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 福重の石仏の変化  キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う

も  く  じ
主   な   内   容
状 況
はじめに
大村への仏教の伝播と石仏制作年代

写真で見るキリシタンによる破壊前と後の石仏外観の変化

掲載中
 (1)平安末期、鎌倉・室町・戦国時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の前)
(同上)
 (2)江戸時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の後)
(同上)
江戸時代の仏教と石仏への影響(当時の背景)
掲載中
 (1)日蓮宗(妙宣寺)の影響下、特徴ある石仏を建立したと、考えにくい
(同上)
 (2)江戸時代の石仏は、どこにでもあるような二体仏みたいなものばかりでは
(同上)
私の推論のまとめ
あとがき

はじめに

弥勒寺、地蔵菩薩

 まず、『仏の里 福重』、(福重の名所旧跡や地形ページの)『弥勒寺の不動明王』などをご覧頂けないでしょうか。長崎県大村市福重地区(旧・福重村)には、平安時代末期頃に制作された単体仏を始め線刻石仏、不動明王、仏頭(地蔵菩薩)などの石仏が現存しています。

 しかし、これらの石仏の多くは、戦国時代の天正二(1574)年、宣教師の要請で大村純忠が許可しキリシタンが大村領内の神社仏閣を一斉破壊、焼却、略奪の限りをつくし僧侶阿乗などを殺害する事件が起こりました。その時、福重の仏様も徹底的に破壊され時、当然木製の仏像などはキリシタンの手により完全に破壊、焼却させられました。現在かろうじて残ったのはキリシタンからの攻撃の難を危うく逃れた、壊しにくかったであろう石の仏様ばかりです。

 私は、これらの石仏を外観から見て、キリシタンが破壊した以前と以後では全然様式が違うことを様々な方から教えて頂きました。外観の違いの詳細は、後の項目や写真をご覧頂くこととして、今回、この外観の違いから、その石仏の制作年代も明確に違うことが分かりましたので、その概要をご紹介いたします。

 後でご紹介する予定の写真を見て頂ければ、ある面キリシタンが破壊した以前と以後では「こうも違うのか」と思われるくらいに一目瞭然だと思われます。破壊される以前に制作された石仏は、本当に表情豊かな石仏が残っています。

 なんとか残った石仏でも、これだけの豊かな表情の様式ですから今となっては、もう確かめようがありませんが、もしも木製の仏像がキリシタンよって破壊・焼却されていなくて現存しているならば文化財級の仏像が多数存在していたことが推測されます。福重だけでなく、大村市内あるいは長崎県央地域の石仏でも、今回ご紹介する様式の変化が、ほぼ同一とも思われます。

 素人の書いた文章ですから全て正しいなどと思っていませんが、何かのご参考になれば幸いと思っています。ご覧下されば嬉しい限りです。

(掲載日:2008年9月9日)

大村への仏教の伝播と石仏制作年代

紫雲山延命寺の標石
石には「 紫雲山延命寺 天平念戊子八月 」(西暦748年)と彫られている。大きさは、高さ70cm、横幅35cm。写真は増元氏のご親戚から提供。

 今まで大村市内の郷土史研究では、郡地区(江戸時代までは郡村=松原村、福重村、竹松村)にあった仏教寺院は、中世時代の創建(石仏の建立も同様)みたいに言われてきました。 しかし、近年の仏像研究家のご努力により、福重や松原にある線刻石仏や経筒とセット言われている単体仏などは、平安時代末期の制作年代までさかのぼると言うことが分かってきました。

 また、先にご紹介しました「 紫雲山延命寺の標石(台石)」は、寺の山号の問題はありますが、寺の創建年号「天平念戊子(つちのえね)=天平二十年(西暦748年)」それ自体は正しいのではないかとの説もあります。つまり、仏教の伝播は大村(より正確に言えば郡地区へ)は奈良時代と言う説です。それは全国とあまり変わりない年代だったと思われます。

 私も、ここ数年、福重にある経筒、単体仏、線刻石仏、和銅年間に開山されたと言う太郎岳大権現(現在の山の名前は郡岳826m)あるいは松原にある線刻石仏などを調査して、先生方が言われている通り、やはり「郡地区(大村の地名発祥の地)には奈良時代から仏教が伝播していたのではないだろうか」と思いました。

 だから、郡地区の寺院も「(最初から沢山あったと申しませんが)奈良時代に創建された」との説が説得力あることが分かりました。 そうでなければ、例えば末法思想が盛んだった関係から平安時代末期に多く造られた経筒と、そのセット言われている単体仏が、なぜ福重から多く出土するのか分からなくなります。

 もしも、従来言われていた「(福重含む)郡地区の寺院は中世時代の創建説(石仏の建立も同様)」だったとしたら話が合わなくなってきます。 『大村の経筒』の現存5個の内、4個が福重からの出土ですが、その内3個は上野の個人的調査ながら平安末期の制作と思われます。

 あと、あの戦国時代のキリシタンによるすさまじいまでの破壊攻撃にあいながらも、現存しているだけで(経筒とセット言われている)単体仏が福重には10体近く(8体までは確認済み)あります。これだけの数が仮に「平安時代末期に仏教が伝わってきた。末法思想の関係で、さあ経筒と単体仏を直ぐ造ろう」と言うことにはならなかったと推測されます。つまり、相当早い時期(奈良時代)に郡地区に仏教が伝播していたからこそ、これらの経筒や単体仏が造られたと見る方が自然な考えだと思われます。

 以上のことから、仏教の大村への伝播は奈良時代で、その時にいくつかの仏教寺院が創建され、後で今回テーマになっています種類が多く表情豊かな福重の石仏群は造られたと思います。キリシタンが破壊、焼却したので当時の仏像様式は推測するしかありませんが、たぶんに最も古いのものは木製の仏像、その後今回ご紹介している石仏群と思われます。

(掲載日:2008年9月14日)

写真で見るキリシタンによる破壊前と後の石仏外観の変化
(1)平安末期、鎌倉・室町・戦国時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の前)
草場の単体仏
上八龍の線刻石仏(CG写真)
不動明王(CG)
石堂屋敷の仏頭1(地蔵菩薩)
野田の六地蔵
平安末期頃
平安末期頃
鎌倉時代
室町時代末期期頃
戦国時代

  上記写真の名称と制作年代の説明ですが、左から『草場の単体仏』(平安時代末期頃)、『上八龍の線刻石仏』(平安時代末期頃)、『弥勒寺の不動明王』(鎌倉時代の中期か前期頃)、『石堂屋敷の仏頭1(地蔵菩薩)』(室町時代末期)、『野田の六地蔵』(戦国時代1500年前後頃)です。なお、写真の縮尺が全く違うため、上記の大きさは参考になりません。それで各々のリンクページに大きさを書いていますので、そこから参照願います。

 戦国時代に起こったキリシタンによるすさまじいまでの破壊攻撃がなければ木製の仏像を始めもっと多くの種類があったと思われます。さらに石仏についても現在以上の数が存在したと容易に推測されます。残念ながら木製の仏像は一体もありませんが、壊しにくかったであろう石仏(特に自然石に彫られた石仏類)は、上の写真でもお分かりの通り種類、形、表情が本当に豊かです。

 この要因は、キリシタンの破壊前、福重の仏教寺院は数が多く、宗派もいくつかあり、さらには京都の寺院(東福寺と仁和寺)の荘園が戦国時代まであった影響と推測されます。上記の代表例を筆頭に(2008年8月現在、上野調べで)現存している石仏が単体仏=8体、仏頭=3体、線刻石仏=13体、不動明王=1体、六地蔵2体(六地蔵のみ大村郷村記記述分で破壊が軽微なもののみ)などがあります。他にも破壊されているものの六地蔵、五輪塔、他の石塔類など、数も種類も多くあります。

 以上のことで明らかに分かるのは、戦国時代のキリシタンによる破壊攻撃前の石仏類=平安末期、鎌倉・室町・戦国時代の制作と思われる石仏は、種類、形、表情などが豊かで、様々な特徴点があると言うことです。これらの石仏類がキリシタン破壊後、がらりと一変するのですが、それについては次の掲載写真と説明文をご覧願います。


(2)江戸時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の後)
 下記写真の石仏は福重にあり、江戸時代頃に制作された代表例を掲載したものです。 写真の名称と場所の説明ですが、左から『石堂屋敷の二体仏』(弥勒寺町)、『金屋の二体仏』(沖田町)、『草場の二体仏』(草場町、松尾神社<まつのおじんじゃ>)です。なお、写真の縮尺が全く違うため、写真の大きさは参考になりませんので、各々のリンクページに大きさを書いていますので、そこから参照願います。
石堂屋敷の体仏
金屋の二体仏
草場の二体仏

 キリシタン禁教後、ほぼ全て福重では日蓮宗(妙宣寺)に変わり江戸時代から現在まで長年続いています。しかもキリシタンによって再び破壊されることはなかったにも関わらず、極一部を除けば石仏の種類と言えば写真の二体仏みたいなものか、どこにでもみられる水神様、屋敷神様みたいなものばかりです。(町墓には墓石としての石仏は多くあるようです) ただし、草場の二体仏は、これらの中でも例え田の神様みたいにして造られた可能性がありますが、まだ特色のある方です。

 福重は、仏様などについて保守的な要素が大変強い地域で江戸時代に石仏、石塔類が引っ越しされる場合は、いくつかあったとしても戦国時代のキリシタンの破壊攻撃みたいに石仏を壊すなどの行為は、ほぼ百パーセントありえない場所です。仏様の形をしていない自然石でも祀っておられる石などに対し、大村弁で「さわらすけんが、近づくな」(「たたりがあるので近づいたりするな」) などと、徹底的に子どもの頃より代々教えられています。

  そのようなことから石仏を壊す行為などは、間違ってもありません。それなのに、江戸時代初期から長期間にわたり水神様、屋敷神様などを除き石仏自体の数も種類も (最初から町墓の墓石としての石仏は除き)ほとんどないのです。それは、やはり江戸時代初期からの日蓮宗(妙宣寺)の影響があると思われます。このことから分かるのは、キリシタン時代以前に作られた単体仏、仏頭、線刻石仏、不動明王、六地蔵などの種類も様式も表情も豊かな石仏類は、江戸時代にはほぼ一切、制作されていないと思われます。

 この項目は写真などの外観上のことから、キリシタンによる破壊前と後の石仏の特徴点を書きましたので、次の項目から、特に「なぜ江戸時代の石仏は、このような種類しかないのか」などをさらに説明を加えたいと考えています。

(掲載日:2008年9月16日)

江戸時代の仏教と石仏への影響(当時の背景)

(1)日蓮宗(妙宣寺)の影響下、特徴ある石仏を建立したと、考えにくい
  江戸時代に入り大村藩はキリスト教を禁止し全領内で仏教を広めます。特に、日蓮宗を広め妙宣寺を1602年に創建(最初は現在の宮小路町)、12年後に現在の福重町(当時の矢上郷)に移転し、当初、大村では日蓮宗の本山的なところでした。

妙宣寺(中央は階段登り口と本堂)

石堂屋敷の体仏

  この妙宣寺の住所は現在の福重町(旧・矢上郷)で、単体仏、線刻石仏や不動明王のある弥勒寺町は隣町です。また経過からして大村純忠時代は、ほぼ100%キリシタン、江戸時代に入り禁教、さらに日蓮宗に変わってから当時の弥勒寺郷だけでなく福重村全体のほとんどが日蓮宗の檀徒となりました。当然、その後ここに移り住んだ方々は色々な宗派があります。

 ですから、今でも福重では宗教と言えば日蓮宗で、元々地元の出身者(大村弁で「じげもん」=”地元の者“と言う意味)は、ほぼその檀徒ばかりと言っても過言ではないと思います。 私は日蓮宗と石仏関係は、詳しく知らない状況ですが、果たして線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵など、特徴ある石仏と日蓮宗は関係の深い宗教なのでしょうか。個人的な記憶や感想ながら、そのようなことは聞いたことがありません。

 福重の奈良・平安・鎌倉・室町・戦国時代頃は様々な宗派の経過がありますが、例えば山岳密教、真言宗、禅宗その他が存在しました。その関係からか前の項目『写真で見るキリシタンによる破壊前と後の石仏外観の変化』でご紹介した通り単体仏、線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵と多くの種類と豊かな表情の石仏が存在しました。

 しかし、江戸時代に入り上記で述べた通り事実上、日蓮宗だけの状況からして先のような種類が多い特徴ある石仏は、建立しにくい状況下にあったとものと思われます。

(2)江戸時代の石仏は、どこにでもあるような二体仏みたいなものばかりでは
 また、江戸時代に福重で作れた石仏の調査もしてみました。すると表現良くないのですが、どこにでもあるような、まるで大量生産された二体仏や水神様みたいなものばかりです。

 前の項目でご紹介した例えば経塚と関係のある単体仏あるいは不動明王、線刻石仏、地蔵菩薩、六地蔵など特徴ある石仏は江戸時代には制作されていないのではと思えるくらいです。(ただし、町墓には墓石としての石仏は多くあるようです) なぜなら、それは江戸時代からの日蓮宗(妙宣寺)との関係が一番大きいような気がします。

・財力の関係もあるのでは
 あと、不動明王や地蔵菩薩などは鎌倉から室町時代にかけて、それなりの財力のある建立者(例えば当時、大村の中心地だった福重にいた豪族あるいは大きい寺院の住職など)の発注によって作られたと思われます。それに比べ、江戸時代の中心地は現在の大村市中心地に移ってしまって、福重は当時の郷 (現在の町)単位で数名ずつの侍か、あとは百姓ばかりでした。そのような状況下で作られた石仏の種類は本当に限られていると思います。

 ですから、江戸時代の石仏と言えば大量生産されたような二体仏(前の項目写真参照)、弁財天、馬頭様、水神様、家神様などばかりです。つまり、江戸時代に入り福重は日蓮宗(妙宣寺)の影響あるいは当時の地元民の財力からしても、特徴ある大きな不動明王や地蔵菩薩などは作れる状況ではなかったと思われます。

(掲載日:2008年9月18日)

私の推論のまとめ

不動明王

草場の二体仏

  私は、これまで『福重の石仏の変化、キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う』と言うテーマで書いてきました。先に石仏の外観写真でも、ご紹介した通り戦国時代のキリシタンが破壊する前、それまで存在したであろう木製の仏像も含めて石仏の多くは、仏教の宗派の変遷あるいは末法思想その他当時の社会的背景などによって種類が多く、表情豊かなものでした。

 それが、キリシタンの破壊後、江戸時代通じて造られた石仏は、それまでとは激変して造られたことを写真含めて、その理由も詳細に書いてきました。

大村の石仏制作はキリシタン時代の前か後とでは、“決定的な違い”がある
 私の推論は、石仏にその造立年号の入った碑文でない以上、造立年代を決定づける物的証拠ではなく、あくまでも“状況証拠”です。しかし、その状況証拠でも積み上げていけば物的証拠と同等の納得性のある場合も出てくるのではないかと思い今回書いてみました。 特に、大村においての石仏制作状況は、キリシタン時代の前か後とでは、ある種“決定的な違い”を見せています。

 福重における石仏の建立もキリシタン時代の前と江戸時代に入ってからの状況は、100%と言うくらいに違っています。 つまり、江戸時代に入り福重において、特徴ある大きな線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵などの石仏建立の形跡はなく、かわりに大村市内どこにでもあるような(大量に生産されたような)二体仏、水神様、家神様、馬頭様みたいなものばかりです。また、町墓に個人の墓石みたいにしてある小規模の石仏は最初から除いて考えています。

 私の推測は、先に状況証拠と書きました。ただし、江戸時代に入ってからの日蓮宗の広まりと明らかに江戸時代に建立されたと思われる石仏の多くの実績は、物的証拠と同じとも思っています。 つまり、現存している全部の石仏から、江戸時代建立の石仏を引けば、おのずと残り全てはキリシタン時代以前に造られたものとも言えます。 あとは、平安時代なのか鎌倉・室町・戦国時代なのかの調査研究と思われます。

 最終的に私が申し上げたいのは、福重に現存している経塚と関係あると言われている単体仏を始め、線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵などの建立年代はキリシタン布教以前はありえても、キリシタン破壊後はあり得ないのではないだろうかと言うことです。

 それは、江戸時代に制作されたと思われる福重の石仏実績や日蓮宗の広まりが、事実として物語っているような気がします。  私の意見や推論は、あくまでも沢山ある参考例のひとつです。これにて終わりではなく、皆様から様々なご見識を賜りたいと思っています。

(掲載日:2008年9月20日)

あとがき

 このページも、あとがきを書くことになりました。私は、つい数年前までは素人とは言え郷土史を知る時、その多くが論文や本からでした。江戸時代に大村藩が編纂した古文書(郷村記)などを調べる時も活字になった復刻本からです。ですから、そのようなことから決して高尚な意味ではないですが文献学オンリーだったと思います。

 しかし、福重にて郷土史講演会などを聞きまして考え方が、がらりと変わりました。それは、お二人の講師とも先人が残してくれた数多い遺物や石仏を長年丹念に調査した結果から、それらをもとに非常に具体的に歴史を語られ説得力があったからです。つまり、お二人のお話は、考古学をもとに文献学も含めた研究内容だったと言うことです。

 また、長崎県や大村市の各教育委員会の方々が、市内各地で炎天下の日には汗をふきふき、北風の吹く時には身をかがめるようにして地道に遺跡発掘作業されている真摯な姿を何十回となく見ました。また、その発掘の概要報告を聞く機会もありました。発掘現場のその場所で出土した遺物などを手にしてのお話は、本を何冊読んだことよりも、より具体的で分かりやすいものでした。これらを見た時、私自身改めて「歴史解明に迫る原点とは何なのか」と問い直すものでした。

 しかし、他の方々の論文の中には先に発行されている論文を参照・引用しつつも、「解釈の違い」みたいに書かれてある内容も見受けられました。その結果、「(福重を含む)郡地区の寺院の創建は中世時代」説みたいな論文も見ました。

 これらの意見に対し、私はこれまで掲載してきました「仏の里 福重」、「大村の経筒」ページを作成するに当たり、福重にある全ての石仏に直接触れ計測や写真撮影もし、拓本作業も10体位おこないました。さらには線刻部分のCG写真加工も実施しました。また、大村に現存している経筒5個全部も調査しました。その結果として、「大村への仏教伝播は奈良時代ではな。いか。石仏の最初の建立は専門家のお話の通り平安時代末期頃ではないか」との結論を持つに至りました。

 歴史事項などは余程のことがない限り何事も100%確定とはいきませんし、さらに調査研究が必要なことは言うに及びません。この『福重の石仏の変化、キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う』を書き終えた後も、私は色々な石仏や文献も見ていきたいとも思っています。とりわけ、現場重視の考え(考古学重視)で、これからも福重の石仏については、何回も直接見ていきたいと考えています。それにより、改訂や変更あれば、再度書き直します。

 今回のページをご覧下さった皆様、大変ありがとうございました。ご意見などありましたら、「フォームメール」ページから、どうぞ。今後とも他のページ含めて、よろしくお願い致します。

(掲載日:2008年9月21日、一部改訂:2012年1月4日)

関係ページ:『仏の里 福重』  、 『大村の経筒

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