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清水の線刻石仏(CG写真)
清水の線刻石仏(CG写真)

清水の線刻石仏(岩場と拓本作業中写真)



(1)石仏名称  清水の線刻石仏
(2)所在地  大村市弥勒寺町、弥勒寺公民館から東側へ約200m
(3)石全体の大きさ  岩壁全体、高さ2m90cm、横幅16m70cm
(4)仏様(線刻模様)の大きさ  高さ74cm、横幅56cm
(5)制作年代  諸説あるが正確には不明(中世時代との説もある)
(6)主な特徴  納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した形(注)
(7)特徴点の補足  ・光背(こうはい)の模様線はない。 ・蓮華座(れんげざ)の模様線はない。
感想、その他  福重地区に、ほぼ同種の線刻石仏が従来から12体あるが、清水の線刻石仏も基本形は同じである。つまり、この石仏の主な特徴も、「納衣(のうえ)の下で拱手(きょうしゅ)した姿」である。(注)(「納衣」と「拱手」の用語解説はページ最下段を参照) 

 この石仏についての古記録や近代・現代発行の記録類が全くないため、ここからは私の個人的な推測である。清水の線刻石仏は、他の同種の線刻石仏対比で、その模様線が幅広く、粗いと思われる。また、この線刻線はタガネもしくは、それに近い物で彫られたものではないかと思われる。制作年代は、その模様線の形状からして中世時代の後期ではないだろうか。

 清水の線刻石仏は、その名の通り、清水が岩壁から年中湧き出ている。そのため、目視自体も分かりにくいし、ましてやCG加工も出来るような写真の精密撮影や拓本作業は、通常の場合、難しい場所でもある。そのため、石仏発見後、詳細調査の機会に恵まれず、その発表まで5年間もかかった。(この件は、後の項目を参照)

 この石仏の直ぐ横(西側)には、通称で「観音様」とか「安産の神様」と呼ばれている所である。昔は、安産を願う福重の人々が、お参りされた場所とも言われてきた場所でもある。

<この石仏の発見と、発表に至る経過>
 清水の線刻石仏の発見と発表に至る経過については、他の石仏と全く違った状況と経過があったので、このページに記しておきたい。
・発見までの経過
 まず、この石仏発見までの経過(概要)を箇条書き風に書くと、次の(1)〜(5)である。
(1)2009年3月15日、弥勒寺町内会主催行事として、上野が講師で弥勒寺公民館において「弥勒寺の石仏」と言うテーマで郷土史講演会をおこなった。(この講演会概要は、ここからご覧下さい)

(2)講演会終了後、福重郷土史同好会の増元と上野の案内で弥勒寺町内の石仏を中心とした史跡巡りをおこなった。
(3)当初予定の史跡巡り終了後、さらに「昔から安産の神様(観音様)があると言う字(あざ)清水周辺にも希望者だけで行ってみよう」となった。

(4)10名弱で「安産の神様」見学に行ったとろ、その観音様の手前側に大きな岩場があり、そこに清水の線刻石仏が彫ってあった。ただし、当時は、水の滴りで判読が難しく、ほぼ全員「線刻石仏は二体ある」と言っていた。そして、その後の詳細調査は、上野に任された。
(5)発見後も、上野は2009年に何回か見たが、私の目には「二体」ではなく、一体に見えていたので、福重郷土史同好会の例会などでは、「清水の線刻石仏は一体と思う」と報告していた。

上の写真は2009年8月6日の調査中に撮影したもの。中央部の人物先の岩壁に清水の線刻石仏はある
清水の線刻石仏(CG写真)

・詳細調査と発表に至る経過
 上記通り、清水の線刻石仏の発見は、2009年3月15日である。しかし、詳細調査が2014年5月9日まで遅れ、さらに、その後のCG作業に期間を要し、やっと2015年5月25日に報告書の発表ができた。これだけ遅れたのには理由があり、それを列記すると下記の(1)〜(4)である。

(1)清水の線刻石仏上部の岩の間から常時、水が滴り落ちているため、拓本作業が出来なかった。

(2)拓本作業が不可能ならば精密デジタル写真撮影後にCG加工すれば良いのだが、それも上記(1)と同じ理由で、水がほぼ全面にしみているので、その部分が写真上で光ってしまって石仏の模様線が判読できるようには写らなかった。

(3)天気(乾燥)続きのため、岩場の水が90%くらい乾いた状態になり、やっと2014年5月9日に拓本作業もCG加工用の精密写真撮影も出来た。しかし、これまでの線刻石仏にないくらいに石仏の模様線なのか、または石自体の自然な窪あるいは割れ目なのか見極めるためにCG加工作業期間がかかった。

(4)福重地区には、ほぼ同種の線刻石仏が清水の線刻石仏含めて合計13体ある。今回の清水の線刻石仏報告書は、そのまとめ的な意味も一部分あって、石仏のCGや拓本写真含めた8ページの手作り冊子を2015年5月25日に発表、公表できた。

 あと、線刻石仏の詳細調査や報告書についての補足的な意見である。線刻石仏は拓本作業を実施すれば、その概要は分かる。しかし、詳細なこと(全ての模様線など)まで判明するとは限らない。なぜなら、拓本作業で写しとった線の中には、石自体の自然な割れ目や窪みまで表現されるからである。

 その何の線でも写しとった状態(拓本)は、かえって石仏の模様線を判読するのに邪魔する場合もある。今回の清水の線刻石仏は、その点が大きい石(岩場)だった。反面、CGによる模様線は、加工作業時に「石の自然の割れ目などか、線刻の模様か?」の見極めは難しいが、CG線(石仏の模様線のみ)が鮮明に見える長所もある。

<補足>
清水の線刻石仏の評価と意義
 これから書くことは、この清水の線刻石仏一体だけでの積極的な意義や評価は書きにくい。そのため、福重にある同種の合計13体の線刻石仏と併せてまとめてみたい。その前に、福重の石仏を調査され、仏像・仏画に造詣の深い二人の先生から福重の線刻石仏について、「大分県以外で、これだけまとまって石仏を見たのは初めてでした」との言葉も紹介しておきたい。

清水の線刻石仏(岩場と拓本作業中写真)

(1)今回の清水の線刻石仏含めて、福重にある同種の合計13体の線刻石仏は、全国でも九州でも狭い地域(弥勒寺町と福重町)に、これだけの数が存在するのは珍しいことである。

(2) これまでの書籍類に掲載されていた線刻石仏は、既に調査・研究もされているが、さらに今回の清水の線刻石仏が加わったことで、今まで謎の多い線刻石仏研究に一つの材料(史料)を提供するものではないかと思われる。

(3)福重地区の地域起こし団体や各町内会で2012年度から史跡説明板の設置事業が進んでいる。(2015年5月現在、合計8基の説明板あり。ただし、大村市教育委員会設置の説明板は数に含めていない) 線刻石仏の史跡説明板に関しても、次の2体「上八龍の線刻石仏(現在は弥勒寺町公民館の東側)」、「下八龍の線刻石仏(弥勒寺町・シュシュの駐車場脇)」と併せて「線刻不動明王像(弥勒寺町公民館敷地内)」は、既に設置済みである。

 このように、石仏なども史跡巡りやウォーキング時の目標物・対象物になっている。また、福重小学校の総合学習や遠足のコースにもなっている。今回の石仏の場合、今後、土地所有者や弥勒寺町町内会の賛同が頂けるならば、同じ場所にある安産の神様(観音様)と併せ今回の清水の線刻石仏も、観光資源的な可能性があるとも思える。

(注):納衣(のうえ)は粗末な衣類のことでボロ布で作った僧侶用の袈裟である。拱手(きょうしゅ)は中国式敬礼。「納衣の下で拱手した姿」は最上段のCG写真でも分かる通り、衣の下で両手で拝んでいる格好のことである。この姿が仏の何と言う種類か、2015年現在で専門家でも分かっていない。これを私達福重郷土史同好会では「福重の石仏 最大の謎」とも呼んでいる。大村市福重地区には同種の線刻石仏が合計13体ある。この件は、さらに継続、調査中である。

下記は関係ページ
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