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長崎街道の内、福重往還道
もくじ はじめに その1 その2 その3 その4 その5 あとがき
福重のあゆみ、江戸時代
長崎街道の内、福重往還道、「福重村メインストリート」その2
好武城跡
「福重村メインストリート」その2

 前回ご紹介した『長崎街道・福重往還道その1』についで、今回は「福重村メインストリートその2」です。郡川(こおりかわ)の渡し(飛び石)を登った所から左方面に川沿いの土手を歩くか、または、長崎街道を松原宿方面に400m近く進むと、左方面に道があります。

 このどちらかの道を郡川下流方面に向かうと、ほどなく江戸時代「福重村の庄屋」のあった所にでます。現在、畑横に
福重小学校の1872(明治5)年開校の記念碑がたっていて、道路側からも見えます。場所は、寿古町の株田で、この付近に江戸時代に庄屋がありました。

 江戸時代の庄屋といえば、武士と百姓の間にあり、村内の政事、年貢、土木工事などに関すること、法令の遵守や逆に百姓の要望を役人に伝えるなど、幅広い任務があり、「その村の役人、役所」みたいな役割がありました。

 ですから、この福重村庄屋は、江戸時代、村内の色々な情報や出来事も含めて集中する場所で、人や物の往来も多かったと思われます。特に、この福重村は大村藩内最大の穀倉地帯で、秋には人や米の出入りが多かっただろうなあと想像できます。

 この庄屋の横近くに、戦国時代に築かれた好武城跡があります。この好武の高台は、高さ9m、東西160m、南北250mの玄武岩の台地です。ここは元々、奈良・平安時代の頃より、郡家(ぐうけ)や荘園の役所が置かれた所といわれています。

 戦国時代になり、佐賀県側で幾多の敗戦を重ね逃げて徘徊していた大村純治(「大村純伊」と同一人物といわれている)が、佐賀側にいることができなくなり、次に大村側を攻めて、好武城に来たものです。

 このことは、歴代鎮西志に「永正四年二月(1507年) (中略)大村純治もまた郡城に入る」と書かれています。
(この項、外山幹夫氏の『中世九州社会史の研究』参照) この「郡城」は、好武城のことと思われます。

 その後、大村純治は、好武城が狭いため(前回のページで紹介しました)今富城に移り、築いたものと思われます。大村氏が今富城やさらに三城城に移ったため、この好武城は廃城となりました。

 この好武の高台は、近くの郡川が度々氾濫したため、その土木工事と湿地田の改良ため、この地から土がたくさん運ばれました。そのため、当時よりは、相当低くなっているようです。

 湿地田や田畑の改良が江戸時代にさらに進んだため、好武の高台を中心としたこの周辺は、見渡す限りの田畑が広がりました。(私の学生時代頃までは、農業中心でしたので、ほぼ同じ風景を見ていました)現在は、新しい道路や住宅地がかなり増え、以前より田んぼは減少しましたが、今もその面影が少し残っています。

 この好武城から郡川下流に下ると、河口近くに字(あざ)で「中島(なかしま」(元は郡川の中州だったとおもわれます)と下河原(しもがわら)がありますが、このあたりに江戸時代、玉木役所(材木の役所)がありました。郡川上流、萱瀬村の材木が水運を使って運ばれ、この地で木材の取り引きがされたものと思われます。

大日堂
 好武城から、北西の海側(現在の火力発電所跡)方面に行くと、道路脇に大日堂と言う石祠があります。1574(天正2)年、度重なる宣教師からの要請を受けていた大村純忠がついに許可し、領内にある神社仏閣のいっせい焼き討ち、キリシタンに改宗しない領民追放をおこないました。

 その結果、嬉野方面に逃げようとしていた僧侶の阿乗がキリシタンによって捕まり、この地で惨殺されました。その後、大村藩3代藩主時代の1647(正保四)年5月に、この大日堂が建立されました。。(この項、大村市教育委員会発行『大村の文化財』参照)

 長崎街道内の福重往還道を(このページ掲載の地図通り)縦軸とするなら、福重村庄屋(好武城跡付近)から、弥勒寺・今富・立福寺方面に至る道路が横軸となります。

 この縦・横の道路を中心に、あるいは郡川の水運も含めて江戸時代、米を中心に多くの物資が運ばれ、人の行き来もあり、賑わったものと思われます。
(掲載日:2004年11月5日)

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