長崎街道の内、福重往還道 |
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福重のあゆみ、江戸時代
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長崎街道の内、福重往還道、竹松村との境付近について
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長崎街道・福重往還道の旧・福重村と旧・竹松村の境は、現在の福重側沖田町の大村市立郡中学校と、竹松側の宮小路町にある長崎県立虹の原養護学校にある小川を指しています。 なお、今回のこの『長崎街道・福重往還道』の記述は、全て長崎(大村宿)側から小倉(松原宿)方面に向かって作成しています。 また、これから掲載する写真も含め、同じように松原宿に向かって撮影(一部写真を除く)しています。念のため、江戸時代と現在とでは、道路状況も当然違いますし、あくまでもイメージとして、ご覧頂けないでしょうか。 この村境周辺の記述として、江戸時代に大村藩よって編纂された『郷村記』(以降、”大村郷村記”と呼称)に、「・・・・下河原川尻より川上へ・・・・左福重村、右竹松村田原なり・・・・」と書かれてあります。 つまり、江戸時代は、この小川を境にしていた竹松村と福重村付近は、川上に向かって左にある福重村も右にある竹松村も、田んぼばかりだ」と言うことです。 今、この境付近は、住宅地や国道になっていますが、上記右側の写真でもお分かりの通り、まだ田んぼも残っています。この村の境になっている小川は、現在、田んぼにある井手=用水路みたいになって両脇コンクリートで固められ、幅1メートル前後ですが、江戸時代はもう少し大きい小川だったと思われます。 現在、この街道横に2車線の国道34号線が通っています。国道工事の時、この街道は吸収されなかった関係上、この付近において、長崎街道・福重往還道は、そのまま、ほぼ原型を留めています。 また、当時も今も、この道路先(写真奥)にそびえる独特の形をした虚空蔵山(こくぞうさん、標高608m、川棚町)の山容は、全く変わらないのではないでしょうか。 この虚空蔵山に向かって約500メートル、ほぼ一直線にこの街道は続き、その先は郡川(こおりがわ)の渡し(飛び石)となっていました。道路幅は、古記録にはないようですが、現在の道路から想像して、この付近は、3メートルはなかったと思われます。 この街道筋は、左の地図でもお分かりの通り、奈良時代の条里制、『沖田条里制跡』があります。この地域の土地は、今でも地番ごとに同一形(細長い長方形)、同一面積に区切られています。 地名(小字)にも蔵ノ町、徳町、盛田など条里制関連の地名が並んでいます。条里制は、大化の改新(645年)以前より始まっているといわれ、さらに整然となったのは大宝元年(701年)の大宝律令により、班田収受法が行われてからといわれています。 また、この沖田町の隣の黒丸町にも条里制跡があり、しかも黒丸遺跡(縄文時代晩期、約2500年前)も発見されています。つまり、この地域の田んぼは、大化の改新から換算しても約1400年となり、米作が活発になったといわれている弥生時代とするなら約二千数百年となりますが)どちらにしても、相当歴史のある田んぼではないでしょうか。 夏は瑞穂の緑、秋は黄金色の稲穂を見ながら、頬には田んぼのそよ風を受けながら、江戸時代の旅人はこの街道を歩いたのではないでしょうか。(掲載日:2004年9月24日) |
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