最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク

目次ページへ はじめに 後のページへ 次のページへ

1941年(福重村写真集)銃後の郷土

立福寺男女青年ノ勤労奉仕


立福寺男女青年ノ勤労奉仕

<補足説明>
(1)写真左側の文字=立福寺男女青年ノ勤労奉仕を分かりやすくしますと、「立福寺郷(町)での男女青年の勤労奉仕による稲刈りと掛け干しをしているところ」と解釈できるでしょう。

(2)このような男女青年による勤労奉仕は、なぜ実施されたかという点です。実は、農家にとって初夏頃の田植えとその前の準備期間、それに秋の稲刈り時期は、ただでさえ農繁期(今風に言えば「超忙しい時期」)です。さらに、家の主人あるいは働き手が戦地に行ってしまっている留守宅では、その農作業さえも満足に出来ません。

 「米が作れず、収穫できず」では、農家にとって死活問題です。それで、主人などが出征して働き手のいない農家に青年団などが収穫の手伝いに行っているのが、上記の写真ということです。

(3)撮影場所ですが、この写真の後方右側に写っているのは通称で「権現山(ごんげんやま)」(以前、この周辺に六社権現があったから)と立福寺町の方が呼んでおられる林です。作業中の田んぼは、現在、龍福寺跡=寺屋敷と呼ばれている個人宅の南側と思われます。今も、この田んぼも林も、ほぼそのままあります。

(4)左側の中央部に白い旗が見えます。この旗は、他の写真紹介ページでも度々登場してきますが、「食糧増産」奨励の旗と思われます。通常、いくら勤労奉仕活動とはいえ、このような旗まで立てて毎回したのか分かりかねます。

 たぶんに、「今日は撮影があるから、戦地の兵隊さんに立福寺郷で頑張っているところを見せよう」みたいな感じで、旗も用意されたのではないでしょうか。

(5)現在ならばコンバインなどでの省力作業で稲刈りもでき、戦前の何倍何十倍の刈り取りも可能でしょう。ただ、上記のように稲を掛け干しして自然乾燥した新米は、格別に美味しいという評判もあります。かなり疲れる作業だったかもしれませんが、収穫の喜びも一方では確認できるものだったと思えます。

 (初回掲載日:2013年7月28日、第2次掲載日:2013年7月29日)


目次ページへ はじめに 後のページへ 次のページへ

最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク