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大村の記念碑、石碑や碑文

松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑

 概要紹介
掲載中
 1)記念碑の大きさと特徴などについて
掲載中
 2)記念碑の碑文ついて
掲載中
 3)記念碑の建立場所について
掲載中
 4)まとめ
掲載中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑(写真中央部の自然石) <大村市松原本町>

概要紹介
名称:松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑(まつばらはちまんじんじゃにある だいもく5000かい しょうわ きねんひ)
所在地:大村市松原本町、松原神社(本殿へ登る階段の左側北側
)
大きさ:高さ約198cm、横幅約122cm、周囲約260cm(右側写真参照)
建立年または題目唱和の年月日: 寛文8(1668)年 2月15日
建立者:法華宗(日蓮宗)の信者と推定

概要:大村市松原本町にある松原八幡神社の創建の正確な年代は不明です。しかし、「(鎌倉時代末期)1333年の江串三郎の旗に八幡神社の『錦の戸張』を用いた」との古記録があるので、これより相当早い年代には既に創建されていたと思われています。

 その後、戦国時代になり大村純忠の頃=天正2年(1574)、キリシタンによって松原八幡神社も破壊、略奪、焼打ちに遭って一時期なくなりました。しかし、江戸時代の寛永12年(1635)に大村・武部の丘(現裁判所横付近、現・東本町)に再興されました。その後、年代は不明ながら、現在地の松原でも再興されました。

 この神社の階段横に立っているのが、この松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑です。この記念碑は、一言で簡単にいえば「法華宗(日蓮宗)のお題目、南無妙法蓮華経を5000回唱えた」と言うことです。これは、あくまでも私が(2012年9月現在)調査した範囲内で、このような5000回もお題目を唱和し、さらにその記念碑まであるのは大村市内で唯一で長崎県内でも大変珍しいと推測しています。

1)記念碑の大きさと特徴などについて
 この記念碑石の材質は、大村のいたる所で見られる玄武岩質と思われます。材質が全体荒っぽくて、碑文の細かい字体などは、彫る時に慎重にしないと割れそうな感じとも思えます。また、拓本作業をしたら良く分かるのですが、凸面部に石の空間がある感じで、墨を付けても白っぽくなりやすいです。やや、拓本作業者泣かせの自然石とも言えます。

松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑の大きさ
 記念碑(本体)  高さ:約198cm  横幅:約122cm  周囲:約260cm
 土台石  高さ:約28cm   横幅:約150cm 、 奥行き:約130cm  周囲:約430cm

 記念碑下部にある土台の石ですが、本体部の高さ(上表参照)に比べ、低い造りになっています。ただし、本体部を支えるには充分に考えられた強度を持たせたものと思えます。建立当初から、現在地の場所で、さらには本殿に登る階段脇にあったままとするなら、この記念碑は相当目立っていたと推定されます。

 現在は、雨梅雨の影響もあり、上部左右側などは苔むし、石の風合いも周囲の景色と溶け合い、むしろ、ひっそりと落ち着いた感じにも見えます。

右側碑文の活字版
題目五千回唱和記念碑(拓本作業中)

2)記念碑の碑文について
 この松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑の碑文は、右側拓本写真及び左側活字版通りです。横書きに直したのは、次の太文字です。

奉唱満首題 寛文八戊申年 南無妙法蓮華経 為法界 五千部 二月十五日

注1:五千部とは、「5000回(編)」の意味と思われる。

注2:法界=「因果の理に支配される万有の総体。全宇宙。一切の現象の本質的な姿。真如(しんにょ)。実相」、首題=「経典の初めに書かれた語句。経の題名。首題名字(しゅだいみょうじ)」(国語辞典の大辞泉より)

・現代語訳
 上記の現代語訳は、次の<>内の太文字通りと思われます。 < 寛文8戊申(つちのえさる、ぼしん) (1668) 年2月15日に南無妙法蓮華経を法界(注2)のために5000回(編)唱和達成し、奉納した。 > (または先の年号は、
建立年とも思われる)

3)記念碑の建立場所について
  この項目の見出しを、より正確に書くなら「記念碑建立場所は当初から現在地だったのか、または他の場所から運び込まれたものなのか」と言う意味です。何分にも建立者などが彫られていないので、このような見出しになっています。

 あと、(明治政府による神仏分離令以降)現代人は、神社にこのような仏教記念碑があるのは違和感を持たれるかもしれません。実際、私も最初この記念碑を見た時、「南無妙法蓮華経」と彫られた日蓮宗のお題目の記念碑が、この神社に何故あるのだろう」と思いました。ただ、私は、福重にある石仏や、例えば今富町の高野権現弥勒寺町の熊野権現などを調査してきましたので、「あー、そうか、江戸時代はこれらの権現と松原八幡神社も同じようなものだったのだなあ」と直ぐに思い直しました。つまり、神仏習合(神仏混淆)(注)の経過が、ここにもあったと考えられます。

  (注)神仏習合=日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やその逆の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した。神仏混淆(国語辞典の大辞泉より)

 この神仏習合(神仏混淆)の件ですが、明治維新以前の千数百年間は、このようなことが当然続いていたようです。だから、神社や権現に仏像などが祭られているのは、当時の人々にとって自然なことでした。 ですから、今回のような仏教上の記念碑が、建立当初から神社にあってもおかしくはありません。

 松原、福重、竹松など地域の日蓮宗寺院は、妙宣寺です。妙宣寺の所在地は、当時の福重村矢上郷(現在の福重町)ですから、福重村の人が、この種の記念を建立する場合、この寺院周辺に建立されたでしょう。しかし、松原なら、やや距離感もあるので現在地に建てたのかもしれません。さらに、松原八幡神社の現在地での再興(再建)年が不明のため、もっと勝手に想像すれば、この記念碑自体も一の鳥居同様に大村・武部の丘から運びこまれた可能性も100%否定できないような気もします。

 先にも書いてます通り、何分にも建立者などが彫られていないので、このような色々な推測も成り立つと思われます。ただし、可能性として、記念碑の重量や大きさからして、やはり現在地建立説が説得力があり、この説が確率が高いような気がします。仮にそうなれば、この松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑は、次に松原八幡神社の現在地での再興(再建)年との関係も出てくる可能性もあり、様々なことが考えさせられます。

まとめ
 今回、様々な視点から、この松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑を考えてきました。特に、建立年や建立場所は、今後も他の歴史事項と関係あるか、または影響を与えるかもしれません。ただし、現時点では、これ以上の推測などはしない方がいいとも思っています。

 むしろ、このページで触れなければならないのは、江戸時代、日蓮宗の題目5000回唱和記念碑があると言う事実です。このような5000回の記念碑の存在は、たぶんに大村市内では唯一と思われます。また、長崎県内でも大変珍しいのではないでしょうか。あと、全国でも
1000回の記念碑は、(ホームページ調べで)けっこうあるようですが、5000回の記念碑としては私が閲覧した範囲内ではないようです。

 本来、題目唱和の回数を競うものではないでしょうが、それにしても、この大村の地で、この種の記念碑があると言うことは、この一例だけでなく他地域でも存在していても、おかしくないと思われます。たぶんに碑文が岩苔や汚れなどで見れない状況にあって確認できていない例もあるような気もしています。今後、何かの情報提供も、お願いします。

関係ページ:
関係ページ:松原八幡神社の鳥居の碑文 、 松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基) 、 松原八幡神社、嘉永六年の石灯籠 、 大村藩領絵図 、 (大村)郷村記

(初回掲
載日:2012年10月11日、第2次掲載日:10月12日、第3次掲載日:10月13日、第4次掲載日:10月17日、第5次掲載日:10月19日)

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