福重の石仏(線刻石仏) 最大の謎 (仮説)神仏習合像の可能性も? |
はじめに | |
・見出しについて | |
・ 従来説(大村への仏教伝播、古い寺院と石仏建立は中世時代説)は間違い | |
・福重の石仏数について | |
・最大の謎、石仏の種類は? | |
福重の線刻石仏(14体)の疑問点 | |
・「歴史を現代に生かす」には何が必要なのか | |
分かる範囲内でデータベース化も必要 | |
用語解説(一部) | |
福重の石仏関係年表(郡地区の寺院創建や大村への仏教伝年代も関係あり) | |
1)石仏と線刻石仏とは何か | |
2)CG写真で見る福重の線刻石仏の特徴 | |
・線刻石仏6体のCG写真 | |
・ 胸から腹部にかけての線刻模様にご注目を | |
<共通している線刻模様> | |
<共通していない線刻模様> | |
3)福重の線刻石仏、最大の謎とは | |
(1)全国にあまり例がない石仏ではないか? | |
(2)この種類は何なのか? | |
(3)なぜ福重に集中しているのか? | |
・地名からも考えて | |
4)様々な説、(仮説)神仏習合像の可能性も? | |
・福重の線刻石仏について寄せられた意見の集約 | |
・仏像、神像、神仏習合像の補足 | |
・神仏習合についての大村の特徴 | |
・ 様々な説から神仏習合像の可能性もあるのではないか | |
まとめ |
はじめに
最初に、「福重の石仏」の表現について、ご注意をお願いします。この福重の石仏群については、専門家の方々でも意見が分かれ、数多い仏像の何の種類になるのか正確には不明なため、地元でも様々な名称を用いています。今後の研究によって、いずれ仏像、神像あるいは神仏習合像の可能性もありますが、この件についての詳細は後で書いていきます。
ただし、私は郡七山十坊の寺院全てが奈良時代などに創建されたと言っている訳ではありません。大村への仏教伝播や、いくつかの仏教寺院が奈良時代頃より創建していて、その後は徐々に増えていかない限り、先の例に挙げた経筒や単体仏あるいは先生によっては上八龍の線刻石仏などの建立年代の説明が出来ないと思われるからです。 今回のメインテーマである線刻石仏についても、上記表現をより正確に書きますと、「上八龍の線刻石仏を始め数体は平安末期頃の建立で、それ以外の残り10体位は鎌倉・室町時代の建立である」ということです。ですから、従来説の全否定ではなく「”線刻石仏は全て中世時代”と言われてきた従来説は間違いであって、14体の線刻石仏の内、数体はもっと古くて平安末期頃の建立もありうる」と言うのが、より正しい表現です。
これらの中には戦国時代の1574(天正2)年、宣教師の度重なる要請で大村純忠が許可し、当時のキリシタンが神社仏閣の焼打ち、破壊、略奪の限りをつくし、さらには僧侶の阿乗などの殺害までおこなった時に損傷・破壊された石仏も極一部含めています。このキリシタンによる激しい破壊攻撃から、かろうじて難を逃れた石仏もありますが、中には「同じ人間が、これほどまでに石仏を壊すのか」と思えるようなヒドイ壊され方をした単体仏などもあります。
・最大の謎、石仏の種類は?
なお、上表には今後も追加掲載あるいは改訂も考えています。また、上表の疑問点は、今回シリーズのメインテーマですから、過不足は別としても私なりの答えは書いていこうと思っています。それらについて、閲覧されている皆様から異論、反対論さらには改訂意見があったとしても大いに歓迎いたします。この点も、どうかよろしくお願い致します。
・「歴史を現代に生かす」には何が必要なのか つまり、学んだ歴史を現代にどう生かすかと言うのが、元々の歴史や郷土史研究の本筋ではないだろうかとも考えています。いくら素晴らしい遺跡や遺物を発掘し論文発表をされても、その後の保存措置を取られなかったため道路・住宅建設などで次々と破壊されていった例もあります。
伝承のまとめだけでなく、先人が遺跡、遺物、石仏、碑文や古文書など残して下さっている事項は、当然保存も同時に不可欠とも思えます。市内に多く埋もれている史跡などの基礎的データ調査も保存措置の具体化もしなければ何のため「歴史観光立市」(=大村市総合計画の表現の一つ)と言うのでしょうか。何十年間も判子で押したような同じような史跡を観光ポスター・チラシ・パンフレット類に掲載するのが、果たして「歴史観光立市」に繋がるのでしょうか。まだ、手つかずの史跡を具体的に生かしてこそ、多くの方々の関心が向くのではないでしょうか。 今回の「福重の石仏、最大の謎 (仮説)神仏習合像では?」ページも、上記の立場で作成しています。賛成、反対、異論などは大いにあることは予想しています。ホームページの良いところは、印刷物に比べ訂正も容易にできるところです。解釈や文章が間違っていれば直してもいきたいと考えています。 |
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用語解説(一部) 仏像、線刻石仏に関係する用語を下記に注釈として掲載しています。これらの用語は、国語辞典『大辞泉』、大村史談会発行『大村史談』などを引用、参照して書きました。なお、仏像の種類や関係する用語は、本当にたくさんありますので下記に掲載していますのは、ほんの一部であることをご了承願います。 なお、行は詰めたものにすべきですが、そでは非常にみにくいですので、何行かごとに見やすいように改行しています。それ以外に改行の意味は特にありません。(順不同) ・仏像(ぶつぞう)=礼拝の対象として製作された仏の彫像・画像。多く彫像をいう。釈迦(しゃか)仏以外の諸尊仏の像もさす。 ・線刻石仏(せんこくせきぶつ)=石の表面に線で仏像を彫ったもの。 ・釈迦如来(しゃかにょらい)=釈迦牟尼(むに)の尊称。 ・如来(にょらい)=真理に到達した人。仏陀をいう。仏の十号の一。「釈迦(しゃか)如来」 ・阿弥陀仏(あみだぶつ)=西方浄土の教主。すべての衆生を救おうと48の誓いを立てた仏。浄土宗・浄土真宗では本尊とし、念仏による極楽往生を説く。弥陀。阿弥陀。阿弥陀如来。 ・薬師如来(やくしにょらい)=東方浄瑠璃(じょうるり)世界の教主。12の大願を立てて、人々の病患を救うとともに悟りに導くことを誓った仏。古来、医薬の仏として信仰される。像は通例、右手に施無畏印(せむいいん)を結び、左手に薬壺(やっこ)を持つ。脇侍(きょうじ)に日光菩薩と月光菩薩、眷属(けんぞく)として十二神将が配される。薬師瑠璃光如来。薬師仏。 ・盧遮那仏(るしゃなぶつ)=毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の略=大乗仏教で、蓮華蔵(れんげぞう)世界に住し、その身は法界に遍満し、身光・智光の大光明で全宇宙を照らす仏。真言宗では大日如来、天台宗では法身仏、華厳宗では報身仏をさす。盧舎那仏。遮那仏。毘盧遮那。 ・大日如来(だいにちにょらい)=真言密教の教主。宇宙の実相を仏格化した根本仏。像は宝冠をつけ結髪した菩薩(ぼさつ)形に表される。曼荼羅(まんだら)では主座を占め、智の面を示す金剛界では智拳印(ちけんいん)、理の面を示す胎蔵界では法界定印(ほっかいじょういん)を結ぶ。遍照如来。毘盧遮那。 ・神仏習合(しんぶつしゅうごう)=日本固有の神の信仰と外来の仏教信仰とを融合・調和するために唱えられた教説。奈良時代、神社に付属して神宮寺が建てられ、平安時代以降、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)やその逆の反本地垂迹説などが起こり、明治政府の神仏分離政策まで人々の間に広く浸透した。神仏混淆。 ・神仏混淆(しんぶつこんこう)=<注:・神仏習合と同意語> ・神仏混合(しんぶつこんごう)=注:本来、専門用語でも国語辞典にもない言葉と思われる。神仏習合や神仏混淆の言葉が漢字の難しさや意味の分かりにくさから、より素人向きに分かりやすい表現として一般で使用されている思われる。(参考までに、習合=異なる教義などを折衷すること、混淆=異なるものが入りまじること、混合=異なった性質のものがまじり合うことであるため、本来の用語ではないが、この「神仏混合」の表現でも意味合い上、大きな間違いではないと思われる) ・神像(しんぞう)=神々の姿を、彫刻や絵画などに表したもの。 ・神仏習合像=注:本来、この用語は、まだまだ一般的ではないと思われる。神仏習合や神仏混淆に基づく神宮寺、権現、あるいは寺院などにある神像、仏像のことを言い表していると思われる。 ・本仏(ほんぶつ)=1 永遠の昔から悟りを開いている仏。本門の仏。 2 一切の仏のうち、根本の仏。真宗では、阿弥陀仏。 3 本尊のこと。 ・本地仏(ほんじぶつ)=本地垂迹説の流行に伴い、日本の神の本地とされた仏・菩薩(ぼさつ)。 ・化仏(けぶつ)=衆生(しゅじょう)を済度(さいど)するため、機に応じて如来が出現させる仮の仏形。また、菩薩(ぼさつ)などがその本地仏を表示するため、頭上に表す仏形。観音の頭上の阿弥陀像などがある。 ・光背(こうはい)=仏身から発する光明をかたどった、仏像の背後にある飾り。頭部のものを頭光(ずこう)、身体部のものを身光(しんこう)といい、中国・日本ではこの二重円光式を主体とする。さらにその周縁に火焔(かえん)を付し、全体を蓮弁形にすることが多く、これらを併せて挙身(こしん)光という。御光(ごこう)。後光(ごこう)。 ・白毫(びゃくごう)=白毫相(びゃくごう‐そう)=眉間(みけん)にあって光明を放つという長く白い巻き毛。仏像では水晶などをはめ込んだり浮き彫りにしたりして表す。眉間白毫相。 ・三道(さんどう)=仏様が大きくて、ふくよかなことを表現するために頸(くび)に3本の溝を付ける。 ・手印(しゅいん)=手の指で印を結ぶこと。また、その指の形。仏・菩薩(ぼさつ)の悟りの内容や誓いを象徴する。契印。印。 ・納衣(のうえ)=1 人が捨てたぼろを縫って作った袈裟(けさ)のこと。古くは、これを着ることを十二頭陀(ずだ)行の一つとしたが、中国に至って華美となり、日本では綾・錦・金襴などを用いた七条袈裟をいう。衲袈裟(のうげさ)。衲。 2 僧のこと。特に、禅僧をいう ・通肩(つうけん)=僧の袈裟(けさ)の着方で、両肩をおおって着ること。 ・蓮華座(れんげざ)=仏像を安置する台座。蓮華台。蓮台。蓮座。 ・磨崖仏(まがいぶつ)=自然の懸崖または大石に仏像を彫刻したもの。インド・中国に多く、日本では平安時代に製作された大分県臼杵(うすき)・栃木県大谷(おおや)のものが有名。 ・切石(きりいし)=用途に応じて種々の形に切った石材。 ・立像(りつぞう)=立っている姿の像。りゅうぞう。 ・坐像(ざぞう)=すわっている姿の像。 ・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)=<仏教を廃し釈迦(しゃか)の教えを棄却する意>明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動。明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われた。 (用語解説は、今後も順次追加予定) |
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福重の石仏関係年表(郡地区の寺院創建や大村への仏教伝播年代も関係あり)<全国の出来事も含む>
この表の表題にも書いていますが、上表はあくまでも福重の線刻石仏と関係ある出来事や事柄を(推定年代含めて)列記しています。上表は2012年1月現在の記入ですから、今後も書き加えていきたいと思っています。また、ホームページ掲載中に有力な史料が発見され、上記事柄が間違い、あるいは訂正の必要性が出てくれば、その部分は変更しますので、ご了承の上ご参考程度にご覧願います。 補足:上記年表で「)箕島の経筒<文治元年(1185年)>、経ヶ岳の経筒<永仁二年(1294年)頃>」部分も、ご注目願います。この二つの経筒より、福重の経筒(弥勒寺や草場の経筒)の方がかなり早い年代(平安末期頃)と思われます。仮に大村の経筒が全部「鎌倉時代」と仮定したとしても、大村(正確には郡地区)への仏教伝播が、これら経筒の年代より相当早く来ていないといけない、つまり、郡地区の仏教寺院のいくつかは奈良時代〜平安時代に創建されていないと大変おかしなことと思われます。 同じ表現の繰り返しになりますが、先の経筒建立年代に時代を下げて考えたとしても、「従来説(大村への仏教伝播、古い寺院と石仏建立は中世時代説)は、間違いである」と言うことが改めて良く分かる事例と言えます。ここで自動車に例えるのは適切ではないかもしれませんが、「従来説は設計図(基本的な設計思想)がないのに、先に車は完成した」=「仏教伝播=寺院建立がないのに、経筒・単体仏・上八龍の線刻石仏などは先に建立された」と似たようなことです。このような間違い説が、今なお堂々と大村市内の郷土史関係の書籍では書かれているのです。 次から、本題に入っていきますが、できるだけ上記の従来説の間違いを正すことも含めて、具体的に分かりやすい形で書いていきたいと思っています。 |
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1)石仏と線刻石仏とは何か
石仏とは
福重地区には、2009年3月16日に新発見された「清水の線刻石仏」(弥勒寺町)を含めれば線刻石仏の種類としては、合計14体あります。上記(1)〜(6)の6体は、その代表例として掲載しています。他の弥勒寺町の「石堂屋敷の線刻石仏A、C、E、F、H、I」、「清水の線刻石仏」も、各々細部の違いは当然ありますが、上記(4)〜(6)の「石堂屋敷の線刻石仏B・D・G」と、ほぼ全体の形は似ています。なお、「石堂屋敷の線刻石仏C」のみ、現在行方不明で欠番扱いにしています。
これが、福重の線刻石仏の最大の特徴点とも言えます。また、この点などが今までの専門家や郷土史愛好家含めて不明な点で、「福重の石仏、最大の謎」とも言っている理由の一つでもあります。(注:以降難しい言葉などは、各々リンクは張っていない場合もあるが、「用語解説」から参照願う)
1,光背がある石仏と、ない石仏
・「両手を納衣で隠して拱手しているので神像ではないか?」
1)全国にあまり例がない石仏ではないか? 私は、仏教文化の伝わる原動力を見る場合、その要素として経済と情報だと思っています。その経済の要は、水や穀物を中心とした食糧がベースになり、そこに国内外の情報(交通運輸、文化、宗教、技術、物など含む)を取り入れて進展してきたのではないかと思っています。その要素に大村で最も適していたのは、実は郡地区(松原・福重・竹松の3地区)だったのです。だからこそ、旧石器時代(野岳遺跡)、縄文・弥生時代(岩名遺跡、冷泉遺跡、沖田町にある黒丸遺跡)、古墳時代(黄金山古墳、野田古墳)など、たくさん出土しています。 地名からも考えて
そのようなことから、私は、福重の石仏が集中している弥勒寺町、福重町の旧・字(あざ)で仏教と関係ありそうな地名に関心を持ってもいました。ここで、その地名と、その名前の付いた要因と思えることを、私の推測も含めて、ご参考までに下記に書いておきます。何か今回の地名紹介だけで「”謎の石仏”を解き明かす」と言うものでは決してありませんが、これらの地名からも興味引かれるものがあります。(下記<>内は、国語辞典の大辞泉より)
<神像系の意見>
また、一般に「仏像には蓮華座や光背があるはずだ、神像や神仏習合像には、それが付いていない」みたいに言われる方もいます。しかし、その説明も成り立つ場合もありますが、実は私が色々な写真を見たところ、神像にも蓮華座や光背の付いている形もありました。逆に、仏像と分かっていても蓮華座や光背がないのもありました。 神仏習合の歴史について様々な説もありますが、上記辞典内容も参考に考えれば仏教が(538年)中国などから伝来し、その後から明治維新頃(1868年)まで約1300年間くらい続きました。一旦は明治政府の神仏分離令などで廃仏毀釈(はいぶつきしゃく、用語解説参照)まで起こりましたが、後年に復活した状況もあります。大村市内での具体例が分かりやすいと思いますので、いくつか下記事項を挙げます。(念のために下記内容の一部は全国にもあるものです)
(イ)大村郷村記によれば太郎岳大権現(奈良時代初期、和銅年間=708〜715年に開山、戦国時代の文明年間=1469〜1487年に多良岳に遷座して、後世、多良大権現や金泉寺と呼ばれている)が、大村で最も古い神仏集合の寺院と思われる。(太郎岳大権現の詳細は、ここから参照) |
関係ページ:『仏の里 福重』 、 『CG石仏写真』 、 『福重の石仏の変化』 、 『大村への仏教伝播と延命寺の標石など 』 、 『大村の経筒』 、 |
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第1次掲載日:2012年1月5日、第2次掲載日:2012年1月6日、第3次掲載日:2012年1月7日、第4次掲載日:2012年1月8日、第5次掲載日:2012年1月10日、第6次掲載日:2012年1月11日、第7次掲載日:2012年1月12日、第8次掲載日:2012年1月13日、第9次掲載日:2012年1月17 日、第10次掲載日:2012年1月23日、第11次掲載日:2012年1月27日、第12次掲載日:2012年1月30日、、第13次掲載日:2012年2月5日、第14次掲載日:2012年2月8日、第15次掲載日:2012年3月20日、第16次掲載日:2012年3月21日、第17次掲載日:2012年3月27日、第18次掲載日:2012年 月 日 |
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