込まれている。(地元伝承では)疣(いぼ)の神と言う。お茶を供(そな)えて祀っていると言う。 」
・なぜ、陽白は「疣(いぼ)の神」と呼ばれているのだろうか
この陽白について、お話しを伺おうと言うことで2011年11月24日、松原一丁目にある陽白の所有者の方を尋ねました。すると(概要)「ここには何回か調べに来た人がいる。和紙で拓本とられた人もいた。由緒なども聞かれたが、今となっては私も分からない。ただ、先祖からずっとこうやって、いつも大事に祀っているよ」と言うことでした。
既に先の項目で紹介しています1965年以前に調べられた民俗資料調査報告書では、陽白のことについて(伝承として)「疣(いぼ)の神」と書いてあるので、そのような言い伝えも地元ではあったのかもしれません。これは先に書きました石走道祖神=道肴と同じような伝承だと思います。つまり、建立当初の、元々の意味のあった石塔(石碑)が、後年、本来の由緒そのものが分からなくなって、いつの年代か不明ながら道看が「イボの神」、「やぼ神様」などと呼ばれるようになりました。私は、この陽白も道看と似たような経過をたどった説を推測をしています。
その意味からして、この地元伝承である「イボ神様」説は、陽白について考える場合、確定的や断定的ではないと言えます。あと、先に紹介しましたNBCテレビ番組”あっぷる”の(長崎県内にある)「いぼ神様特集」を見た時に、思ったことです。テレビで登場していた各地の「イボ神様」は、ほぼ共通して多くの姿が仏像形式の地蔵であったこと、古くても近世もしくは近代建立と推測できることなどでした。石祠(いしほこら)に安置されているのも数体ありました。
いくつか自然石そのままもありましたが、それは小ぶりの細い縦長で、このページで紹介している道看や陽白みたいに横幅もある大きな石ではありませんでした。しかも、詳細は画面上から分かりませんでしたが、道看や陽白のように漢字ニ文字ではなかったようでした。ここから、さらに私の想像ですが、道看や陽白が「イボ神様」ならば、まるで人の墓碑名みたいな漢字ニ文字ではなく、たぶん文字を彫るなら「疣神」あるいは「疣取り地蔵」などとして建立されたと思われます。
以上のようなことから、地元伝承は全て否定できませんが、私の考えでは陽白は「イボ神様」ではないと思われます。むしろ、人の名前みたいな漢字二文字や自然石の形などからして、誰かの墓碑もしくは別の意味の建立が本来あったとも想像しています。
・陽白の近くは修験道の入口だった
この陽白のある所からJR大村線の線路のできる前までは、松原八幡神社付近まで尾根伝いに繋がっていました。その線路建設時に尾根が掘り下げられ、現在は橋が架かっていますが、旧道そのもは現在でも、ほぼ確認できるものです。先の三伯の項でも書きましたが、この陽白のある所付近から現在も県道が野岳方面に通っています。この県道に沿って古代、太郎岳大権現(現在の郡岳)などへ行く修験道もあったと思われます。
|
陽白(松原一丁目、個人宅横)
<白線の文字部分はCG写真加工>
|
また、これは現在の寿古町にあったと思われる彼杵郡家<彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった>から太郎岳大権現へ登る道とともに、最も利用された修験道の一つで、陽白のある場所は、その入口付近だったと推測されます。先の三伯は、この修験道の途中になりますが、他の陽林、道看とは道こそ違えど登り口に当たると言う点では陽白と同じであり、その点では何らかの共通項もあるのかもしれません。
陽白のまとめ
この陽白について先の項目にも書いていますが、所有者のお話しでは市内の人が調べられたようです。しかし、その後の書籍類には、(当然、上野の見た範囲内ですが)掲載されていないようです。陽林、(石走道祖神=)道看、三伯は、江戸時代の(大村)郷村記に記述がなくても現代発行の『大村市の文化財』などには文章量の大小は別としても掲載はされています。この点からすれば、「陽白だけ何故書いてないのかなあ?」と言う疑問はあります。
色々と想像たくましく考えれば、「この陽白そのものが何なのか?」とか「建立年代はいつ頃なのか?」などが、全く不明だからかもしれません。もしも、そうだとしたら素人の私が、あれこれ述べるのも可笑しいことかもしれませんが、現時点で分かっている事項、さらには推測できる範囲内だけでも書いてみようと思いました。
何か、陽白について情報をお持ちの方へ、私宛のメールなど頂ければ歓迎いたします。私自身も、これにて調査終了と言うことではなく、機会あれば様々なことを調べてみたいとも思っています。そして、何か改訂事項あれば、この陽白含めてページ全体も直していこうと考えています。
漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”4基の共通項と特徴など
このページ「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”、何だろうか?」と言うテーマで、陽林、道看、三伯、陽白の石塔(石碑)を紹介してきました。これまでの記述と重複しますが、この4基の共通項や特徴などを下記二つの表を使い極簡単な一覧表にしてみました。上段の表が、4基の写真・大きさ・所在地などです。下段の表が、今までの古記録や書籍類(主に地元伝承)のまとめと、太郎岳大権現(郡岳)などの修験道に関係することなどです。詳細を知りたい方は、名称(太文字)リンク先から、参照願います。
注意:下記4枚の写真は、それぞれ縮尺比も縦横比も違いますので実際の大きさ比較にはなりませんので、サイズを知りたい方は、大きさの欄を参照願います。なお、場所=所在地については、現在地を優先して書いていますが、郷土史上では元の名称や字(あざ)なども関係ありますので、その点も考慮して補足しています。
名称
|
江戸時代の大村郷村記
|
現行書籍『大村市の文化財』 |
地元伝承
|
太郎岳大権現(郡岳)修験道
|
漢字の印象
|
陽林
|
陽林としての記述なし |
「地蔵」として記述 |
不明 |
修験道入口付近 |
墓碑か? |
道看
|
記述なし |
「道祖神」、「道有」と記述 |
イボ神様、やぼ神様 |
修験道入口(一の鳥居があった) |
墓碑か? |
|
記述なし |
記述なし |
馬の神様 |
修験道の途中 |
墓碑か? |
陽白
|
記述なし |
記述なし |
イボ神様 |
修験道入口付近 |
墓碑か? |
4基の共通項と特徴のまとめ
これから書きます内容は既に、陽林、道看、三泊、陽白の各項目と重複しています。ただ、改めて4基の石塔(石碑)について、一つにまとめますと分かりやすいかなあと言う発想で上記二つの表とともに作成しています。専門家の方などが見られたら、「こんなことは郷土史研究上、必要ないのでは?」と指摘される事項もあるかもしれません。そのようなことから、下記は今回シリーズのメモ書き程度のことと思って、ご覧願えれば幸いです。
(1)石塔(石碑)の石について
仮に全部の石塔(石碑)が墓碑だったとし、その石(自然石)の大きさは古くから一般に見られる墓石に比べ4基とも、大きい、あるいは陽林の場合は約2倍の高さがあること。
(2)
漢字ニ文字関係について
1,まず4基とも彫られている文字が漢字ニ文字であること。
2,そのニ文字が人名(墓碑)なのか、(色々な伝承を除けば正確には)何なのか意味不明であること。
3,漢字の彫られている縦位置で上下は様々だが、横位置ではほぼ中央部にあること。
4,道肴の円相みたいなものを除けば漢字ニ文字以外に文字などがないこと。
(3)
4基の所在地と修験道との関係について
1,4基とも(郡岳の旧称)太郎岳大権現への修験道近くにあること。
2,陽林、道看、陽白の3基は修験道の入口付近、三伯は修験道の途中付近であること。
3,道看(石走道祖神)の場合、「石走付近に太郎岳大権現の”一の鳥居”(=修験道の入口)があった」との伝承があること。
(4)地域伝承で「・・・神様」は由緒が分からなくなった場合に多い
陽林を除き他の道看、三伯、陽白の3基は各項目に書いた通り地元伝承が様々あるが、この種の言い伝えは由緒が分からなくなっても祀られてきた石塔などに例が多いこと。
以上、今までの重複内容ながら4基の共通項や特徴などを上記二つの表とともにまとめました。ここまで書いておきながら、こんなことを言うのはなんですが、本当に4基は何かの理由で関係あるのか、たまたま漢字ニ文字だけが共通していて建立目的・由緒など全く関係ないのか、今の段階では不明です。
4基のある地域は郡岳(こおりだけ、826m)や鉢巻山(はちまきやま、334mm)などから伸びる尾根上に開けた所が多いです。その4基で一番離れているとしても陽林と陽白との間で(直線)約1.6kmです。この比較的遠距離でもない中で点在していることや、4基とも太郎岳大権現への修験道近くにあることなどは、私の推測ながら全くの偶然ではないような気もします。いずれにしても、これ以上の想像は止めて、今後何らかの新情報を期待もしています。
後書き
このシリーズ全体のまとめは、既に上記の項目でおこないました。この後書きでは、これまで書いていないことを中心に書きます。私は既に掲載中の「福重の石仏の変化 キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う 」と言うページに、大村(この当時は福重含めた郡地区が政治経済の中心地)の石仏の大きな変化について詳細に書いています。
|
石走の道祖神(福重町の石走) <CG加工写真、中央に円相、中央最下部に道看の文字>
|
つまり、(戦国時代の)天正二(1574)年、宣教師の要請で大村純忠が許可しキリシタンが大村領内の神社仏閣を一斉破壊、焼却、略奪の限りをつくし僧侶・峯阿乗などを殺害(大日堂や峯阿乗の碑を参照)する事件が起こりました。 この「キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う」シリーズには、1574年を境にして、その前と後ではタイトル(見出し)通り全く石仏も宗派も違うことを書きました。
極簡単に再録しますと、「1574年以前は真言宗、禅宗など宗派もいくつかあり、石仏の種類も様々で豊富でした。しかし、その後のキリシタン時代が終わって主に江戸時代になってから大村では宗派は日蓮宗がほとんで、石仏は(馬頭観音や地蔵などを除き)まるで大量生産されたような様式ばかりになりました」と書いています。
今回の漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”4基は、建立年代が一つも明確になっていないので特定できない状況です。しかし、江戸時代の大量生産されたような様式の石仏、石塔(石碑)類の状況からして、このような自然石に、まるで墓碑みたいに漢字二文字の彫り方で、しかも比較的大きなものは、あまりないとも思えます。
そのようなことから、仮にいくら新しい年代ではないかと推測しても「この4基の石塔(石碑)は1574年以前ではないか?」との考えが素直とも言えます。むしろ、度々このシリーズで書いてきた通り、もしも、太郎岳大権現への修験道との関係があるとするなら、その建立年代は当然古代まで遡る(さかのぼる)とも言えます。
今回の4基の石塔(石碑)は、江戸時代編纂の(大村)郷村記にも近代〜現代発行の書籍類にも記述が全くありませんので、けっこう試行錯誤(しこうさくご)しながら書いてきました。それでも調査内容(事実関係)、周辺の状況や地元伝承など、出来る範囲内で詳細にデータベース化したつもりです。私の思い違いもあるかもしれませんし、また、今後、新たな情報などがあった場合、このページは改訂も補足もしたいと考えています。閲覧して頂いた皆様、大変ありがとうございました。(ページ完了)
|