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大村の歴史
 大切間(おおぎりま。おおきりま)
(写真1) <先人の知恵、分水を公平に分ける井堰>大切間(大村市野岳町) 写真右上は県道。直ぐ上に「大切間」バス停あり
(写真2) 上流側から見た大切間(右側は市道) (写真3) 上流側から見た大切間(右側は市、写真奥側は大村湾)
名称:大切間(おおぎりま、おおきりま)
所在地:大村市野岳町(県道にある「大切間」バス停から数十メートル下流側)
目的:4カ所の分水口から耕作地(水田)の広さに応じて水を分ける井堰(いせき)
 注:(写真1)に写るのが新しい方。この直ぐ下流部に古いのがある。

(写真4) 県道脇にあるバス停「大切間
 (写真5) 大切間分水口から各用水路川へ下る
用語解説>(デジタル大辞泉の解説による)
井堰(いせき)=水を他へ引いたり流量を調節したりするため、川水をせきとめる所。せき。い。
井手(いで)=田の用水として、水の流れをせき止めてためてある所。井堰 (いせき) 
用水路(ようすいろ)=農業用、工業用、上水道用などの水を取り入れるための水路。
分水(ぶんすい)=水の流れが分かれること。また、川の流れを分けること。
------(下記は上野調べ)------
 石走川(いしばしりがわ)この川は2本の流路がある。その主流は弥勒寺町にある熊野権現の東側に源流部(「清水の線刻石仏」の所)があり、そこから弥勒寺町、皆同町、福重町を流れ福重町の字
(あざ)石走」で次の支流と合流する。もう1本が、この大切間を事実上の源として野岳町、草場町、福重町の字(あざ)「石走」で主流と合流する。そして、その合流地点から、さらに草場町を経て松原小学校の南東部で草場町に源流がある馬籠川、その下流は染谷川とも合流して大村湾に流れ込んでいる。なお、石走川(いしばしりがわ)のことを通称「よし川」とも言う。

概要紹介

 大切間
(おおぎりま、おおきりま)とは、井手(用水路)の水を、耕作地(面積)に応じて分水口によって大きく供給量を切り分けている井堰(いせき)の意味であろう。

 この井堰大切間が、いつの年代にできたのかの詳細は、不明だ。しかし、野岳大ため池(野岳湖)が寛文3(1663)年3月3日に完成して、さらに各井手(用水路)も整備されていると推測されるので遅くても、この年代頃には、既に大切間は整備拡充されて存在していたと思われる。

 (写真1、5)の通り、4カ所の分水口によって水が分けられている。ここで上野の仮称ながら写真左端側を「分水口その1」として、右側へ順に「その2」、「その3」「その4」と呼ぶ。
(この分水口の個別紹介は後の項目で紹介)

 この大切間の井堰部分は、(写真2)の通り、変形の2等編三角形をしている。目測ながら長さが約11.5m、最大幅(分水口の所)が約3m50cmである。水深は、当然上流からの水量によって違うが撮影日(2023年 月 日)は約30cmだった。

 改めて、今も昔も耕作地
(特に水田)の作物にとって水は必要不可欠である。また、それらを育てる農家にとって水供給量は、死活問題ともなりうるほど大事である。この大切間は、分水口の幅によって水量を決め、下流側の耕作地に公平に流す先人の知恵ともいえる井堰である。

分水口の横幅や、分かれて各用水路や川へ下る場所
 まず、(写真1と5)を参照願う。この大切間の井堰には、分水口が大小4ヶ所あるようだ。そして、そこから各用水路(井手)や川に流れ下っている。念のため、大切間関係の水利組合の方々なら、正確に分水口からの耕作地のことを話されると思われる。しかし、地元の者でない上野は、下記内容以上に調べていないので、あくまでも、ご参考程度に閲覧願いたい。

 あと、上野調べで仮称ながら先の写真通り、下流側から見て左側=右岸(逆に上流側なら右側)から、「分水口その1」「分水口その2」「分水口その3」「分水口その4」があると思われる。また、私の目測ながら、その個別の横幅と、どこに分水口から流れているかを下記の通り、まとめた。

(写真5) 大切間の分水口から各用水路や川へ下る
分水口その1-----横幅約50cm。野岳町の北西部方向の広い耕作地(水田)に流れている。

分水口その2
-----横幅約2m。下流で石走川(通称「よし川」)の源流部にあたる。その間、いく筋か井手(用水路)として、あるいは石走川として野岳町、弥勒寺町、草場町、福重町など、かなり広い耕作地(水田)に流れている。そのため、分水口が4ヶ所の内、最大の横幅である。

分水口その3-----横幅約80cm。この分水口から県道側の10ほどの水田に流れているようだ。

分水口その4
-----横幅約15cm。この分水口は上記「その3」と違うが、同じ県道側の斜面にある数枚の水田に流れているようだ。そのため、分水口が4ヶ所の内、最小の横幅である。

先人の知恵など
 この大切間と同じ大きさ、形、仕組みや目的ではないものの全国に、有名な例えば山梨県北杜市長坂町にある「
三分一湧水(さんぶいちゆうすい)」、あるいは千葉県東金市にある「両総用水円筒分水工」なども含めて、水を分ける所が沢山あります。しかも、その目的として、たいてい、「水を公平に分けるため」なとと説明されています。

(写真6) 大切間の分水口から各用水路や川へ下る
 改めて何故、下流側に「水を公平に分けるため」に様々な設備や装置を大昔から人々は、造ってきたのでしょうか? それは、飲み水として、また耕作地(水田や畑など)で、水は絶対必要だったし、そのことで水争いなども起こったこともあるからでしょう。

 とりわけ、大量に水が必要な水田の場合、水が充分あるか、どうかは、稲の生育に影響を与え、さらには米(コメ)の収穫高に直結します。また、米(コメ)は、食料、収入、納税などができるか、できないか、いわば農業者などにとって死活問題であったことは、大昔も現在も同じといえます。だからこそ、先人達は、水争いをするより、お互いに知恵を出し合い、下流側に「水を公平に分けるため」に様々な設備や装置を造ってきたのでしょう。

大昔からの均等分水の知識
 
ここで改めて、水の性質や大昔からの分水知識を考えてみたいです。まず、ご参考までに、上記項目の全国で有名な分水箇所をはじめ、この大村市内でも大切間みたいに分水口が多くなくても、2カ所程度なら昔からある井手(用水路)の取水口や泉には、何ヶ所もあるようです。改めて、何故このような均等分水が、可能なのでしょうか? 

(写真2) 上流側から見た大切間(右側は市道)
 それは、水そのもの性質にあるからといえます。水を使った言葉で「水平」(「静かな水面のように平らなこと」大辞泉の解説より)、「水準」、計器として「水準器」もあります。この用語で分かることは、水は、どの広さ・大きさも関係なく表面は水平を保つような性質があるということです。

 分かりやすい例として、水やジュースなどを飲むための普通のコップから、長崎県最大の湖の野岳湖
(極めて広い海も含めて)水の表面は広さに関係なく水平になっています。そして、この水の性質を利用すれば、たとえ何十ヶ所でも分けようと思えば、その数だけ分水口を造るだけでしょう。このようにして造られているのが、昔からある井堰や分水口といえます。

 また、このような設備を造ってきた日本人は、科学的とか数学的な数値以前より、数多い経験により全国でも大村市内でも、上手に水を下流側に等分に分ける知識を持っておられたからこそ、均等分水の長い歴史があるといえるでしょう。


・大切間の横幅も水量も違う分水口は珍しい
 大村市内で井手(用水路)の分水口で、水量を2等分している所はあるようだ。また、既に先に書いた通り、全国には、例えば3等分に配分された三分一湧水(さんぶいちゆうすい)」、あるいは、それ以上の分水口を持つ井堰などもあるかもしれない。しかし、その分水(配分)は、等分幅で、等分量の形式が多いようだ。

(写真6) 大切間の分水口から各用水路や川へ下る
大切間の分水口は4ヶ所とも幅も水量も違うのは珍しい
 しかし、この大切間の分水口は、上野調べで4ヶ所とも全部幅も水量も違う形式になっている。(写真1、5、6)の通り、上流側から見れば右側から、下流から見れば左側から仮称ながら「分水口その1」(幅約50cm)、「分水口その2」(約2m)、「分水口その3」(約80cm)「分水口その4」(約20cm)がある。先の( )内通り全部、横幅も違うので下流へ下る水量も違う。これは、下流側の耕作地面積に応じた水量にするために分けた形式と思われる。

 私は、市内も全国例も当然、全部を調べきれていないが、このように等分の水量の分水口とせず、耕作地別に水量を違えて分けているのは、けっこう珍しいと想像している。また、この井堰を造った当時は、「1分間で何リットル」と測れる水量計などが無かったので、先人達は経験によって分水口の横幅や水量を決めたのであろう。現在見たら、大切間の井堰も各分水口もシンプルの造りだが、ここまで至るには、先人の長年の知恵があったからとも考えられる。

あとがき
 


(初回掲載日:2023年8月12日、第2次掲載日:8月14日、第3次掲載日:8月20日、第4次掲載日:8月26日、第5次掲載日:9月6日第6次掲載日:9月17日第7次掲載日:9月20日、第8次掲載日:9月27日
参考資料(史料) 大村藩領絵図 大村郷村記
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