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福重の名所旧跡や地形

寿古の物成札場跡(寿古町)
寿古の物成札場(すこのものなりふだばあと) 場所:長崎県大村市 寿古町(旧・長崎街道脇)

  寿古の物成札場跡(すこの ものなりふだばあと)場所について、大村郷村記、「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)を参考にしました。大村郷村記に個別名称項目としての記述はないようです。「福重の史跡」では(写真)名称として、物成札場跡となっています。

・左側の画像説明:これは江戸時代の大村藩領絵図の一部分である。中央部の水色(蛍光色)のA物成札場である。中央部周辺の幅広い紺色は東(右側)から南(左中央下部)の大村湾方向へ流れているのが郡川である。北西(上部左側)---南東(下部右側)間で斜めの太い黒線で描かれているのは長崎街道である。

注:物成札場とは、現代風に言え「税務署」みたいな所で、「年貢(税金)の割り当てや、取り立てをした役所」と言える。

概要紹介
 まず、この物成札場(ものなり ふだば)とは、極簡単に現代風に言うならば「税務署」に似ている役所です。(下記の国語辞典も参照) ただし、現在と江戸時代当時ですから当然、その役所も徴税・納税などの仕組みも具体的方法も違っています。先の場所は、上記左側、大村藩領絵図の中央部に水色(蛍光色)のAの所です。ここは、長崎街道の真横(南側)で、郡川下流へ下る道路との三差路脇になります。(現在は、個人宅で「長崎街道郡茶屋 cafe きまぐれ」の敷地内です)

 この場所に、物成札場がいつから存在したのか、不明です。ただし、大村郷村記(復刻版)第二巻・福重村の124ページ「由緒之事」の項目を参照しますと、現代語訳で「文化11甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)年(1814)、省略(この場合、大村藩による村の統廃合)によって今富・皆同(の庄屋=役場は)ここの村が引継ぎ、福重村に合併した。田畑からの年貢(ねんぐ)その他の税金全部を同所(福重村の庄屋)で取り立てることになった。」と記述されています。

写真中央部が物成札場跡(現在、民家で「cafe きまぐれ」店) <その脇の南北(上下)の道路が旧・長崎街道、西側(左側)の川は郡川> (グーグルアースより)

 つまり、福重・今富・皆同の三ヶ村合併後は、「福重村の庄屋(村役場)が取り立てることとなった」でも、お分かりの通り、この物成札場から業務を福重村の庄屋が引き継いだとも推測されます。私は、そのような関係(既に無くなっていた役所だった)から、(大村)郷村記に他の役所などは、個別名称項目で記述がされているのもありますが、この物成札場は記載がないのだと想像しています。

 なお、江戸時代の徴税のことは、本途物成(ほんとものなり)とか、小物成(こものものなり)などがあり、けっこう複雑です。(用語解説は下記の国語辞典参照) そのようなことと併せ大村郷村記・福重村の項には、個別項目として物成札場の記述がないので、このページに書くことは、省略します。

<国語辞典の大辞林の解説より>
・物成(ものなり)=(1)田畑からの収穫。 (2)江戸時代の年貢。本途物成(ほんとものなり)と小物成(こものなり)とがあったが、特に本途物成をさす。 (3)禄高の基礎となる年貢米の収入高。
本途物成(ほんとものなり)=江戸時代、田畑や屋敷など農民の名請地を対象として付課された年貢。一六世紀末から一七世紀初頭にかけて雑税の一部分が小物成として年貢に組み込まれたため、本来の年貢に対する呼称として用いられた。
・小物成(こものものなり)=江戸時代、田畑に対する年貢(本途ほんと物成)以外の雑税の総称。
・札場(ふだば)=(1)高札・制札を立てる場所。 (2)芝居小屋の、入場札を扱う部屋。


大村郷村記の記述について
 先の項目にも書いていますが、この物成札場跡について名称含めて書いてあるのは「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)の方です。江戸時代の(大村)郷村記・福重村には、他の役所についての記述がいくつかあるにも関わらず、物成札場については、個別名称での項目紹介文はないようです。ただし、既に「福重・今富・皆同三ヶ村」ページにも掲載中の大村郷村記・福重村の「由緒之事」の項に次の<>内の文章があり、その中に「物成」の文字が見えます。(注:太文字は上野が付けた)

写真中央部と右側が物成札場跡(現在、民家で「cafe きまぐれ」店)<その左脇の道路が旧・長崎街道>(2017年12月23日撮影)

写真中央部と左側が物成札場跡(現在、民家で「cafe きまぐれ」店)<手前側の道路が旧・長崎街道>(2017年12月23日撮影)
 

 <(前略) 當村は先年より福重・皆同・今富三ヶ村に相分荘屋ありしなり、然るに文化十一甲戌年省略二付、今富・皆同 爾村荘屋相引、福重へ寄村に相成、物成諸運上一切同所に於て取立るなり、 (後略)>

 上記の現代語訳は、次の「」内の青文字通りです。 当村(この場合、福重村のこと)は先年より福重・皆同・今富三ヶ村に互いに庄屋(役場)があった。しかし、文化11甲戌(きのえいぬ、こうじゅつ)年(1814)、省略(この場合、大村藩による村の統廃合)によって今富・皆同(の庄屋=役場は)ここの村が引継ぎ、福重村に合併した。田畑からの年貢(ねんぐ)その他の税金全部を同所(福重村の庄屋)で取り立てることになった。

 上記の大村郷村記から推測すれば、福重村・今富村・皆同村の三ヶ村として存在していた頃には、この場所に福重村の物成札場があったのでしょう。しかし、三ヶ村合併後は、「福重村の庄屋(村役場)が取り立てることとなった」でも、お分かりの通り、この物成札場から業務を福重村の庄屋が引き継いだとも推測されます。

 そして、既に役所として無くなっていた所だったから、あえて、後世に編さんされた(大村)郷村記に他の役所などは、個別名称項目で記述がされているのもありますが、この物成札場に関しては記載がないのだと想像しています。

 あと、「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)に、名称と紹介文として「物成札場跡  年貢の割り当て、取り立てなど明示し、その取扱いをした所」と書いてあります。この文章は、何かの古記録あるいは地元伝承をもとに書かれたものと推測しています。ただし、この根拠は何の古記録などに記述されているのか、2017年現在で調べきれていません。

大村藩領絵図について
 
まず、右側の上から4番目画像を参照願います。これは、江戸時代の大村藩領絵図の一部分です。中央部の水色(蛍光色)のA物成札場です。ただし、この絵図自体に黒文字で、例えば「物成札場」とか「物成」などの表記はしてありません。ご参考までに、この絵図画像の右上側に旧・皆同村の「庄屋」や、左側やや下側に旧・皆同村の「庄屋」の文字は見えています。

 大村藩領絵図は、測量した期間、さらに作図した年代については、様々な説があります。全体図には、まだ、旧「福重・今富・皆同三ヶ村」が、描かれてますので、この物成札場も図示されていても、おかしくはないのですが、その表記はありません。

 あと、中央部周辺の幅広い紺色は、東(右側)から南(左中央下部)の大村湾方向へ流れている郡川です。北西(上部左側)---南東(下部右側)間で斜めの太い黒線で描かれているのは長崎街道です。物成札場の場所は、この長崎街道の真横(南側)にあったことが良く分かります。

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年12月23日、第二次掲載日:12月24日、第三次掲載日:12月27日、第四次掲載日:2018年1月3日、第五次掲載日:1月6日、第六次掲載日: 月 日、第七次掲載日: 月 日、第八次掲載日: 月 日)

  

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