<補足説明>
(1)上記の山田氏は、福重村最後の村長で、今富郷(今富町)の人でした。
(2)挨拶文の7行目から、「太平洋の荒浪は正に緊迫を告げ」と書いてあります。まさに太平洋戦争(真珠湾攻撃など)の直前という情勢を反映した内容となっています。
(3)前同13行目から、「茲に福重村に於ける銃後奉公の姿を写真に収めて前線の勇士各位に呈した次第」と書いてあります。<慰問袋へ写真集を入れた>みたいに直接的には書いてありませんが、挨拶文の全体の流れと「この銃後の郷土は戦地の福重村出身者への慰問袋に入れられた」との地元伝承が残っている点からして、その通りだったと思われます。。
(4)上記の通り、戦地の兵隊へ送る慰問袋へ写真集が入れられたと思いますが、中には「記憶ないなあ。そんなのがあったのか」と戦後相当経ってから当該者に聞いたこともあります。
あと、ここからは上野の推測ですが、写真集が作成され、慰問袋に入れて戦地に送られたのが、1941(昭和16)年11月〜1942(昭和17)年初頭とするなら、まだ日本軍は当時、連戦連勝みたいな時期でしたから、この銃後の郷土は伝承通りで戦地で見られた可能性も高いと思われます。
この中の写真に写っている自分の家族あるいは故郷の野山を激戦地で見られた福重村出身の兵士にとって、しばし望郷募る想いもされたかもしれません。
(掲載日:2013年7月21日)
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