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長崎街道の内、福重往還道
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福重のあゆみ、江戸時代
長崎街道の内、福重往還道、あとがき
あとがき

 この『長崎街道の内、福重往還道』のページもあとがきを書くことになりました。最初の『はじめに』ページにも書きましたが、この『長崎街道の内、福重往還道』の長さ自体は、(福重村内のみですから)約1850メートルと、そう長くはありません。(私も、今回写真撮影のため歩いてみましたが、疲れるほどの距離ではありませんでした)

 しかし、小倉方面に向かうとして右手に郡岳(こおりだけ)や武留路山(むるろさん)、前方に虚空蔵山(こくぞうさん)などの特徴ある山並みを仰ぎながら、左手には波静かな、晴れた日には輝いていたであろう大村湾などの風光明媚な景色は、どこの長崎街道沿いにも負けずとも劣らないくらい抜群だった思われます。

 また、当時郡川は伝石(飛び石)でしたから、雨や洪水の日は別としても、晴れた日などは道路よりも変化もあり、川面から伝わるここち良い風も頬に受け、ちょっとした楽しみも感じながら、渡ったことだろうと想像します。

 このシリーズ第2回目で『郡川の渡し(飛び石)』を書きましたが、この場面をシーボルトは、わざわざお付の絵師に描かせて、説明文付きで紹介しているのはなぜなのか。実際その河原に立ってみて、なんか分るような気がします。

 あと、江戸時代の福重村では、『長崎街道の内、福重往還道』の本街道だけでなく、ここに通じる脇道路の重要さもこのシリーズ第3回目第4回目のページで「メインストリート」のひとつとして紹介しました。

 奈良・平安時代から戦国時代まで長崎県の政治経済の中心地は、この福重村を含む郡地区でした。その後、三城城さらには玖島城(大村城)に移った時点で、政治の中心はそこに変わりました。

 しかし、当時経済や租税の中心だった米の生産高は、大村藩の村の中でも福重村は、最大の石高を示していました。また、地元に住む侍数(大村郷村記では107名)も一番多かったことも事実です。つまり、それだけの侍数を食わす生産高があったと思われます。

 このようなことは、福重村内でも米を中心とした相当の物資、あるいは藩及び村内での政事、伝統行事、その他のために行き交う人の流れも活発だったと思われます。

大村市教育委員会の案内板(一部分)
 また、『長崎街道』とこの脇道界隈は、人、物だけでなく、小倉・大坂・京都方面から、さらには長崎港にもたらされた海外からの情報も含め、色々と話しが飛び交ったのではないでしょうか。現在の電話、テレビやインターネット並みの役割がこの街道沿いにあったのではと想像しています。

 私は今回のこの特集ページを書きながら思ったのですが、長崎街道やその脇道を単に”道”として見るだけでなく、人、物、金さらに文化・芸術、情報の発信路として、江戸時代の人達は見ていたのかなあとも考えました。

 だからこそ、大村藩(あるいは幕府)の命令もあったかもしれませんが、この街道沿いを整備し良くしていたと思います。先人のこのような努力や苦労が、これらの発展を支えたものとも考えました。

 私は『長崎街道の内、福重往還道』のページを書くため、長崎街道のことを書いてある数冊の本を読んでみました。

 その結果、お隣の松原宿や大村宿のことは写真数枚付きでけっこう詳細に紹介されていました。しかし、残念ながら、福重村内の街道については、『郡川の渡し』のところがほんの少しだけ書かれていただけでした。ある本には、あの有名なシーボルトの絵や紹介文さえもありませんでした。

 長崎街道を紹介している本やホームページは、けっこうたくさんあります。そのことの影響か、はたまた現在のウォーキングブームからか、この長崎街道を尋ね歩いている方々が多いそうです。実際、寿古町の方から「ウォーキングしている人から色々と聞かれている」との話しも寄せられました。

福重橋(郡橋)のたもとより下流方面を写す
 たまたま、何かの機会に今回の『長崎街道の内、福重往還道』ページをご覧になった方が、「旧長崎街道には、こんな所もあるのか」とか「今まで知らなかったけど、こんな見方もあるのか」と思って頂けたら、それだけでも私は嬉しいです。

 あと、これは全くの個人的な希望ですが、何らかの事由で、郡川の渡し(飛び石)』が再発見されないかなあと言うことです。この飛び石は以前ご紹介した通り、1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個ありました。しかも、私よりも少し年配の方は、「何十年前までは見たし、飛び石を渡った経験がある」と言うことでした。

 今は堆積した砂利などで見えませんが、郡川の洪水で流れたとは言え、重量ある石ですから下流に全部がぜんぶ流れてしまったと考えにくいと思います。もしも、発見できて、旧位置付近に並べられることが可能なら、これはちょっとした話題になると思います。現在は(長崎街道含め)歴史探索やウォーキングブームでもあり、観光資源としても再考の余地はあるのではないでしょうか。

 最後になりますが、『長崎街道の内、福重往還道』の特集ページは、このあとがきで一応締めます。しかし、ここに書ききれなかったこと、あるいは補足や別角度で取り上げたい事項も既にあります。このようなことは、福重の歴史を少しづつですが掲載しています『福重のあゆみ』のページ(主に江戸時代のページ)で、また、取り上げたいと考えています。

今まで、このシリーズをご覧下さった皆様へ、
 大変ありがとうございました。これからも、どうかよろしく、お願い致します。(掲載日:2004年11月27日)

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