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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 松原八幡神社の鳥居の碑文
 概要紹介
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 ・肥前鳥居
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 ・鳥居の大きさ
 ・碑文の内容
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 ・碑文の意味
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 ・まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 この松原八幡神社の鳥居の碑文紹介ページは、そのタイトル通り、鳥居に彫ってある碑文についての内容です。ですから、本来なら先に詳細な松原八幡神社紹介ページを作成すべきでしたが、現在掲載できていません。そのため、『大村市の文化財』(改訂版、2004年3月31日発行、大村市教育委員会)を引用して松原八幡神社の紹介をします。次の<>」内が、その引用です。

 旧長崎街道松原宿の、ほぼ中央部に位置する神社です。当神社が初めて記録の上に登場するのは「博多日記」の中であり、次のように記されています。 「正慶(しょうきょう)2年(1333)に、江串村の江串三郎入道が後醍醐天皇の皇子尊良(たかよし)親王を奉じて江串で挙兵した際に、援軍を集めるために、この八幡神社の『錦 の戸張』(幕)を旗にして、郡地方から大村にかけて駆け回った」とあります。

松原八幡神社(正面手前側の鳥居にご注目を)

  したがって、この神社はこの時にすでに鎮座していたことがわかります。かつてこの松原一帯は、鎌倉幕府の御家人であった工藤左衛門尉祐経が源頼朝より与えられた所領でした。その管理のために関東より伊東家(現松原の伊東家)が派遣され、同じ神社の別当としても深い関わりをもちました。このよ うな伊東家との関係からも、源頼朝が当時鎌倉に建立していた鶴岡八幡の分霊を、伊東家の大村下向に際して松原にも祭ったとも考えられます。

 天正2年(1574)のキリシタンによる社寺焼き打ちによって焼失しました。江戸時代にキリスト教が禁止されると、寛永12年(1635)に場所をかえて、大村武部の丘(現裁判所横)に再興されました。その後、松原の旧社地にも再建されました。11月中旬に行われる秋季大祭は「松原くんち」として大変賑わいます。昭和62年に社殿の建て替えが行われました。> (引用終了)

  上記の通り、この神社はかなり古くから鎮座している神社であることが分かります。上記文章中、今回紹介ページと関係あると思われるのが、「寛永12年(1635)に場所をかえて、 大村武部の丘(現裁判所横)に再興されました。その後、松原の旧社地にも再建されました」と言う部分で、この頃に建立された鳥居についての紹介が、このページの主題です。

  なお、この鳥居に彫られている碑文の拓本化について、この神社の宮司さんから2009年春に依頼を受けました。その後2009年6月14日に拓本化はできたのですが、文字の完全判明はできず、色々な推測も交えて報告書は作成しました。今回、そのような私の推測も含めた内容であることも事前に、ご了承の上で、このページをご覧願いたいと思います。

 また、大村市内の他にあるのかどうか、私は把握できていないのですが、この神社の鳥居は肥前鳥居形式のようですから、その点も含めて本題の前に書いていきたいと思っています。

肥前鳥居
 この松原八幡神社の鳥居ついて、色々な方から「肥前鳥居の形式がある」と聞いていました。ただ、私は鳥居研究者では、もちろんありませんし、何をもって即座に「これは肥前鳥居だ」、「いや、これは普通の鳥居だあ」みたいな区別が明確に言えない者です。ですから、あくまでも、このページに書くことは、参考程度にご覧頂けないでしょうか。

 私が、案内板(説明)付きの肥前鳥居を見たのは、福重郷土史同好会による(2009年5月9日開催)佐賀県の史跡巡りでした。(この時の史跡巡り概要報告は、ここからご覧下さい) 唐津市厳木町の室園神社にある肥前鳥居(佐賀県最古の鳥居、県指定重要文化財)でした。ここは、長く続く階段のほぼ中央部にあり、通常の鳥居に比べ高さは低いものでした。

 ただ、案内板も参考にしながら見ていくと、いくつか特徴がありました。まず、1番目に柱(通称で”足”と言う人もいる。以降同様)が下部が太く、上部にいくにしたがって細いものでした。2番目に笠(かさ、一番上の屋根みたいなもの)の両端が、大きく反り返っていました。あと、3番目に貫(ぬき、頭上の直ぐ上にあって横に通っている梁みたいなもの)の高さが、鳥居をくぐる時に人の頭につきそうなくらい低かったことです。

 このようなことを参考にして再度、松原八幡神社の鳥居(上記右側写真参照)を見ると、なるほど、柱(足)は下側が太く上側が細く、笠の両端が反り返っていました。しかし、貫の高さについては、通常の鳥居と変わりませんでしたが、良く見ると30cm位の継ぎ足しがしてありました。それで高く感じただけで、継ぎ足しのない=元々の造りだったら、かなり低いものだったろうと想像しました。

 以上のようなことが、肥前鳥居の特徴かどうか明快に判断できませんが、室園神社にある肥前鳥居ほどの大きな特徴ではないものの、この松原八幡神社の鳥居も、けっこう肥前鳥居に似ていると私は思いました。そして事前に教えて頂いた方々の言っておられた通り、私も、その後は「あの松原八幡神社の鳥居は肥前鳥居形式と思う」ような言い方をしています。

鳥居の大きさ
 この項目は、松原八幡神社の鳥居の大きさで、下表を参照願います。また、上記の項目に肥前鳥居の概要紹介を書いています。この肥前鳥居の見た目で一番分かりやすい特徴点は、鳥居の柱の円周が、最下部が一番太く、上部にいくにしたがって細くなっていることです。

松原八幡神社の鳥居の大きさ
 (全体の)高さ  290cm
 (全体の)横幅  395cm 
 柱の最下部の円周(肥前鳥居なので下部が太く、上部の方が細い)  149cm
 柱の最上部の円周(同上)  (未計測)

 なお、上表には柱の最上部の円周を書いていません。理由は、高さ2m位の部位にあるので脚立が必要で、そのため現時点では未計測状態です。いずれ調査すれば、上表に追加記入する予定です。

碑文内容
私が見た範囲内ですが、大村市内どこの神社や権現様の鳥居も柱(足)部分に、たいてい碑文が彫られていることは知っていました。そして、ほぼ建立年、建立者あるいは「・・・郷(町)建立」みたいな文字も彫ってあります。当然ながら、この松原八幡神社の鳥居にも同種同様の碑文があるだろうなあと、拓本作業前から想像はしていました。
松原八幡神社の鳥居(左右の柱に彫られた碑文の活字化)
中央点線の左側が左の柱の碑文。右側が右の柱の碑文内容。

 そして、2009年6月14日、半日ほどかけて左右2本の柱(足)の碑文の拓本作業をしてみました。風雪や移転作業(後で詳細説明予定)による摩耗のためか、かなり判読が難しい状況でした。ただ、右画像(拓本から活字化したもの)でも、お分かりの通り、右の柱部分に11文字、左側の柱部分で14文字が判明しました。

 右側画像でも文字はお分かり頂けるかと思いますが、あえて改めて、これらを次の「」内に太文字の横書きにしてみます。ただし、「?」は不明文字です。「(右柱の碑文は)寛文丙????  奉寄進 九月吉祥日」、「(左柱の碑文は)?人自空院 彼杵本町 中嶋徳右衛門

 既に掲載中の他の石碑や碑文ページでも度々書いてきましたが、この種の内容で大事と言いますか、私が関心あるのは、やはり、(1)建立年(製作年や造立年)、(2)建立者(製作者や寄進者など)、(3)建立目的なとと思われます。この点から、直接見ることのできる碑文以外で最も参考になるのは江戸時代に編纂された(大村)郷村記です。

 この(大村)郷村記には、神社仏閣の由緒書き、境内の広さなどから、石仏や石碑について、当然全部がぜんぶではありませんが、けっこう詳細に記述されています。中には、既に紹介中の山田山中大石碑銘のように全文が(大村)郷村記に書いてあるものまであります。(念のため、山田山中大石碑銘の全文は、漢文調の文字のためホームページには掲載していません)でも、良く考えてみるとこれら山田山中大石碑銘などは、鳥居などと違って碑文そのものが建立目的ですから、意味合いが違っていますから、その全文が(大村)郷村記に記述されたのでしょう。

 この松原八幡神社の鳥居について、何か(大村)郷村記に書いてないか読んでみました。しかし、他と同じく神社そのものの由緒書きは書いてあっても鳥居の碑文までの詳細な記述はありませんでした。それで、結局は上記右側(碑文を判読できる範囲内で活字化した)画像で、私の推測や想像含めて書くしかないと考えました。  (注:この碑文の解釈の件は、次の項目「碑文の意味」で書く予定です)

碑文の意味
 上記の太文字横書きを便宜上二つに分けて、これから私の推測含めて解釈していきます。ただし、「?」は不明文字ですので、そのことも含めて想像しながら書いていますので、もしかしたら事実と違う場合もあります。後で新事実が判断出来れば、改訂も含めておこなっていきたいとも思っています。

(1)右柱の碑文について
 鳥居の右の柱(足)に彫られた文字「寛文丙????  奉寄進 九月吉祥日」は、建立年月日などを表していると思われます。江戸時代の寛文年間は、寛文元(1661)年〜寛文13(1673)年まです。その内、年の干支(えと)を表す上記小文字の「」は、「丙午(ひのえうま)」の一字で、寛文年間に「」の付くのは、この、「丙午」の年=寛文6(西暦1666)年しかありません。

 つまり、右の柱(足)にある3行の文字「寛文丙????  奉寄進 九月吉祥日」を続けて現代語訳すると、「(この鳥居を)奉って(たてまつって)寄進(寄付)する。(建立年月日は)寛文6丙午年(西暦1666年)9月吉日である」との解釈が成り立つと思われます。

(2)
左柱の碑文について
 次に鳥居の左の柱(足)に彫られた文字 「?人自空院 彼杵本町 中嶋徳右衛門」を書いていきます。まず、先に1文字不明の「?人自空院」について、私なりに八幡神社の別名なのか、人の名前なのかなど色々と考えてみました。しかし、(大村)郷村記に神社の別名で「?人自空院」と、書かれた記述はないようでした。結局、素人では分からず、この点は不明のまま解釈を続けていくことにしました。

 先の一行を除き「彼杵本町 中嶋徳右衛門」についてですが、これも色々な解釈が出来ると思います。ただ、通常なら、この鳥居の建立者あるいは、この神社の所有者か宮司を表しているのではないかと思われます。
そのようなことも前提に考えて後で現代語訳全文は、まとめています。

 その前に、この碑文の中に、なぜ「彼杵本町(そのぎほんまち)」という文字があるかと言う点です。私は、恥ずかしながら当初「彼杵本町」現在の東彼杵町の中心地みたいな場所を指しているのかなあと考えていました。その後、色々な方からのご指摘により、この意味が分かりました。それは、まず、このページ冒頭の概要紹介項目に『大村市の文化財』を引用し、「(前略) 天正2年(1574)のキリシタンによる社寺焼き打ちによって焼失しました。江戸時代にキリスト教が禁止されると、寛永12年(1635)に場所をかえて、大村武部の丘(現裁判所横)に再興されました。その後、松原の旧社地にも再建されました。 (後略)」と書いています。

(3)当初、武部の丘にあった鳥居

 このことも参考にして、「彼杵本町」とは、現代なら「大村本町」と同じと言うことのようです。つまり、上記に書いてある通り、武部の丘(現裁判所横)に再興され、その後に建立された鳥居なので、当時の所在地を表す「彼杵本町」あるいは建立者(寄進者)の「彼杵本町・町民」と表現しているのではないかと推測されます。つまり、この鳥居は最初から松原にあったものではなく「武部の丘」時代のものを、いつの年代かに移転して現在地に立て直したと言うことです。

 この鳥居の石材は、素人目で見ても、けっこう良質なものと思われます。武部の丘から現在地の松原まで、例え鳥居は構造部がバラバラにできるとはいえ、石には変わりなく、かなりの重量です。二つの川(大上戸川、郡川)なども含め長距離運搬中に文字部分が損傷し、判読しにくい碑文なったのかなあとも思いました。

 以上のようなことをまとめて、現代語訳を続けてみると「(この鳥居を)奉って(たてまつって)寄進(寄付)する。(建立年月日は)寛文6丙午年(西暦1666年)9月吉日である。(建立者は)彼杵本町(の町民)、(代表者もしくは宮司の)中嶋徳右衛門である」と言う解釈もできると推測しています。ただ、建立者部分の文字解釈については、別に「(建立者は)彼杵本町の中嶋徳右衛門である」との解釈も成り立ち、その場合は個人での建立と推測されます。

 私は、文章の流れだけからすれば後者の方が自然な感じはします。ただ、建立費用も大きかったでしょうから、前者解釈の「彼杵本町」」の代表者あるいは宮司と言うのも可能性は充分あるとも思っています。これ以上、いくら個人の推測や想像でも断定的に書かない方がいいとも考えました。

まとめ
 
上記までの項目に今回のテーマである松原八幡神社の鳥居についての内容は、全て書きましたので、特に改めての補足やまとめなどが沢山ある訳ではありません。ここでは、鳥居の拓本作業や、その文字解読経過から、どう思ったのかみたいな感想を書きたいと思っています。

 私が、鳥居の拓本作業をしたのは、この松原八幡神社が初めてでした。福重の石仏(参照:「仏の里 福重」、「CG石仏写真」)は、地面スレスレあるいは一部地中にもあり、拓本作業すると腰が痛くなる時もありましたが、
その点、鳥居の碑文は、けっこう地面から高い位置にあるので作業しやすいものです。

松原八幡神社

 ここの鳥居は、先の項目にも書きました通り2009年6月14日に作業をしたのですが、時間かけた割には文字判読数が少なくて、やや悔しい思いもしました。ただ、これは、数人で拓本に表れている、読みにくい文字を見ているからであって、もう少し大勢で見れば、切れぎれな文字ながら「あの文字は、・・・ではないか」、「こっちの文字は、・・・だろう」などと判読率は、少し上がる可能性はあるかもしれません。いずれの機会に再確認も必要かなあと考えてもいます。

 あと、私は度々、「江戸時代に編纂された(大村)郷村記は詳細な記録集だ」みたいなことを書いてきました。今回のテーマでも、そのことは若干ですが触れてもいます。しかし、ここの鳥居の建立者、建立年や移転年などについては、この古記録にも書いていないものでした。今回、鳥居碑文の拓本作業及び、その後の文字解読により、先の項目に書いた内容を明らかにできました。

 改めて鳥居一基であっても、その由緒と言いますか、長年の経過があるのだなあと分かりました。このような作業をしなければ、私自身ずっと松原八幡神社の鳥居は、最初から現在地にあったものだと思っていたはずです。

 あと、改めて国語辞典の大辞泉で調べてみると、鳥居=「神社の神域を象徴する一種の門」と書いてあります。これをより分かりやすく言いますと、鳥居の外が俗世間、内側が神域ということでしょう。鳥居には、そのような大事な意味があるのですから、柱に建立年や建立者名が彫ってあるのは、ある意味当然のことだなあと思いました。

 そのような碑文のおかげで、今まで知らなかったことが明らかになったのは、先人の努力や建立の思いなどが、ほんの少しでも分かった感じもしました。最後に、(大村)郷村記には松原八幡神社のことを「松原村鎮守」と記述されています。江戸時代だけでなく近代も現代も、この神社は松原地区の中心地でもあります。これからも、今以上に松原が発展していくことをを祈念して、今回は終了とします。 (ページ完了)

関係ページ:松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑 、松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基) 、大村藩領絵図 、(大村)郷村記

(初回掲
載日:2011年12月4日、第2次掲載日:12月5日、第3次掲載日:12月8日、、第4次掲載日:12月10日、第5次掲載日:12月11日、第6次掲載日:12月12日、第7次掲載日:2014年10月11日

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