長崎街道の内、福重往還道 |
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福重のあゆみ、江戸時代
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長崎街道の内、福重往還道、松原村との境付近について
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これまでに、ご紹介した『長崎街道の内、福重往還道』から左右方面に行く(下記地図では横線のような)脇道路に別れを告げ、さらに本道の長崎街道を松原宿方面に進むと、現在寿古町の民家が左右に続きます。 さらに民家の続きの切れ間が少し出てきますが、そこから(右上部写真の通り)郡岳(こおりだけ)、武留路山(むるろさん)のふたつの優しい山容が目に入ってきます。 天気の良い日に、このふたつの山を見ながら歩くのは、気持ち良いもので江戸時代も歩くのが早くなったのではないかと想像します。 ここから直ぐ国道34号線と交差する手前と渡った後歩くと左に曲がりますが、その2箇所に「旧長崎街道」と言う道標があります。 ここから、松原宿方面に向かって、逆の後方側に進むと、前々回ご紹介しました今富・立福寺方面となります。さらにこの道からも弥勒寺方面にも行けます。 この街道付近には、現在、工作機械や建築関係の会社がありますが、今回ここで江戸時代の商工業者の状況などを下図で示したいと思います。 今回は福重村のみの表ですが、いずれ別のページで、竹松村や松原村との対比も作図する予定です。 また、下表には、参考までに福重村全体の人口、武士数なども記入しています。 (注:分りやすくするため、江戸時代に編纂された大村郷村記に書かれている表現を一部変更しています)
紙製造が少し目立ちます。紙の原材料は、こうぞ、みつまたなどでした。この原材料は、戦後間もない頃まで農家の副業みたいにしておこなわれていたので、農家(百姓)数が多くないとこのような数字にはならなかったと思われます。 この通りからさらに松原宿方面に進むと、再度、現在は国道34号線に交差します。やや、進み右側方面(郡岳に向かう方向)に道をとると、戦国時代まであった東光寺や1548(天文17)年からの歴史のある松尾(まつのお)神社のある草場町になります。なお、東光寺は現在松原地区になりますが、江戸時代は福重村草場郷でした。 この草場には字(あざ)で「京辻」や「馬込」などの地名があります。これらの名前も街道にちなんだ地名と言われています。つまり、海沿いの長崎街道が発達する以前の奈良・平安時代、福岡の大宰府に通じる街道(官道=役所と役所を結ぶ道路)は、もっと山側を通っていました。 これらの字は、この草場付近を通って、嬉野・塩田方面に向かう街道にまつわる地名の名残と言われています。草場の一番上の方には「石立様」と呼ばれる石が立っていますが、これは古代から中世までの道路標識と言われています。 また、、この草場付近=現在の広域農道(レインボー道路)あたりからは、眼下にこれまでご紹介した長崎街道の内の福重往還道、郡川、沖田町、寿古町、松原地区、大村湾、西彼杵(にしそのぎ)半島などが一望でき、この一帯大変見晴らしの良い所です。 長崎街道の内、福重往還道(この付近は現在の国道とほぼ一緒)を少し進むと、次ぎ国道から別れて左手方向に向かいます。すると、今度、右手方向に松原宿のあった道(下記写真)が見えてきます。 この手前に流れているのが石走川(いしばしりがわ)下流の「よし川」です。この石走川について、現在川幅が広くないためあまりご存知ない方もいらっしゃるかもしれません。大村郷村記には下記のように書いてあります。(「 」が引用部分、< >は現代語訳です) 「石走り川 水源弥勒寺熊野権現の辺りより流出 川下松原川となるなり 流程凡拾五町程」 <石走り川の水源は、弥勒寺郷の熊野権現様あたりから流れ出し、下流は松原川になっている。川の長さは、およそ1600メートルほどである> このように郷村記に書かれている通り、石走川の下流は現在「よし川」と呼称していますが、江戸時代は「松原川」と言っていたようです。
(念のため、現在の福重地区と松原地区の境は、江戸時代の境界線とは少し違った位置にあります) この川の先に長崎街道・松原宿の通りがあります。左写真にある現在、松原小学校の所が江戸時代、松原村の庄屋があった所で、この旧長崎街道沿いにその石垣も見えます。 また、この松原宿の通りは、この「よし川」から上記右側の地図のJR松原駅前あたりまでを言いますが、この間、旧長崎街道の面影が通り沿いの町並みや石垣に見ることができます。(掲載日:2004年11月18日) |
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