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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基)
 概要紹介
掲載中
 石灯籠の大きさ
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 石灯籠の碑文
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 石灯籠と碑文の評価
準備中
 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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松原八幡神社(鳥居両脇の石灯籠2基に注目)

概要紹介
 
松原八幡神社には、江戸時代に建立された石灯籠が、大きいのが2基、小さいのが1基あります。このページで紹介していくのは、一の鳥居の両脇にある大きい方です。右側写真に鳥居(詳細は、松原八幡神社の鳥居の碑文ページ参照)とともに、その左右に大きな石灯籠も写っています。

  この石灯籠の建立者は、当時、松原村(現在の大村市松原地区)の人達がほとんどです。2基の石灯籠碑文には、合計49名の名前が彫ってあります。この名前の中には、寄進者とともに金具屋などの業者名もあります。

 建立年月日は、2基の石灯籠とも享和二(1802)年8月です。(注:享和年間は、
江戸後期頃の元号で1801年2月5日〜1804年2月11日である) 左右の石灯籠とも高さが、約260cmあり、大きさはほとんど同じです。大村市内で建立年が判明している江戸時代の石灯籠としては、最大級のものと思われます。

石灯籠の大きさ
 松原八幡神社、一の鳥居前(両側2基の石灯籠)は、両方とも大きさは同様のため下表の数値通りです。この高さ約2m60cmの大きな石灯籠は、大村市内、江戸時代建立のものとしては最大級ではないでしょうか。石の質も、かなり良質です。

松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基)の大きさ
 石灯籠全体  高さ:260cm  横幅:77cm  胴回り:250cm
 碑文面のある部分  高さ:96cm  横幅:32cm  周囲:126cm

 この大きさは、一の鳥居の大きさからすれば、見た目やや大きい感じのする石灯籠です。逆に、例えば明かり用としてローソクを立てる部分は、高さがある分、作業しやすいとも推測しました。あと、歴史研究からは脱線しますが、何故こんなに高さのある大きい石灯籠にしたのかと言いますと、たぶんに建立当時、松原の方々の心意気を表して、このようなサイズになったのかなあとも想像しました。

石灯籠の碑文
 まず、2基ある石灯籠の碑文を拓本作業実施後、活字にしてGIF画像化しました。そして、その画像2枚を掲載しながら、文字の横書き直しや、現代語訳をこれからしていきます。本来は2枚一緒に表示できるようにすべきでしょうが、画像加工とページレイアウトの関係上、二つに分けています。

右側石灯籠の碑文について
 
右側にある背景色が水色の活字版画像を参照願います。縦書きの活字版を、横書きに直したのが、次の太文字です。

(正面)  奉寄進 伊東九郎助 福田亀太郎 好太郎 金蔵 仁七 初次郎 喜兵衛 福左エ門 林次郎 市兵衛 榮助 福次郎
(北面)  享和二壬戌年 八月吉日良辰 宮代 初次郎 末次郎 伊右エ門 房五郎 平次郎 松次郎 末松 寅五郎 箋次郎 助太郎 亀蔵 富次郎
(東面)  朝長貞助 今山仙五郎
(注:福左エ門などの“エ”は「衛」の省略で本当は「福左衛門」と思われるが碑文の原文のままとした)


上記の現代語訳

  上記の太文字を現代語訳したのが、次の<>内です。  (松原八幡神社へ)奉って(石灯籠を)寄付する。(石灯籠を奉納する) 享和二壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)(1802)年8月の縁起の良い日に建立した。 (氏名部分は上記と全て同じなので省略した) 

 なお、系図まで調べていないが、「伊東九郎助」は、松原で有名な伊東家のご先祖と思われます。 また、「宮代 初次郎」は、松原八幡神社の氏子(うじこ)総代(この場合、松原八幡神社を祭る人達の氏子団体の総代表と言う意味)と思われます。

 あと、名字帯刀(名字を名のり、太刀を帯びること。江戸時代は武士の特権であったが、のち、特に家柄や功労によって庶民に対しても許された。国語辞典の大辞泉より)が、許されていたのは武士などでしたから、上記や下記のフルネームになっている人は、松原に在住していた大村藩の武(さむらい)だったと思われます。


 念のため、左右2基の石灯籠は、当然のことながら両方とも一緒に制作されたので建立年月日=「享和二壬戌年 八月吉日良辰
(1802)年8月の縁起の良い日に建立した)は同じです。ただし、上記、下記の碑文や現代語訳は、別々に同じことを書いていますので、ご了承願います。

左側石灯籠の碑文について
  左側にある背景色が黄色の活字版画像を参照願います。縦書きの活字版を、横書きに直したのが、次の太文字です。

(正面)  奉寄進 佐藤勝次郎 田崎惣七  金具屋 卯助 同 忠三郎 同 兼五郎 中嶋小太郎  孫四郎 忠左エ門 音次郎 千次郎 熊七 金次郎
(南面)  享和二壬戌年 八月吉日良辰 安吉 又五郎 幸吉 末五郎 駒太郎 秀右エ門 権太郎 音五郎 藤次郎 庄市 九郎丸 寅五郎
(注:忠左エ門などの“エ”は「衛」の省略で本当は「忠左衛門」と思われるが碑文の原文のままとした)

上記の現代語訳
 上記の太文字を現代語訳したのが、次の<>内です。  (松原八幡神社へ)奉って(石灯籠を)寄付する。(石灯籠を奉納する) 享和二壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)(1802)年8月の縁起の良い日に建立した。 (氏名部分は上記と全て同じなので省略) 

 「金具屋 卯助 同 忠三郎 同 兼五郎」と、3名も金具屋となっていますが、たぶんに同業者仲間ではないかと思われます。また、松原は江戸時代以前から現在も鍛冶屋があります。(一時期、何軒もあった)。江戸時代に鍛冶屋のことを全て金具屋と呼んでいたのか、どうか調べきれていません。

 「九郎丸 寅五郎」は、当時の竹松村九郎丸郷の人と思われます。地名入りの者は唯一この人だけなので、そこから推測すれば2基の石灯籠に彫り込まれた他の全て人名は、松原村在住の寄付者と判断できます。

石灯籠と碑文の評価
 この2基の石灯籠は、(松原の)伊東氏の名前などから推測して移転前の武部の丘時代ではなく、(再興後=)現在地の松原で建立されたものと考えられます。あと、あくまでも一般的なことながら、石燈籠の建立目的は、本殿の創建・立て替え・改築などを記念して建立される例が多いです。このことを考慮すれば、この2基の石灯籠も、その慣例を考慮に入れても良いのではないかと思われます。

 ただし、この場合、江戸時代の古記録(大村)郷村記との相互検証が必要になってきます。しかし、(大村)郷村記には、たいていの神社仏閣の場合、再興(再建)、改築などについて記録されているのですが、松原八幡神社の項目では一部を除き記述されていないようです。そのため、仮に、享和二(1802)年に例えば改築があったのか、はたまた何か特別な事柄があったのか分かりづらいものです。

松原八幡神社(鳥居両脇の石灯籠2基)

 ただ、(大村)郷村記には、この2基の石灯籠が建立される2年前=寛政12年(1800)に、神社の例祭に家老が代参したと記述されています。この家老の代参に深い意味があるか、ないかについてですが、これは戦国時代頃(キリシタンから焼き打つに遭うまで)に大村氏が年々参ったことに由来しているようですが、それ以外は不明です。

 江戸時代になって寛政12年(1800)のみ「家老が代参した」と、わざわざ記述してあるのは、気にはなるのですが、その意味までは分かりませんでした。あと、この石灯籠の碑文を見て明確に分かるのは、先に書いていますので繰り返しになりますが、建立者の名前からして、この石灯籠は松原(現在地)で再興(再建)された後であることは間違いないでしょう。

 しかも、高さ約2m60cmの大きな石灯籠は、大村市内、江戸時代建立のものとしては最大級ではないだろうかということです。石の質も、大村周辺にあったものとの前提に立てば、かなり良質です。 石工の名前は彫ってありませんが、彫り方や文字の綺麗さなどからして、なかなかの腕前だったと推測されます。

まとめ
 この松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基)の拓本作業は、松原の方からの依頼がきっかけでした。その脇にある一の鳥居の拓本作業は、既に2009年6年14日におこない、その碑文の分析は『松原八幡神社の鳥居の碑文』<寛文6(1666)年建立>として掲載中です。この鳥居は、何回か書いた通り、碑文に「彼杵本町」などが彫りこまれている関係上、大村・武部の丘時代のものと思われることを推測しています。

 そして、今回の松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基)<享和二(1802)年8月)建立>は、先の項目で詳細に書いた通り、松原(現在地)で建立されたものです。つまり、かなり年代幅は広いですが、松原八幡神社は1666年から1802年の間に現在地で再興(再建)されたと言うことは、ほぼ間違いないことでしょう。

 大村市内で名だたる松原八幡神社の再興(再建)された事柄が、(大村)郷村記に記述されていないこと、また、大村藩領絵図に描かれていないことなどから、様々な疑問も浮かんできました。特に、大村藩領絵図は従来説よりも、もっと古い年代の大村の姿を写しているのではないかと言うことです。

 先の大村藩領絵図従来説は、今回の石灯籠の建立(1802年)と、ほぼ同じ頃ですから、上記2事例から一般的な通例から考えて推測すれば、松原八幡神社の再興(再建)された年代は、最低でも50年以上古く、さらに言えば大村藩領絵図は、それよりももっと古いものと言えるでしょう。しかし、歴史事項は推測・想像だけで語れないことも、私でも重々承知しています。「何か、もう一つ史料があればなあ」とも思っています。

 これだけ名のある松原八幡神社のことですから、いずれ何か古記録などが見つかるかもしれません。そうなれば、現在地での再興(再建)された年代、さらには大村藩領絵図の作成時期の従来説を変える新たな史料になると思われます。そして既に何回か書きました通り、(大村)郷村記より大村藩領絵図の方が相当古く、さらに言えば史料(資料)的にも精度が高い古記録であることが言えるでしょう。

  この松原八幡神社、享和二年の石灯籠(2基)のことから、(大村)郷村記
大村藩領絵図の方まで話は飛躍してしまいました。ただ、歴史事項は単独で存在しているのではなく、色々な事柄から分かって来る場合もああるのではと考えています。この石灯籠の紹介ページが、何かの解明につながる一助になればなあとも思っています。

関係ページ:
関係ページ:松原八幡神社の鳥居の碑文 、松原八幡神社にある題目五千回唱和記念碑 大村藩領絵図 、(大村)郷村

(初回掲
載日:2012年10月27日、第2次掲載日:10月29日、第3次掲載日:11月1日、第4次掲載日:11月3日、第5次掲載日:11月7日、第6次掲載日:11月8日)

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