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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 山田の滝、山田神社周辺の石碑
 概要紹介
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 1)川の中の碑文
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 2)題目淵の碑文
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 3)山田山中大石碑銘
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 三つの碑文のまとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 長崎県大村市内を流れる川で大上戸川(だいじょうごがわ、上流域は山田川とも言う)があります。この川の上流域(山田川、上諏訪町)には山田の滝と山田神社があります。ここには、江戸時代に建立された碑文が三つあります。また、近代になって建立された碑文もあります。今回このページは、先に江戸時代に造られた三つ碑文を紹介していきます。なお、いずれ機会あれば、後者の(近代の)碑文掲載も考えはいますが、調査などが充分ではなく例え掲載するにしても相当後になると思われます。

山田の滝(落差約11m、大村市上諏訪町)

 実は、今回のページより先に山田の滝(紹介ページ)へ江戸時代に建立された三つの碑文について書いています。これらの碑文については、所在地、大きさ、内容などの調べは、ほぼ終了しています。ただし、難解な漢文の文章について、概要は分かっても詳細な解読はできていません。

 これらの中で拓本作業できる所には拓本用紙で、その作業出来ない所は拓本の替わりに写真CG加工で碑文は確認・表示はできてはいます。漢文の意味も何が彫られているのか、おおざっぱには分かっているのですが、文章内容の詳細分析となると素人の手に負えません。

 このことに関係して私事になりますが、2011年1月30日に、これらの碑文の紹介も兼ねて『山田の滝周辺にある題目淵の碑文』と言う冊子を発行しました。この冊子でも、題目淵の碑文を除き(大村)郷村記に記述されている二つの碑文内容=難しい漢文の文章紹介は出来ませんでした。

 素人の悲しさも感じつつ、背伸びして色々するよりも「出来ないことはできない」と割り切って、この二つの碑文は漢文のまま紹介して、先の冊子には解読とか現代語訳もしませんでした。今回も状況は変わっていませんので、私の分かる範囲内で書いていこうと思っています。

 具体的には、後で個別項目で書くとして、まずは名称だけ列記します。それは、1)川の中の碑文2)題目淵の碑文3)山田山中大石碑銘です。

3つの石碑の主な共通点
 後の項目で3つの碑文の共通点を具体的に書いていますが、ここでは先に主に3点だけに絞って紹介しておきます。
1,3つの碑文とも江戸時代の元禄年間に造られていること。
2,建立者は、いずれも本経寺の第8代住職の日迢(にっちょう)であること。
3,いずれの碑文とも自然石に彫られた達筆で美しい碑文であること。
などが挙げられると思います。他にも特徴点や共通点もありますが、具体的には、後で個別紹介項目で書いていきますので、そこをご参照を願いします。
 
1)川の中の碑文(通称)

 まず、この碑文の名称に関係することから書きます。元々、この碑文は現在呼称の山田の滝、滝壺の左岸側にあった大きな自然石です。江戸時代編纂の(大村)郷村記に碑文名について正式に書いてあります。しかし、実は漢字も難しいし長いし、その名称で呼べば今ではかえってややこしくなります。それは、次の<>内の通りです。

山田の滝 (写真右側)七面大明神(写真左上)
(川の中の碑文は大村大水害前まで写真右端側にあった)

 <迹驚の瀧 瀧壺迹驚淵巌壁碑銘(とどろきのたき たきつぼ とどろきぶち がんぺき ひめい)> この迹驚の瀧は現在の呼び名である山田の滝の前呼称です。何故「迹驚の瀧」かと言いますと、たぶんに当時「滝水が周囲にとどろくように落水していた」から、この名前が付けられていたのでしょう。(ご参考までに、山田の滝の「山田」は、字(あざ)の山田から呼ばれていると思われます。また、この滝に来る前に存在している山田神社(江戸時代までは山田大権現)の「山田」の影響も大きいのではないかと思われます)

  瀧壺迹驚淵巌壁碑銘とは、「滝壺(たきつぼ)である迹驚淵(とどろきぶち)の巌壁(がんぺき)にある碑銘=碑文」と解釈できると考えられます。いつ頃から正確には不明ながら江戸時代以降の年代で迹驚の瀧は、山田の滝と地元の方含めて呼称されるようになりました。そのような経過もあり、私も同じ滝名を用いて説明しています。

  あと、迹驚の瀧を山田の滝と変えただけで、今回の碑文の名称が分かりやすくなるかと言いますと、そうではありません。重さ数十トンありそうな、この碑文石は1957(昭和32)年7月に発生した大村大水害によって下流約10mの川床へ流されたのでした。結果、現在は滝壺脇の岩壁に、この石はないのです。つまり、「元々は山田の滝、滝壺の迹驚淵の岩壁にあった碑銘(碑文)は現在下流10mに流された石」などと説明はできても一般に簡潔な名称で呼ぶ場合は、なかなかなじめないものと考えました。

 それで今回、私が講演会などで用いています「川の中の碑文」と言う呼称で、このページも書いていきたいと考えていますので、あらかじめご了承願います。

川の中の碑文(拓本作業中。写真手前側が上流)
(この石は大村大水害で滝壺脇から下流10mも流れた)

川の中の碑文、調査経過について
 この碑文の彫られた大きな石の存在について、私が2011年1月30日に発行した冊子『山田の滝周辺にある題目淵の碑文』を購入された上諏訪町の方から情報を頂きました。そして、2011年3月5日午後に現地へ同行し教えて頂きました。最初見た時、碑文として明確に判断しにくいものの石の上側から3〜4行ほど文字らしい感じに見えていました。

 ただ、この見える表面は長年、風雨や大雨時の水流などにさらされていた関係上、摩耗していました。それで「この文字らしい所は碑文と思いますが、正確には拓本作業をしてみないと良く分かりませんね」と話し、早速その日の夕方前に一部砂利などを除去して最初の拓本を採ってみました。すると、文字であることが判明しました。

 さらに3月8日には、ほぼ一日中かけて大きな石も含めて水面以下まで掘り下げてみました。今まで砂利や大きな石で隠されていた碑文面が水面下側含めて5行ほど新たに見えました。さらに、これ以上深い所にも文字があることは分かっていましたが、水溜まり状態では和紙を使用する拓本作業はできないので、ここで掘り下げは中止しました。

 これで当初から見えていた文字行と併せ合計10行位が碑文面として確認できました。次の日の3月9日に今度は新たに掘り下げた分も含めて拓本作業を実施しました。今まで見えていなかった面が、砂利や泥などによって保護された状態になっていたためか、その分だけがほぼ分かりやすい文字として拓本化できました。

 また、この拓本化できた部分と江戸時代に編纂された(大村)郷村記の碑文の写しと比較してみました。先の項目でも紹介しました「迹驚の瀧 瀧壺迹驚淵巌壁碑銘」の記述内容と同じ文章(碑文)でした。この碑文内容の概要については、後の項目で書きたいと思っています。

川の中の碑文、大きさなどについて
 
ここから順序後先になってしまいましたが、川の中の碑文の大きさなどについて紹介します。先に書いた通り、この石は現在3分の1ほど川床下(水面下)に埋没しているため、正確に計測できませんでした。それで、下表には水面より上の部分を主に測った数値を書いています。
一部( )内数値は水面より下部なので、あくまでも私の推測の数字です。そのようなことから、この数値はご参考程度に見て頂けないでしょうか。なお、左岸から碑文石を見た状態で、横幅とか縦とか下表には書いています。

1)川の中の碑文の大きさ
 碑文石  高さ:約110cmプラス水面下(推定で全体160cm位か?)  横幅:約205cm  奥行き:約190cm
 文字部分  横幅:約64cmプラス水面下(推定で全体100cm位か?)  縦行の長さ:約114cm - 

 碑文の彫られている石の重量は、全くの素人推測ですが推定5トン〜10トンありそうな感じがします。この自然石は、元々、山田の滝、滝壺脇にあった頃と比べ、現在は碑文面は時計回りで90度傾いた状態です。また、碑文面には関係ありませんが、石の一部分は玉ねぎの皮がむける感じで割れてもいます。右側の上から3番目写真(拓本作業中)をご覧頂きますと、写真手前(上流側)の拓本用紙をを張った面が碑文面です。

 ただし、拓本用紙全体に文字があるのではなく、やや黒くなっている部分の3分の2程度に碑文があります。当時は、全て手彫り(手作業)だったのでしょうが、「よくもまあ、こんなにビッシリ彫れたもんだなあ」と声が出るほどの文字数があります。同時に「自然石に、これだけの文字数を彫るだけでも高い石工技術があったのだなあ」とも思いました。

川の中の碑文、概要解釈について
 
既に重複して何回となく書いていますが、現在、川の中の碑文と読んでいます、この碑銘(碑文)は元々、(山田の滝)滝壺の迹驚淵(とどろきぶち)の岩壁にありました。江戸時代に(大村)郷村記を編纂された役人(武士)は、当然、滝壺脇に碑銘(碑文)があった時に書き写されたのでした。それらが、(大村)郷村記に記述されていたことは、逆に現在は3分の1ほど川床に沈んで見れないのですから、ある面大変意義あることだとも思えます。

 あと、この碑文内容は現在、活字版の大村郷村記・第一巻(編者:藤野保氏)によって、ほぼ全文が見れます。碑文の何文字かは摩耗や欠落により江戸時代当時から視認できなかったようで、その分は「文字が分からず」みたいに書いてもあります。ただし、私の見た範囲内で、碑文全体を100とすれば、そのほぼ98%位は転記されているようです。その大村郷村記の記述分の文字数は、約430文字あります。

 この(大村)郷村記に書かれている碑文(全文)は、難しい漢字と難解な漢文体ばかりです。ここで残念なことを書かざるを得ないのですが、私は、この碑文の拾い読みはできても、全体が解読できません。それで、次の<>内の概要紹介文を書いておきます。

  この碑文の最初の方には、本経寺(第八代)日迢上人(にっちょうしょうにん)元禄13(1700)年8月19日に建立したことや祈願内容などがある。その中には領主大村家の繁栄や民衆の安らかなことなどが彫られてある。その後、この周辺にある拝殿には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が安置されていることや周囲の風景が素晴らしいことが述べられている。さらに、七面大明神の由来(注)が、やや長く書いてある。つまり、前段部分(建立目的、建立者、建立年など)を除けば、それ以降の多くの内容は、七面大明神を安置したことに重きをおいて書かれたものと推測される。


(注)について、かなりの長文で七面大明神について彫られています。山梨県にある七面山や、そこにまつわる七面大明神の由来などについてもあります。この碑文に彫られている内容とほぼ同じ内容が、次のリンク先から閲覧することができます。山梨県にある身延山久遠寺ホームページの「七面山、由緒」の「日蓮大聖人と七面天女」紹介文です。このページから引用して、次の<>内に一部書きます。

 
(前略)  この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現じたのです。そして、もとの美女の姿に戻り、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」とお誓いになると、雲に乗って七面山に飛び去っていきました。  (後略)

 国語辞典を参照すれば、七面大明神とは、「七面天女のことで日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神」のことです。つまり、七面山の七面大明神は、身延山久遠寺の守護神だと思います。この関係と同じことが、大村の本経寺と(山田の滝周辺の)七面大明神にあったのではないかともと推測できます。そして、このようなことが、当時、滝壺脇にあった碑文に彫り込まれたと思われます。

 以上、今回の項目は、大村郷村記をもとに碑文の概要紹介をしてきました。たとえ全文でなくても、この種の史料について最も重要と思われる建立年、建立目的、建立者名などは、先の<>内の通り判明しています。川の中の碑文では、建立年などの最も肝心な部分が水面下になっていますが、それ以外の部分では大村郷村記内容と同じですから、この記述の正確さも確認できました。もしも、碑文の全文を知りたい方は、大村郷村記・第一巻を82ページをご覧頂きたいと思います。


川の中の碑文が語りかけていること
 通常の郷土史や歴史事項ならば、上記の項目で内容紹介は終わりです。私は、幾人かの方より「歴史事項は常に淡々と事実をありのまま過不足なく書いて感情や推測などは書かない方が良い」と教えて頂きました。「その通りだなあ」と思いつつ、いつも私は違った書き方もしていますので今回も幾つか書き足したいと思っています。

・元禄時代の人々の強い願いが伝わる

 私は、この川の中の碑文石の拓本作業、計測それに他の方の案内などで10数回は見ました。そして、繰り返しの表現になりますが、この大きな石は1957(昭和32)年7月に発生した大村大水害によって山田の滝、滝壺脇から下流約10mの川床へ流されたものです。他の面は、玉ねぎの皮がむけたみたいに壊れている所もあるのですが、碑文の彫り込んである面だけは、不思議と破壊を免れているのです。

 無傷に近い碑文面を見ると、中には(建立者が本経寺の第8代住職の日迢上人ですから)宗教的なことを言われる方もおられるかもしれません。私は、私なりに元禄時代の人々が造り、その後も変わらずに続く民衆の強い願いが、大村大水害による強烈な濁流による破壊に打ち勝ったのではないかと思っています。

・1957(昭和32)年発生した大村大水害を伝える”生き証人”

 また、ここに行くたびに私は「こんな(推定5トン〜10トンありそうな)大きな石を流す自然の力は、なんと圧倒的で驚異的なのか」、「しかも、10mも流されているのか」など色々と思うことがあります。この河原周辺には、当然この石だけでなく、もっと大きい何十トン、何百トンもありそうな自然石がゴロゴロしています。その多くが水害で流れたので、「大村大水害後は風景が変わったみたいだった」との話も地元の方からお聞きました。

 私は、1957(昭和32)年の大村大水害と言えば子どもの頃ですから多くの事柄は覚えていません。しかし、この川の中の碑文石は、大村大水害時に発生した圧倒的な濁流の驚異的な力を伝える”生き証人”でもあると私は思っています。寺田寅彦の有名な「天災は忘れた頃にやってくる」との格言があります。2011年現在で1957(昭和32)年に発生した大村大水害から既に54年経ちました。

 誰も水害も災害も願う方はいらっしゃいませんが、それでも世界でも日本各地でも災害は発生し目を覆うばかりの惨状です。災害後は、どこでも対策がされますが、それでも未来永劫に起こらないと言う保証ではないと思います。この大きな碑文石は、水害の力を再認識させるものだとも思えます。

・碑文の存在にも光を当て後世に伝えて欲しい
 この碑文石の情報提供者の方と初めてお会いした時に、色々と話をしました。その中で私が良く覚えているのが、「今まで、山田神社や七面大明神などの掃除やお参りの時に口づてに他の方にも伝えていた」、「できれば、この碑文の存在にも光を当て、後世に伝えて欲しい」と言う内容です。このことは私なりに「元禄時代から続く多くの人々の願いや、大村大水害を今に伝えるものだ。できれば末長く、この教訓を山田の滝や山田神社の観光の機会でもいいから知って欲しい」との内容と理解しました。

 先の言葉をどうやって実践に移すか直ぐに思い通りにならなくても私は、各報告書や写真を撮り関係方面に提出したところ、大村市文化振興課の大野さんには、山田の滝から山田神社周辺一帯の碑文や史跡の位置図(計測図)を作成して頂きました。また、2011年3月18日付け長崎新聞にて<山田の滝周辺 新たな碑文発見 「観光資源に活用して欲しい」>との見出しで報道されました。さらに、大村ケーブルテレビでは、2011年5月12日、13日に『歴史の散歩道』番組で放送されました。

 ここで改めて私は思うのですが、地元・上諏訪町の方々が史跡保存活動含めて長年続けてこられた「山田の滝や山田神社周辺を守っていこう。これからも伝えていこう」という願いが、結局は多くの方の賛同を得ているのではないかと思います。その原動力は元禄時代に建立された三つの碑文石や各史跡の存在だと思います。特に、この川の中の碑文は、一番目立たない所にありながら、大村大水害との関係もあるので逆に一番強く何かを語りかけているようにも思えます。

2)題目淵の碑文
題目淵のある場所や大きさについて
  まず、碑文そのものを述べる前に、題目淵(だいもくぶち)がある場所は、山田神社から約200m登り降りして行き、山田の滝の手前約70mの右岸側にあります。題目淵(だいもくぶち)の大きさは、横幅約14m、奥行き約6m 、淵の手前側の深さ約1m50cm(水深は中央部か右岸の方がさらに深いと思われる) です。

題目淵(だいもくぶち)
題目淵の碑文(だいもくぶちのひぶん)

 この題目淵(右側4番目写真の青く見える淵)は、江戸時代編纂の(大村)郷村記に記述されています。川の中央部(写真左端側)には大きな石が並び、まるで自然の堰(せき)みたいになっていて、そのおかげで淵が小さな溜池(ためいけ)みたいにも見えます。次に、題目の意味について書きます。

 この題目(だいもく)とは、国語辞典の大辞泉によると<日蓮宗で唱える「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の7字>と書いてあります。つまり、この題目が彫ってある岩の前に淵があるから”題目淵”と呼ばれてきたのです。

 碑文のある石は、右側4番目写真中央やや奥の右側に見える右岸の岩場にあります。この題目淵や碑文について、地元の方々が口々に(大村弁で)「子どもん頃、この淵でよく泳いだバイ」、「水が澄んどったけんが綺麗かったとよ」、「あん大きな碑文は誰でも見たことあるバイ」みたいに聞きました。私は、地元の方にとって、けっこう馴染みのある、誰でも良くご存知の題目淵と碑文だったんだなあと思いました。

なぜ江戸時代の(大村)郷村記にも近代発行の書籍類にも題目淵の碑文が記述されていないのか
 この件について、上野調べながら江戸時代に編纂された(大村)郷村記には、題目淵や、その碑文のある場所までは記述されています。しかし、碑文全文について、他の二つの碑銘のように記述されていません。(大村)郷村記には、この周辺にある他の二つの碑文ばかりではなく、大村領内で例えば古くから伝わる石仏や石塔類があれば大抵の場合、建立者や建立年などが碑文通りに書いてあります。

 しかし、この題目淵の碑文に関しては、その内容が全く書いてないので私は逆に「何故だろう?」と思いました。また、近代になって発行された郷土史関係の書籍類にも記述はないようです。地元の方からの話しによると、「何人かが、この碑文について聞いて来られ案内もした。頼まれるままに岩に登って掃除もした。でも、結局は書籍類に概要の紹介もなかったのではないか」とのことでした。

 それは、なぜか? 私の推測ながら(大村)郷村記を編纂した江戸時代の役人も近代の郷土史の先生方も、題目淵の碑文の実物は見られたものの、その前に深くて奥行きのある題目淵があるため岩壁に近寄れず、碑文全文を記録できなかったのではないかと思っています。

 私は、大村高校時代の同級生から3人乗りゴムボートを借り、一眼レフデジタルカメラ、拓本作業道具一式、アルミ脚立など合計約50kgを2人で持って岩登り・岩下りもしながら、この題目淵に近づきました。そして、濡れてもいいように海水パンツに着替えてゴムボートに乗って碑文のある岩場に寄りつきました。

 大きな文字は対岸からも見えていましたが、小さな文字は岩にこびりついている苔や汚れで視認できませんでした。そのため、岩場を綺麗にしないかぎり拓本も写真撮影もできないので30分位かけてクリーニングしました。しかし、拓本紙を岩場に貼ろうと試みたのですが、乗っているゴムボートが動くため、この作業は諦めました。そして、写真撮影の方へ切り替えて作業は終了しました。

 後日、対岸側から撮った碑文の全景写真も含め、失敗に終わった拓本に替わるものとして写真CG加工を思いつきました。岩場に彫ってある文字の大部分は写真で鮮明に見えていましたので、その作業は素人ながら出来ると想像していました。

題目淵の碑文の大きさと、CG写真加工について
 この題目淵の碑文のある岩場は、高さ10m〜20m位で右岸側はずっと繋がっていますから本来その大きさ表示をできません。ただし、文字の彫られている一部分は平らで、その範囲内だけでしたら高さ約1m70cm、横幅約2mあります。そこに高さ約1m20cm、横幅約1m10cmの大きさ(範囲内)で縦9行の碑文が、達筆かつ綺麗な文字で彫られています。

 先の項目にも書いた通り、今まで岩苔や汚れのため見えなかった文字が岩場をクリーニングした結果、ほぼ鮮明に写真に写りました。それで、次は写真加工ソフトでCG作業に入り、結論から先に言えば2010年9
月から12月まで約4カ月間もかかって完成しました。そのような長期間の作業になった理由は、主に二つありました。それは、一つに毎回の作業時せいぜい1mm前後から長くても数m程度しかCG線を引けなかったと言うことです。

 あともう一つ、これが最も難しかったのですが、碑文が漢字の毛筆体であるため文字のつくりが様々に解釈できて、どれが正しいのか見極めながら作業せざるを得なかった点です。それらの具体例として、碑文が見えていても「難」と言う文字は左半分のある岩自体が割れていましたので結局CG化は諦めました。また、本来の「轟」文字を省略形で彫ってあるので当初「実」にも見えて、後でやり直したものです。

 様々な解釈や経過を経て完成したのが、下記写真の中央(CG写真)で、さらに見やすいように活字化したのが右側です。実物の画像はいずれも精密なのですが、ホームページ用に大幅圧縮しているため鮮明さに欠けています。
その点は、ご了承願います。

題目淵の碑文(実写版)
題目淵の碑文のCG版
題目淵の碑文の活字版

題目淵の碑文、概要解釈について
 このCG写真の中央部にあるのは、「南無妙法蓮華経」で通称”ひげ文字”とも言われている日蓮宗の題目が彫ってあります。他に経典からの文字、願い事、建立場所、建立者、建立年月日などがあります。また、文字以外にも本経寺第8代住職の日迢(にっちょう)の花押(署名)が中央下部にあります。私は、碑文の数を沢山見た経験はありませんが、花押のある碑文はこれまでに、この一つだけでした。その意味からして、大村市内に元禄時代の花押がある碑文は、けっこう珍しいのではないでしょうか。

題目淵の碑文の活字版

 文字だけなら右側の活字版画像が見やすいと思いますが、この碑文には「七難即滅(しちなんそくめつ) 七福即生(しちふくそくしょう) 為悦衆生故(いえつしゅじょうこ) 現無量神力(げんむりょうじんりき)」という経典からのやや難しい言葉が並んでいます。これら以外にも、解説したい用語もあるのですが、その全部をホームページ上に書いていましたら、けっこうな文章量になりますので、その分は省略し、全体概要説明にしたいと思います。

 この碑文の現代語訳全文は、意訳ながら次の「」内の通りと思われます。「南無妙法蓮華経 山神 水神 (日蓮宗、山神、水神の力によって)七難がただちに滅び、七福がもたらされるように。人々に幸福を与えるために、無限の神の通力を現して下さるようにと願う。(領主の)大村家が、いつまでも繁栄することを祈って奉納する。 ここは肥前国、大村の圓満山(えんまんざん=寺のことである)が勧請(かんじょう)する、轟渕の神(題目淵の神)である。 この碑文は、元禄13(西暦1700)年9月19日に本経寺の日迢が建立した 」

題目淵の碑文、建立目的は
 碑文の概要説明は、上記の通りですが、「この淵の岩壁に、なぜ碑文が彫られたのか?」と言う目的については、(大村)郷村記にも記述されていないので詳細は不明と言わざるを得ません。ただ、私の推測ながら碑文の中に「水神」があることがヒントになると思われます。また、既に掲載中の山田の滝(紹介ページ)で書いています「山田の滝、滝壺(迹驚淵)の脇にあった碑文」(現在、川の中の碑文)説明の(大村)郷村記の現代語訳「大昔より日照りがあった時季に村の人は、この淵で雨乞いを必ず祈祷したと言う」のがあります。

 つまり、このように滝壺とか川の中にある青みがかった、やや深い淵などには神が宿ると当時の人は思ったのではないでしょうか。そして、上流側の七面大明神と滝壺脇の碑文(現在、川の中の碑文)とともに、この題目淵の碑文も雨乞いなどに祈祷されたのではないかとも思われます。あと、それらの補足として、この題目淵の碑文から下流側70mほど下った所の左岸に数キロメートル先の田んぼまで水をひいている井手(用水路)の取水口があることも念のために書いておきます。

3)山田山中大石碑銘

山田山中大石碑銘(横幅約5m30cm、高さ約5m)

 まず、この碑文の名称についてですが、(大村)郷村記に「山田山中大石碑銘(やまだ さんちゅう だいせき ひめい)」と記述されていますので、私もその通り用いています。意味は、読んで字のごとくですが、「(地名の)山田の山の中にある大きな石の碑銘(碑文)」と解釈されます。

 場所は、山田神社の鳥居脇を通り100m位進み、山田神社のお堂の手前約30mの左側にある石垣の上で、山林の中に大きな平たい石があります。この石の大きさは、横幅約5m30cm、高さ約5mあります。ただし、地中部分は計測できませんので実際は、もっと大きい岩と思われます。(右側写真参照)

 これから、右側写真をもとに説明していきます。見方によっては岩の中央部に縦に割れているようにも見えて、まるで二つの石があるような感じがします。しかし、実物は全部つながっている一枚岩です。便宜上、中央部のくびれ部分を境に、左側、右側とも今後書いていきます。

 左側の上部が尖った三角形部分に大小3行の文字あります。(これを左碑文と称する) 右側の方の中央面に全て小文字で11行(1行は22文字位)の碑文がビッシリ彫られています。(これを右碑文と称する) 左右どちらとも、後で「山田山中大石碑銘の主な内容と特徴」の項目で概要説明を書きます。

 左右の文字が彫られた部分対比では、上下の高さでは左碑文が高く、横幅では右碑文が横長です。左右の碑文、どちらとも「よくぞ、こんな自然石に達筆で素晴らしい文字が彫れたものだ」と、しばし感心するほど完成度の高いものです。

山田山中大石碑銘の左碑文CG版
(文字幅:高さ約128cm 、横幅:約37cm)

山田山中大石碑銘の主な内容と特徴
<左碑文について
  (右側写真=左碑文、文字の部分だけCG加工写真参照)この左碑文に彫られている文字部分は、高さ約128cm 、横幅:約37cmです。碑文は、次の「」内の太文字通りです。ただし、( )内は補足や注釈です。

 「(中央部にある”ひげ文字”の大きな碑文で) 南無妙法蓮華経 (中央下側にある小文字で)本経寺八世 日迢誌之  (右側の小文字で)元禄十四辛巳  (左側の小文字で) 八月十八日

 上記「」内の太文字部分を現代語訳すると、次の<>内の通りと思われます。<南無妙法蓮華経 (この碑文は)元禄十四辛巳(かのとみ、しんし)=西暦1701年8月18日に建立した。本経寺第8代住職・日迢(にっちょう)が、之(これ)を記す(しるす)。>

右碑文について
 この文字部分の大きさは、高さ約120cm、横幅約95cmです。この範囲内に1行=ほぼ22文字で、11行があります。合計約240文字が、びっしり小文字で彫られています。この碑文内容の全文は、今回省略しますが、概要は山田権現の由緒書きです。詳細を知りたい方は、(大村)郷村記に全文転記されていますので、ご参照願います。

 上記の左碑文右碑文とも文字のある部分は、まあまあ平らな面ではあるのですが、それでも自然石ですから人工的に造った真っ平らな面ではありませんので、そこに文字を彫り込むのは、かなり高度な技術と思えます。そして、まるで書家が、見やすい筆文字でタタミ1畳より広い和紙に書いたように綺麗で達筆な漢字が並んでいます。

 私の第一印象は、「よくもまあ、自然石に、こんな沢山の文字が綺麗に彫れるものだなあ」、「江戸時代(元禄時代)の石工の技量の高さが実感、確認できる碑文だなあ」と言うものでした。文章で表現すれば、このような感じにしかなりませんが、興味ある方は是非実物をご覧願えないでしょうか。この山田山中大石碑銘は、先に紹介した川の中の碑文題目淵の碑文に比べ安全に散策コースとして行ける所ですから、お勧めします。

三つの碑文のまとめ
 私は、これまで石仏や五輪塔などの計測、拓本、写真撮影や写真CG加工などによって調査をしてきました。中には弥勒寺の不動明王上八龍の線刻石仏などタタミ1畳分を越す広さもありました。しかし、その大きな石仏を除けば、五輪塔などの比較的規模の小さな対象物でした。今回、山田の滝(山田神社)周辺にある三つの碑文は、大きさ含めて今までない特徴点が共通してありました。(下記は、三つの碑文が彫られた自然石の各写真、ただし、大きさ比較は縮尺が違うので参考にならない)

(通称)川の中の碑文(石の大きさ:推定高160cm位、横幅:約205cm、奥行き約190cm)建立:元禄13(1700)年8月19日

題目淵の碑文(石の大きさ:高さ約1m70cm、横幅約2m)建立:元禄13(1700)年9月19日
山田山中大石碑銘(石の大きさ:横幅約5m50cm、高さ約5m)建立:元禄14(1701)年8月18日

 これら三つの碑文の共通点をまとめてみますと、下記項目が挙げられると思います。
  (1)建立年が、元禄時代であること。
  (2)建立者が本経寺第8代住職の日迢(にっちょう)であること。
  (3)達筆で美しい碑文であること。
  (4)自然石に直接彫られていること。
  (5)高い石工技術によって造られていること。
  (6)五輪塔などに比べれば比較的大きな碑文であること。
  (7)日蓮宗に関係していること。

山田の人面石?
(鼻が高く、なかなかの男前)

 上記以外にも細かいことがあると思われますが、いずれにしても、この山田の滝(山田神社)周辺に集中して三つとも元禄時代に建立された碑文があることは当時の時代背景があることを物語っているとも思えます。逆に、他の時代に、他の地域(大村市内)に、この種の碑文が建立されていないので一際(ひときわ)違った感じさえもします。

  それらの要因は、史料や書籍などに書いていないので推測するしかありませんが、「当時の大村領は穏やかで財力があったのではないか」とか、「本経寺第8代住職の日迢を中心に碑文を造り、領主の繁栄や領民の幸福を祈る風潮があったのではないか」みたいなことが言えるような気がします。

 繰り返しになりますが、これらのことはあくまでも私の想像ですので、確信持って決定的なことが言えませんが、やはり当時の時代背景の反映があったとも思えます。もしかしたら先の推測と違っていたとしても、色々と先人の気持ちになって各自で思いめぐらすのもいいのではないでしょうか。

三つの碑文は史跡と同時に観光資源としても魅力あり

 この周辺は、江戸時代の(大村)郷村記にも「櫻花の欄慢、楓樹の紅葉する頃は、遠近の遊人群参して、詩を賦し歌を詠して美景を賞す」と記述され、春や秋には賑わったことが分かります。近代になっても1957(昭和32)年7月の大村大水害までは、市内有数の観光地でした。水害後の一時荒れましたが、現在は逆に渓谷美や深山幽谷の自然が楽しめる大村市内でも数少ない所と言えます。

 今回ご紹介した三つの碑文は、元禄時代から続く史跡としても、また観光資源としても魅力あるものと思えます。特に、山田山中大石碑銘や山田神社の境内周辺までは、安全に散策ついでに行ける所ですので、上諏訪町やレインボー道路沿いの近場に行かれた時に、立ち寄られたらいかがでしょうか。

 以上、このページでは、川の中の碑題目淵の碑文山田山中大石碑文の三つの碑文について述べてきました。色々と書いていましたら、けっこうな長文ページになってしまいました。その点は、ご容赦願います。これまで閲覧して頂いた皆様、大変ありがとうございました。  (ページ完了)

・関係ページ:
山田の滝  、 大村三滝物語   ・関係動画ページ:山田の滝 (大村市上諏訪町)

(初回掲
載日:2011年11月3日、第2次掲載日:11月5日、第3次掲載日:11月7日、第4次掲載日:11月9日、第5次掲載日:11月10日、第6次掲載日:11月11日、第7次掲載日:11月12日、第8次掲載日:11月13日、第9次掲載日:11月16日、第10次掲載日:11月17日、第11次掲載日:11月18日、第12次掲載日:11月19日、第13次掲載日:11月22日、第14次掲載日:11月23日)

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