大村の歴史
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東光寺跡(とうこうじあと) |
東光寺跡の概要紹介 | |
東光寺が書いてある(大村)郷村記 | |
・現代語訳 | |
東光寺跡に残る年号入りの石塔類 | |
(1)正和五年の宝塔(ほうとう) | |
(2)應永二十七年の石塔 | |
(3)寶徳四年の石塔 | |
(4)文明十年の石塔 | |
(5)天文十年の石塔 | 準備中 |
東光寺跡に残る年号不明の石塔類 | |
(イ)三伯 | |
(ロ)二体仏 |
東光寺跡の概要紹介 <東光寺跡 旧福重村草場(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院です。もともとは真言宗の寺院で、郡七山十坊の一つです。寺領130石余りを有したと伝えられ、郡七山の中でも最も大きな寺院でした。境内には、「為東光院阿閣梨(あじゃり)性元(しょうげん)也 正和(しょうわ)五年十二月八日建立之 前十一月初四日丑克逝去 在世七十六年而己」という銘文をもつ石塔の竿石(さおいし)が残ってい ます。 これは正和5年(1316)11月4日に亡くなった東光寺住職性元の 墓石の一部です。ここに刻まれている正和5年の年号は、大村地方に残る金石史料の中では、最も古い年に当たります。
「紫雲山延命寺縁起(しうんざんえんめいじえんぎ)」によると、久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に郡地方にあった唐泉寺の住職春輝が提唱して、各寺の僧侶により宗論が行われました。その時、14か寺から僧侶が集まりましたが、その中に東光寺も含まれています。天正(てんしょう) 2年(1574)にキリシタンによって壊されました。江戸時代に入り、正保(しようほう)、4年(1647)には、この地に薬師堂が建立され、現在に至っています。(後略) > (薬師堂の)棟札(むなふだ)注1 |
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(2)應永二十七年の石塔(注:應永=応永)
碑文のある基礎部の大きさは、高さ27cm、横幅30cm、周囲122cmです。この部分には、右側の写真(水色文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています) その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。 |
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(3)寶徳四年の石塔 (注:寶徳=宝徳、ほうとく)
碑文のある基礎部の大きさは、高さ19cm、横幅34cm、周囲128cm です。この部分には、右側の写真(水色文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています) 現代語訳 |
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(4)文明十年の石塔 この項目で紹介します「文明十年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠に向かって右奥側(北側)にあります。(右側写真参照) 上記項目で紹介しています「(3)寶徳四年の石塔」の隣です。
その碑文を活字化したのが、左図(点線内)の青文字です。さらにホームページの関係もあり、横書きに直し文章を続けて書きますと、下記の青文字通りです。 奉右志趣者 造立右塔婆一基 為物故道善 禅門 霊 文明十年戊戌四月 現代語訳 上記の碑文(青文字)を現代語訳しますと、次の「」内の通りと思われます。ただし、素人訳ですので参考程度に、ご覧願えないでしょうか。<注:文明10年=西暦1478年。私の解釈間違いかもしれないが、「道善」は僧侶の名前(俗名か?)と解釈した> 「禅宗の物故者 (亡くなられた)道善の霊のために、右の趣旨(宗旨)の者は奉って、右の塔婆(とうば)1基を造立(建立)した。(造立年=建立年は)文明10年(1478) 戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)である。」 補足や感想 先に、注釈や補足などを箇条書き風に、次の(1)〜(4)を書いていきます。 (1)この石は緑泥岩の良い材質である。大村市内には、このような石は出ないので、たぶん彼杵半島産出と思われる。 (2)東光寺跡にあるので、なんらかの関係はあろうが、碑文内容だけでは当寺の僧侶(住職)関係と断定は出来ないだろう。ただし、東光寺は禅宗だったので碑文内容(「禅門」など)とは、合致しているの可能性は高いとも思える。 (3)「禅門」について、国語辞典の大辞泉に「1 禅宗の法門。禅宗。2 俗人のままで剃髪(ていはつ)し仏門に入った男子。禅定門(ぜんじょうもん)。入道。→禅尼(ぜんに)」と解説されている。 (4)碑文について、目の詰まった良い石材のため見やすい。一行ごとの文字のまとまりは良いが、文字全体や彫りも若干整っていないとも思われる。 これからは、碑文を見ての感想です。念のため、推測なども含めて書いていますので、ご注意願います。先に書いていますが、「道善」が東光寺の僧侶(住職)とも、また別の寺院の僧侶とも断定は、この石塔だけでは出来ないと思われます。ただし、先に紹介しています「(3)寶徳四年の石塔」よりは、東光寺の僧侶の可能性は高いとも思っています。 あと、東光寺跡のある石塔・石碑類で、年号の分かっている一部を改めて列記しますと、下記の通りです。制作年代順で、 (1)正和五年の宝塔(1316年、鎌倉時代)、 (2)應永二十七年の石塔(1420年、室町時代)、 (3)寶徳四年の石塔(1452年、室町時代)、 (4)文明十年の石塔(1478年、戦国時代) (5)天文十年の石塔(1541年、戦国時代) などです。 私は、東光寺の創建自体は現在、大村市内の郷土史の先生方の従来説より、相当古いと思っています。(このことは書けば長くなりますので、既に掲載中の「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」ページなどを参照) ただし、大村市内で石塔・石碑類が中世時代に多いのは、仏教伝播や寺院の創建とは関係なしに、碑文を彫るための石工技術の遅れと、その需要関係があるからだと思っています。 つまり、(紫雲山)延命寺や太郎岳大権現などの奈良時代創建を始め、郡七山十坊の内、相当数が平安時代中期頃までには開山・創建されたと思っています。(「大村の経筒」ページなども参照)しかし、それらの年号を示す碑文の彫られた石塔・石碑類が古代にないのは、石に文字を彫る技術そのもの伝わり方の遅れと、やはり、それなりの財力が必要なので需要そのものが少なかったためとも推測しています。 また、当初の頃は、大村以外で碑文が彫られて持ち運んで来た可能性も否定できないと思われます。ただし、紙や板碑などの古記録類は当然あったはずですが、1574(天正2)年、キリシタンによる他宗教弾圧事件(僧侶・阿乗の殺害や神社仏閣の焼き討ち略奪など)発生時に全て焼却されて、わずかしか残っていない状況です。 それにしても、なぜ、石塔・石碑類が上記のような年代別に飛びとびあるのか、私自身は正確には分かっていません。ここから、さらに私の推測・想像を重ねれば、このような石塔や石碑を建立出来るのは、やはり「力や財力のあった人だから」との考えも浮かびます。 |
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(5)天文十年の石塔 この項目で紹介します「天文十年の石塔」は、(東光寺跡の敷地中央部にある)石祠へ階段で5段登り、その登った直ぐ右側にあります。碑文の彫られた基礎部分は、手前側にあるブロックのため、写真を撮る場合に広角レンズ使用でないと写しにくいと思います。あと、先に紹介中の上記(2)〜(4)の石塔の碑文面に比べ、造りが少し違います。そのことも含めて、これから紹介していきます。
碑文のある基礎部の大きさは、高さ15cm、横幅39cm、周囲155cmです。この部分には、右側の写真(水文字はCG加工)通り、碑文があります。(念のため右側CG加工写真はホームページ用に極端に縮小している関係上、文字が見えにくいですが、精密な原版は綺麗にみえています) |
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東光寺跡に残る年号不明の石塔類 (原稿準備中、しばらくお待ち下さい) |
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