概要紹介
まず、この玉木役所と言う意味ですが、上野流解釈で二つに分けて考えてみました。玉木は、「材木、木材、丸太」からでしょう。役所は、近代や現在の「役場」ではなく、「(木材)管理所(管理事務所)」(あるいは「木材集積所」)に近いと用語と思われます。続けますと、この(寿古の)玉木役所とは、燃料用の薪(まき)や木炭前の木を集めた「木材管理事務所」(木材集積所)みたいな所だったと推測されます。
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(写真中央部左側)寿古の玉木役所跡(「珈琲けやき」店) <左奥側の山=武留路山(むるろさん 341m)、右奥側の山=郡岳(こおりだけ 826m) ここから右方向約160mに郡川がある>
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江戸時代に編纂(へんさん)された(大村)郷村記を参照しますと、元緑8(1695)年7月、本嶋陸左衛門が、阿波国(現在の徳島県)から次右衛門という人を呼び寄せ薪山(業)(まきやまぎょう)<注:炊事や囲炉裏(いろり)などに使う木炭や薪=燃料用・暖房用木材などにするため森林から切り出す仕事>を始めました。この時、郡川上流側の萱瀬村の袈裟千田原や、下流(河口)側の福重村の下河原に事務所(木材管理、集積所)を開設しました。
萱瀬の集積所に集められた木は、一定の長さにそろえられ、郡川の水運を利用して、下流(郡川河口)の下河原に流されました。そして、そこにあった玉木役所<木材管理所(集積所)>から、今度は大村湾の海運を使って諸国に売りに行ったということです。そして、この事業は、けっこう繁盛(はんじょう)したことが記述されています。
玉木役所の場所について、「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)を参照しますと、右側写真でもお分かりの通り、現在、「珈琲(コーヒー)けやき」店がある周辺と思われます。この場所は、郡川右岸(現在の堤防位置)から北側へ約160m行った地点、河口から上流へは約500m弱の位置関係にあります。(このページ最上部の大村藩領絵図の説明文も参照願います)
ここからは上野の推測ですが、なぜ、こんな陸地側なのかと考えました。本来なら、もっと郡川近くが仕事上、便利と思われます。しかし、例えば過去に水害に遭った(あった)とか、あるいは当初から水害防止をを考えて、この場所に玉木役所を設置したと推測されます。念のため、当然、木材の集積場所は郡川で、あくまでも右上側写真周辺にあったのは、その「木材管理事務所」(あるいは管理者の住居含む所)だったのではないでしょうか。
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(写真中央部やや右上側)寿古の玉木役所跡(「珈琲けやき」店) <左側(西側)は大村湾、下部(南側)は郡川> (グーグルアースより)
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大村郷村記の記述について
(寿古の)玉木役所跡の件は、復刻版(活字版)大村郷村記・第二巻・福重村の135ページに、「玉木役所(たまきやくしょ)」との名称項目で記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。
なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。
「一玉木役所
福重村下河原にあり、元緑八乙亥年七月本嶋陸左衛門、阿波國より次右衛門と云者を當領へ呼下し薪山を始む、萱瀬袈裟千郡・下河原兩所に役所を立、
茅(萱)瀬山より大小の木を伐り出し薪の尺に木取り、其儘萱瀬川へ流し、下河原にて取揚、諸國の船に積しむ、 是を郡川玉木流しと云、其節役所の汲川とて今に中嶋と云庭に、徑三尺餘、深サ三尺位の清水あり、右川中に操はめし玉木貳拾ヶ年以前の比まてハ存在せしか、今ハ朽てなし、
流せし玉木は今も下河原古川尻海底に埋りしを掘出すなり、以前玉木流しの比は藪艘の積船下河原に繋り、大に繁昌せしと云傳ふ
一元緑十丁丑年五月廿九日、郡川大水にて玉木大束悉く流失す、依て根岸六郎左衛門其外役人河原へ出勤あり 」
・現代語訳
上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記< >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 一つ 玉木役所
福重村の下河原(大村弁で「しもごうら」)にある。元禄8乙亥(きのとい、いつがい)(1695)年7月、本嶋陸左衛門が阿波国(現在の徳島県)から次右衛門という人を当領(大村領)に呼び寄せ薪山(業)(まきやまぎょう)<注:炊事や囲炉裏(いろり)などに使う木炭や薪=燃料用・暖房用木材などにするために森林から切り出す仕事>を始めた。(注1) 萱瀬(村)の袈裟千郡(注3)と、(福重村)下河原のこの場所に役所(木材管理事務所、集積場)を建てた。
茅(萱)瀬山(かやぜのやま)より大小の木を伐り(きり)出し、薪の尺に木取り(注2)(合わせて切って)、そのまま(郡川の上流の)萱瀬川(かやぜがわ)に流し、下河原にて(郡川から)取り上げ、諸国行きの船に積んだ。(注4)これを「郡川玉木流し(こおりがわのたまきながし)」と言う。(注5)
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郡川に架かる郡大橋近くの堤防から西へ約160mの所が寿古の玉木役所跡と推定される。(写真中央部右端側に高い木がある周辺) <撮影場所:弥勒寺町、撮影日:2006年10月24日>
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その当時、役所のための水を汲み(くみ)上げる所として、今の中嶋と言う庭に直径91cm、深さ91cmあまりの清水(しみず=泉)があった。右の川(郡川)の中に(切り出した)ままの木材・丸太が20年以上前、ここにあった(埋まっていた)が、今は朽(く)ちて(腐ってしまって)ない。
流れてしまった玉木(木材・丸太)は今も下河原の川尻(郡川の河口)の海底に埋まって掘り出すこともある。(注5) 以前、「玉木流し」の(盛んな)頃は数艘(すうそう)の船が繋がれていて、大いに繁盛していたと言い伝えてられている。(注4)
一つ、元禄10丁丑(ひのとうし、ていちゅう)( 1697)年5月29日(発生の)、郡川大水害で玉木(木材・丸太)は大きな束(たば)ごと、ほとんど流失してしまった。よって(そのため)、根岸六郎左衛門やその他の役人が(郡川の)河原に出動した。 >
(注1):薪山(業)=大村郷村記・萱瀬村、238ページ「炭山之事」の項目に、ここに登場している「本嶋陸左衛門」、「次右衛門」の氏名、さらに薪山(まきやま)=木炭作り・運搬・諸国へ販売の仕事を始めたことが詳細に記述されている。また、萱瀬で炭を焼いて、長崎にも送ったように書いてある。
(注2):木取り=切り倒した木から用材を得るために切る位置などを決めること。また、それによって採伐すること。(大辞林より)
(注3):袈裟千郡=萱瀬村の(木材集積所の)役所のあった「袈裟千郡」と言う場所は、大村郷村記第二巻252ページの(萱瀬村の)「玉木番所績之事」を引用すれば「袈裟千田原」にあったことが記述されている。上野は(2017年10月現在)この場所が萱瀬のどこにあったのか、正確には不明である。ただし、一つの参考として字(あざ)に「袈裟(けさ)」と言う地名があり、そこは上野の推測ながら現在、萱瀬ダムに沈んだ周辺(郡川の左岸=南東側)を指しているようだ。そして、その場所は郡川の上流域で当時「萱瀬川」とも呼ばれていた。。
(注4):薪山(木炭作り・運搬・販売)と、「木炭や薪が、諸国まで運ばれて売られ、なぜ繁盛したか」を上野なりに考えた。そして、私の推測で、しかも大雑把な年代ながら江戸時代以前は、炊事・囲炉裏・風呂用の直接燃やす薪は、寺なども含め住居周辺で自給自足みたいに調達していた、しかし、江戸時代に入り、分かりやすい表現で「市街地」では「都市化」が進み、住宅周辺では薪などが手に入らず、そのため木炭や薪などが山間地から運ばれ、その商売が繁盛したのではないだろうか。
(注5):郡川玉木流し=大村郷村記のこの項目を素直に読めば郡川に流した木は、木炭用の木材と言うより炊事や風呂で直接燃やす薪(木材・丸太)であろう。また。大村郷村記の萱瀬村(252ページ)には。「玉木を流す」という記述がある。ここからは上野の推測による解釈ながら、萱瀬で炭を全部つくっていたのであれば、木炭前の材木や丸太は郡川に流す必要はない。ここで言う「郡川玉木流し」の木は、木炭用もあったかもしれないが、炊事・囲炉裏・風呂用の直接燃やす薪や、さらに一部住宅建築用の材木だった可能性もあろう。
大村藩領絵図について
まず、このページ右上から4番目(右下側)または最上部の画像=大村藩領絵図の一部分を参照願います。この絵図の画像は、郡川河口の右岸側=寿古側を中心にトリミングしたものです。
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これは江戸時代の大村藩領絵図の一部分である。左側の広い紺色が大村湾、下側で左右(東西)の紺色が郡川。この上部が今も広い寿古の田んぼである。江戸時代の玉木役所は大村藩領絵図に図示されていないが、中心部付近見える細長い入り江から、やや斜め下部へ行った付近、逆に郡川河口先端部から上流側へ500mj弱行き、その右岸堤防から北側(画像の上側)へ約160m行った位置と推測される。(注:現在の地形は郡川の護岸工事などにより、大村藩領絵図時代とは少し河川川形状が違う。さらに河口側の入り江は埋め立てられ田んぼなどである)
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画像左側(西側)の広い紺色部分は、大村湾(海)です。この海の続きで、右側(東側)方向へ数か所、上下(南北)に紺色の入り江が見えています。ご参考までに、この入り江には先に紹介しました「寿古の船囲場(すこののふなかこいば)」がありました。あと、念のため、この入り江は、大村藩領絵図作成後も、数百年かけて埋め立てが進み、右上から2番目と3番目写真でもお分かりの通り、現在は広い田んぼ(田畑)になっています。
次に、画像下側で左右(東西)の紺色部分が、郡川を表しています。郡川の流路は、この絵図作成当時も現在も大きくは変わっていないのですが、一部分においては、近代の護岸工事で出来た堤防などにより、少し違っているようです。そして、この郡川の上部(北側)一帯が、江戸時代も現在も広い寿古町の田んぼ(田畑)です。(絵図の赤い色も紙の色部分も全部田んぼ=田畑)
寿古の玉木役所は、この絵図には図示されていません。ここからは上野の推測ながら、その場所は、郡川河口から上流側へ約500m弱行き、そして、その右岸堤防から北側(画像の上側)へ約160m行った位置と思われます。また、絵図中心部付近見える細長い入り江から、やや斜め下部へ行った付近と同じ所です。
同様に絵図中央部やや右側に長四角の赤色マークがあり、その下部(南側)に建物(民家)が4軒見えています。私は、この建物周辺に寿古の玉木役所はあったものと推測しています。
この場所ならば、江戸時代ならば(埋め立てが全部は進んでいないため)、まだ入り江は絵図通りにあって、船着き場としても使えたでしょう。当然、燃料用の薪(まき)や木炭前の木を集めた「木材管理事務所」(木材集積所)みたいな所としても使えたはずです。そして、その玉木役所から、郡川河口へ、さらに大村湾(海)に出て、今度は海運を使って諸国へ販売していたのでしょう。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2017年9月22日、第二次掲載日:9月28日、第三次掲載日:9月29日、第四次掲載日:10月1日、第五次掲載日:10月2日、第六次掲載日: 月 日、) |