福重の石仏の変化 | キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う |
も く じ |
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主 な 内 容 |
状 況 |
はじめに | |
大村への仏教の伝播と石仏制作年代 | |
写真で見るキリシタンによる破壊前と後の石仏外観の変化 |
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(1)平安末期、鎌倉・室町・戦国時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の前) | |
(2)江戸時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の後) | |
江戸時代の仏教と石仏への影響(当時の背景) | |
(1)日蓮宗(妙宣寺)の影響下、特徴ある石仏を建立したと、考えにくい | |
(2)江戸時代の石仏は、どこにでもあるような二体仏みたいなものばかりでは | |
私の推論のまとめ | |
あとがき |
まず、『仏の里 福重』、(福重の名所旧跡や地形ページの)『弥勒寺の不動明王』などをご覧頂けないでしょうか。長崎県大村市福重地区(旧・福重村)には、平安時代末期頃に制作された単体仏を始め線刻石仏、不動明王、仏頭(地蔵菩薩)などの石仏が現存しています。 |
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今まで大村市内の郷土史研究では、郡地区(江戸時代までは郡村=松原村、福重村、竹松村)にあった仏教寺院は、中世時代の創建(石仏の建立も同様)みたいに言われてきました。
しかし、近年の仏像研究家のご努力により、福重や松原にある線刻石仏や経筒とセット言われている単体仏などは、平安時代末期の制作年代までさかのぼると言うことが分かってきました。 |
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(1)平安末期、鎌倉・室町・戦国時代の制作と思われる石仏の代表例(キリシタン時代の前)
上記写真の名称と制作年代の説明ですが、左から『草場の単体仏』(平安時代末期頃)、『上八龍の線刻石仏』(平安時代末期頃)、『弥勒寺の不動明王』(鎌倉時代の中期か前期頃)、『石堂屋敷の仏頭1(地蔵菩薩)』(室町時代末期)、『野田の六地蔵』(戦国時代1500年前後頃)です。なお、写真の縮尺が全く違うため、上記の大きさは参考になりません。それで各々のリンクページに大きさを書いていますので、そこから参照願います。 キリシタン禁教後、ほぼ全て福重では日蓮宗(妙宣寺)に変わり江戸時代から現在まで長年続いています。しかもキリシタンによって再び破壊されることはなかったにも関わらず、極一部を除けば石仏の種類と言えば写真の二体仏みたいなものか、どこにでもみられる水神様、屋敷神様みたいなものばかりです。(町墓には墓石としての石仏は多くあるようです) ただし、草場の二体仏は、これらの中でも例え田の神様みたいにして造られた可能性がありますが、まだ特色のある方です。 |
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江戸時代の仏教と石仏への影響(当時の背景) | ||||
(1)日蓮宗(妙宣寺)の影響下、特徴ある石仏を建立したと、考えにくい
この妙宣寺の住所は現在の福重町(旧・矢上郷)で、単体仏、線刻石仏や不動明王のある弥勒寺町は隣町です。また経過からして大村純忠時代は、ほぼ100%キリシタン、江戸時代に入り禁教、さらに日蓮宗に変わってから当時の弥勒寺郷だけでなく福重村全体のほとんどが日蓮宗の檀徒となりました。当然、その後ここに移り住んだ方々は色々な宗派があります。 |
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それが、キリシタンの破壊後、江戸時代通じて造られた石仏は、それまでとは激変して造られたことを写真含めて、その理由も詳細に書いてきました。 大村の石仏制作はキリシタン時代の前か後とでは、“決定的な違い”がある 私の推論は、石仏にその造立年号の入った碑文でない以上、造立年代を決定づける物的証拠ではなく、あくまでも“状況証拠”です。しかし、その状況証拠でも積み上げていけば物的証拠と同等の納得性のある場合も出てくるのではないかと思い今回書いてみました。 特に、大村においての石仏制作状況は、キリシタン時代の前か後とでは、ある種“決定的な違い”を見せています。 福重における石仏の建立もキリシタン時代の前と江戸時代に入ってからの状況は、100%と言うくらいに違っています。 つまり、江戸時代に入り福重において、特徴ある大きな線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵などの石仏建立の形跡はなく、かわりに大村市内どこにでもあるような(大量に生産されたような)二体仏、水神様、家神様、馬頭様みたいなものばかりです。また、町墓に個人の墓石みたいにしてある小規模の石仏は最初から除いて考えています。 私の推測は、先に状況証拠と書きました。ただし、江戸時代に入ってからの日蓮宗の広まりと明らかに江戸時代に建立されたと思われる石仏の多くの実績は、物的証拠と同じとも思っています。 つまり、現存している全部の石仏から、江戸時代建立の石仏を引けば、おのずと残り全てはキリシタン時代以前に造られたものとも言えます。 あとは、平安時代なのか鎌倉・室町・戦国時代なのかの調査研究と思われます。 最終的に私が申し上げたいのは、福重に現存している経塚と関係あると言われている単体仏を始め、線刻石仏、不動明王、地蔵菩薩、六地蔵などの建立年代はキリシタン布教以前はありえても、キリシタン破壊後はあり得ないのではないだろうかと言うことです。 それは、江戸時代に制作されたと思われる福重の石仏実績や日蓮宗の広まりが、事実として物語っているような気がします。 私の意見や推論は、あくまでも沢山ある参考例のひとつです。これにて終わりではなく、皆様から様々なご見識を賜りたいと思っています。 (掲載日:2008年9月20日) |
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このページも、あとがきを書くことになりました。私は、つい数年前までは素人とは言え郷土史を知る時、その多くが論文や本からでした。江戸時代に大村藩が編纂した古文書(郷村記)などを調べる時も活字になった復刻本からです。ですから、そのようなことから決して高尚な意味ではないですが文献学オンリーだったと思います。 しかし、福重にて郷土史講演会などを聞きまして考え方が、がらりと変わりました。それは、お二人の講師とも先人が残してくれた数多い遺物や石仏を長年丹念に調査した結果から、それらをもとに非常に具体的に歴史を語られ説得力があったからです。つまり、お二人のお話は、考古学をもとに文献学も含めた研究内容だったと言うことです。 また、長崎県や大村市の各教育委員会の方々が、市内各地で炎天下の日には汗をふきふき、北風の吹く時には身をかがめるようにして地道に遺跡発掘作業されている真摯な姿を何十回となく見ました。また、その発掘の概要報告を聞く機会もありました。発掘現場のその場所で出土した遺物などを手にしてのお話は、本を何冊読んだことよりも、より具体的で分かりやすいものでした。これらを見た時、私自身改めて「歴史解明に迫る原点とは何なのか」と問い直すものでした。 しかし、他の方々の論文の中には先に発行されている論文を参照・引用しつつも、「解釈の違い」みたいに書かれてある内容も見受けられました。その結果、「(福重を含む)郡地区の寺院の創建は中世時代」説みたいな論文も見ました。 これらの意見に対し、私はこれまで掲載してきました「仏の里 福重」、「大村の経筒」ページを作成するに当たり、福重にある全ての石仏に直接触れ計測や写真撮影もし、拓本作業も10体位おこないました。さらには線刻部分のCG写真加工も実施しました。また、大村に現存している経筒5個全部も調査しました。その結果として、「大村への仏教伝播は奈良時代ではな。いか。石仏の最初の建立は専門家のお話の通り平安時代末期頃ではないか」との結論を持つに至りました。 歴史事項などは余程のことがない限り何事も100%確定とはいきませんし、さらに調査研究が必要なことは言うに及びません。この『福重の石仏の変化、キリシタンによる破壊前と後では、石仏様式が全く違う』を書き終えた後も、私は色々な石仏や文献も見ていきたいとも思っています。とりわけ、現場重視の考え(考古学重視)で、これからも福重の石仏については、何回も直接見ていきたいと考えています。それにより、改訂や変更あれば、再度書き直します。 今回のページをご覧下さった皆様、大変ありがとうございました。ご意見などありましたら、「フォームメール」ページから、どうぞ。今後とも他のページ含めて、よろしくお願い致します。 (掲載日:2008年9月21日、一部改訂:2012年1月4日) |
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