<補足説明><右下側写真:大きな楠の前にある梶ノ尾の馬頭観音その2(写真中央) 左端側にあるのが松原宿活性化協議会の史跡説明板>
この梶ノ尾の馬頭観音その2は、大村市内で最も知られた馬頭観音の一つである。それは、直ぐ脇に松原宿活性化協議会の案内板があるためだ。(2012年2月現在)私の調べた範囲内ながら、大村市内の馬頭観音で分かりやすい史跡説明板があるのは、ここだけである。
松原に行かれたら梶ノ尾公民館から東側方向へ100m位の所に、幹まわり約8mの楠(くすのき)があり、けっこう遠くからでも良く目立っている大きな木である。右側写真の通り、その楠の真ん前に、梶ノ尾の馬頭観音その2はある。あと、右側写真に写っていないが、2013年3月に松原本町より移設された梶ノ尾の馬頭観音その3も、左側に並んである。
松原宿活性化協議会で立てられている史跡説明板(案内板)には、次の「」内の文章がある。「梶ノ尾の馬頭観音石像と大楠 野岳の合戦時、落武者の一人がここまで来て亡くなったが、この地に馬を埋めた。地元の方が供養の為、馬頭観音を祀り、楠を植えたのではないかという。楠の周囲は8.1mあり、観音像の近くの農家が祀っておられる。例祭は十二月十九日。」
上記、梶ノ尾の馬頭観音その2データ表には書いていないが、彫像下側にある土台石の碑文には、建立者関係の37名の個人名がある。あと、上表のデータ部分に<「昭和三十六年十月吉日 八幡神社ヨリ移転郷拝」 (現代語訳:昭和36(1961)年10月吉日に八幡神社より移転した)とある>とある。
これは、碑文を書き写したものであるが、調査当初、私なりに疑問もあった。それは、馬頭観音の建立場所は、本来は集落(町や村)の外れ、あるいは道路脇に多くあったと言われている。しかし、「八幡神社より移転した」となると、この松原八幡神社は、創建も古く大村を含む彼杵地方では名のある神社である。
つまり、「松原八幡神社は、松原(旧・松原村、現・大村市松原地区)の中心地」の神社である。そのような中心地に通常、馬頭観音は建立されていない。なぜ、この馬頭観音が、昭和36(1961)年の移転まで、「この神社周辺にあったのか?」と言う疑問である。
これらの疑問点は、当初(2012年2月現在)私の聞き取り調査の範囲内では、不明だった。しかし、その後も調べていたところ、(2014年5月3日)地元の方から、「この馬頭観音建立は、松原八幡神社周辺や松原地区の多くの方が関係している」との情報を得た。それならば、先の疑問は解けるものである。
この場所は、大きな楠が目印になるので遠くからも探しやすいし、また脇には史跡説明板もあるので馬頭観音について分かりやすいので、近くに行かれた機会に見学をお勧めする。
(初回掲載日:2012年4月10日、第二次掲載日:2012年4月10日、第3次掲載(大幅改訂):2014年5月5日)
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