(1941年 福重村写真集)銃後の郷土特集ページの概要経過
今回の写真集ページを 掲載しようと考えた構想前後から全ページ掲載終了までの概要経過を書きます。なお、このページは、事実関係が主たる内容ですので、下記は箇条書き風にしています。
<ホームページ構想以前の経過>
・私は、この写真集「銃後の郷土」の存在を知ったのは、福重郷土史講座(この講座は福重郷土史同好会の前身で2003年11月10日〜2004年2月23日まで8回の講座プラス特別講座や史跡探訪などが開催された)である。この講座のテキストともなった「福重のあゆみ」の本文ページにも、この「銃後の郷土」写真が数枚掲載されている。
・上記の講座中あるいは終了後に上野は、原本を数回見て興味を持っていた。
・2004年3月12日に、それまで何回か分けてスキャナー複写(デジタル化)していた画像を一括管理してパソコン内に保存した。それが、後で『銃後の郷土』のCD盤となるものであった。
<ホームページ構想後から掲載終了までの経過>
(1)2005年5月3日、『福重ホームページ』に上記とは別に戦前戦後の古写真を集めた「写真が語る福重の歴史や人」の掲載を開始した。しかし、「銃後の郷土」は、約50枚も写真があるため、全ページを掲載するには、一つ大きな問題点があった。それは、ホームページ・データを保存するサーバ容量の不足であった。この当時は、「いずれ掲載するが、サーバ容量の増量などの問題解決まで時期を待とう」と言う考えだったので、しばらく、この構想は中断していた。
(2)2013年2月15日、サーバ容量が増量できた。
(3)
2013年5月 1日、4月に大村市役所・70年市史編さん室から、銃後の郷土の画像依頼があったので、この日に銃後の郷土CD版を提供した。
(4)2013年7月19日から『福重ホームページ』に「1941年(福重村写真集)銃後の郷土」ページとして掲載を開始した。
(5)上記の順次掲載と同時進行で、福重地区内10町内の年配者中心に、銃後の郷土の写真撮影場所や当時の状況などについて、ご意見を聞いた。ただ、原版が作成から既に70年強経ったことから、85歳以上の方しか、その写真撮影時の場所、状況や雰囲気などが詳細に分からないことも判明し、意見聴取は困難を極めた。
(6)また、私は福重地区の各町内会や老人会で、毎年のように郷土史講演会を開催しているが、その時に当該町の古写真を中心にスクリーン映写もしている。その時は、他の石仏や史跡写真よりも、歓声が上がり、しばし講演を中断するほど人気があった。(その理由は、聴講者の家族や知り合いが写真に写っていたためと思われる)そして、質疑応答もおこない上記Dと同じようなご意見を聞いた。
(7)(正直言いまして)各郷(町)写真の中で「軍人家族」、「国防婦人会」、「青年団」の3種類は、10郷(町)全部共通しているため、同じような写真(単純計算ながら同じ種類が10か所で合計30枚)であり、補足説明文も同様となりがちだった。そのため聞き取りやホームページ掲載を継続していく上で、気が滅入る場合もあって、あえて掲載間隔を空けた時期もあった。
(8)2014年5月10日、銃後の郷土写真集には当然ない、上野作成の「銃後の郷土の今日的意義」や「はじめに」、「あとがき」ページも含めて全ページの掲載を終えた。
以上が、この(1941年 福重村写真集)銃後の郷土特集ページの概要経過です。他にも、各町での古老よりの聞き取り調査や大村市立図書館で調べたことなど、たくさんありますが、多項目になってしまいますの省略しています。
(掲載日:2014年5月9日)
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