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長崎街道の内、福重往還道
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福重のあゆみ、江戸時代
長崎街道の内、福重往還道、「福重村メインストリート」その1
長崎街道
福重村メインストリート」その1

 郡川(こおりかわ)の渡し(飛び石)を大村宿方面から松原宿方面に渡り切り、川から登ると、今、この付近には石碑などがあります。ここからは、長崎街道の内・福重往還道の「福重村メインストリート」と呼べる道で、この石碑付近がその一端になります。

 ここから松原方面に約500メートル位行くと、国道34号線に再度交差します。この交差する手前の区間までは、道幅も江戸時代よりは広くなっていますが、国道に吸収されなかった分、当時の街道の雰囲気が少し残っています。

 
郡川を登った所に(松原方面に向かって)右側へ行く小さな道があります。さらにこの地点から長崎街道を進み国道に交わる手前の中間地点(現在、小さな十字路あり)にも右側に行く道があります。ここは、左に行くと福重村の庄屋や好武城(よしたけじょう)方面になります。

 この郡川登った所と先の中間地点の二つの道を
(松原方面に向かって)右方向に行くと、今回このページに書いています今富城(いまどみじょう)跡や奈良時代から戦国時代まで神社仏閣がたくさんあった弥勒寺、今富、立福寺方面となります。


 この二つの地点から郡川上流方面に行くと、左手に小高い丘が見えてきます。ここが戦国時代、今富城(いまどみじょう)があった所です。

 大村郷村記(当時は
尺貫法ですがメートル換算に直すと)によるとこの今富城は、「高さは平地より11m、東西の長さ436m、南北の幅110m、城の周りは1,636m」とあります。(ただし、明治時代、鉄道工事のため南側斜面が大きく削り取られました)

 この今富城は、「大村純伊(すみこれ)」が築いたといわれていますが、この「大村純伊」は、史実で確認されていません。大村純治(すみはる)と同一人物といわれています。(江戸時代に偽装された大村氏系図については、『福重郷土史講座』ページの第4回講座もご参照ください)

 この大村純治が、戦国時代に佐賀県側で敗戦を重ね逃げていたのですが、その後佐賀側にいることができなくなり、次に大村側を攻めて支配し、好武城と今富城に来たと思われます。


 古代からずっと、この付近は長崎県下有数の穀倉地帯でしたから、経済の中心地であったばかりではなく、奈良時代から大村純忠が三城に移城するまでは、郡地区が政治の中心地でもあった訳です。

 さらに、この
今富城から先に約500メートル進むと、大村純治が佐賀県側から来るずっと以前、この地域一帯を治めていた今富氏の居城といわれている尾崎城も郡川の支流である佐奈川内川(さながわちがわ)沿いにありました。いずれのお城とも、江戸時代は廃城になりました。

 あと、長崎街道・福重往還道付近から半径1キロ内外に奈良、平安、鎌倉、室町、戦国時代にかけて、たくさんの神社仏閣がありました。存在年月日に当然ずれもありますが、福重だけでも延べ15寺院ほど存在していました。

 しかし、二度のいっせい焼き討ちに合いました。1回目はその後再建されたのですが、2回目は、1574年キリシタン宣教師からの懇願で大村純忠が許可を与え、キリシタンによって徹底して破壊され、二度と再興しませんでした。

今富城跡、弥勒寺町方面から写す
中央:妙宣寺、中央後方:鉢巻山、右後方:郡岳
  ただし、江戸時代も現在も地名として、弥勒寺町(弥勒寺)、立福寺町(龍福寺)、その他字で、冷泉寺、正(聖)蓮寺、東光寺(東光寺も当時は福重村)と、その名残があります。

 また、弥勒寺周辺には、キリシタンの破壊からかろうじて難を逃れた線刻石仏や仏頭が存在しています。この石仏群は、長崎県最古といわれています。

 また、専門家によると「これほど多くの線刻石仏が集中した所は、全国的にも珍しい」との分析もされています。(詳細は、『仏の里ふくしげ』のページをご覧下さい)

 あと、キリシタンの神社仏閣焼き討ち後、福重にキリスト教会が建てられ、その位置は今富城と石走の間にあったと記されていました。しかし、この教会は、禁教令などによりその後破壊されました。

 また、江戸時代の1617年には、今富城から数百メートル離れた帯取で宣教師が処刑され、その後の1657年には「郡崩れ」の弾圧が起こり、福重村住民も犠牲になりました。その後、大村藩の肝入りで再度仏教を広めるため、妙宣寺が弥勒寺町(創立当初は竹松村宮小路郷、その後弥勒寺郷)に建てられ、現在に至っています。

 この帯取近くに今富キリシタン墓碑(長崎県指定史跡)があります。かまぼこ型のお墓で、最初は伏せてあったのを取り締まりをおそれ、後で起立させたものといわれています。墓石の上部、普通の伏碑なら正面にあたるところに、十文字が彫ってあります。(この「今富キリシタン墓碑」についての詳細は、ここからご覧下さい)

 以上述べてきた通り、
奈良時代から戦国時代まで、福重を含む郡地区は、政治・経済の中心地であったため、その跡も多くあるですが、現在、目に見える形としてはほとんどなくなっています。ただ、江戸時代に栄えたこの長崎街道の内・福重往還道だけは、当時の「福重村メインストリート」として、ずっと変わらずに賑わった通りだったと思われます。(掲載日:2004年10月16日)

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