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大村の歴史
(大村市の)町名町界の変更
 
 
(図1) (1986年6月1日) 大村市「市政だり」より

(大村市の)町名町界の変更

 注:
詳細な意味や内容は省略して極簡単に言えば、町名とは町の名前(名称)のことで、町界とは町の境界のことである。(前同)町名町界の変更とは、それまであった町(郷や字)同士の境界を明確にして、同時に旧町(字や郷)の名称も変更・整理すると言うことである。
 注:下記内容の引用・参照先は、「大村市、市政だより」(現在名称で「大村市広報誌」)からである。ただし、下記リンク先以外にも数十ページがあるが、同種同内容なので省略している。

概要紹介
 この(大村市の)町名町界の変更、整理などは、1974(昭和49)年から1993(平成5)年までおこなわれました。なぜ、この変更がおこなわれたかの理由は、概要次の「」内通りです。
<下記「」内は、1986(昭和61)年6月1日 №1056 「市政だより おおむら」から引用>

 「本市には、町の名称が公称の字名
(あざめい)と通称の町名があり、範囲も広く、町界もほとんど不明確なため、皆さんの日常生活や、市などが行政事務を進めるのに、大変不便なのが実態です。そこで、町名を一本化し、同時に町の区域を実情に合わせるため、今回、町名町界整理を進めるいます(上野注:以下省略)

 なお、大村市は、南から三浦・鈴田・大村・西大村・萱瀬・竹松・福重・松原と8地区あります。この町名町界の変更は、地区別では1回で発表された地域もありますが、中には数次とか4次にわたって行われた場合もあります。

 この時、町名の読み方は「」を「まち」と読むことに統一しました。ご参考までに、一例として皆同町は「かいどうまち」と呼称することになりました。また、例えば、旧称(松原)一の郷は「松原一丁目」へ、旧称(松原)二の郷は「松原二丁目」へと変更されたのも、この当時からです。

大村市における町名について
 まず、下図<1942年2月11日、大村市政発足前(1町5村の合併前)の状況図と人口など>を参照願います。この図は、「1町5村の合併前の状況」だけではなく、現在でも「大村8地区
(三浦・鈴田・大村・西大村・萱瀬・竹松・福重・松原地区=合計8地区)と呼ばれている状況も良く分かるものです。なお、下図は、「大村市史 下巻」<1961(昭和36)年2月11日発行、大村市役所>の66ページの図を複写して、海(大村湾)の部分は上野が分かりやすくするために彩色したものです。引用参照される場合は、必ず原本からお願いします。

(図2) 1942年2月11日、大村市政発足前(1町5村の合併前)の状況図と人口など
・市内の大きな行政単位(町・村)でも大変長くて様々な歴史がある
 大村市内において、今では地名とか町名とか一口で言いますが、実は現在に至るまでには実に長くて、様々な歴史があります。大きい事柄だけでも先に書いていきます。
(図3) 大村藩領絵図、「皆同村」は中央上部、「福重村」は左側。(右下(側の紺色は郡川、斜め黒色線は長崎街道、上部の薄い紺色線は石走川)  注意:上図では切れているが右側に「今富村」もある。

 大村市政は、1942(昭和17)年2月11日の発足です。その合併前は、南から三浦村、鈴田村、大村町、萱瀬村、福重村、松原村と、1町5村がありました。さらに、その大村町自体も合併前は、大きくは旧・大村町、西大村、竹松村と分かれていました。

 つまり、現在も「大村8地区」とか呼称されている通り、昔から大別して合計で8つの「町や村」があったと言うことです。ただし、これは、あくまで市政発足前までの大きな行政単位(大別)であって、実際はもっと細かくて複雑な歴史がありました。

 例えば、福重村だけでも、江戸時代の行政改革前は
3村(今富村・皆同村・福重村)がありました。<この件の詳細は「福重・今富・皆同三ヶ村」ページを参照> このようなことを「大村8地区」全部を詳しく書きますと、それだけでも独立した特集ページが必要となってきますので、ここでは全て省略します。

・大字
(おおあざ)、小字(こあざ)について
 まず、今回の「大字
(おおあざ)」「小字(こあざ)」は、地名と言っても現在の大村市内において、不動産(土地取引)、農業や住宅関係などを除き、一般的にはあまり使用されていません。そのため、今では馴染みのない地名や用語でもありますので、次から国語辞典の解説を書いていきます。

 (あざ)について、広辞苑には「町村内の区画の名。大字と小字があり、普通は後者を単に字という」と解説されています。また、大辞林によると、大字(おおあざ)について「町や村の中の一区画で、比較的広く、いくつかの小字(こあざ)を含むものの名。昔、町・村であったものが、明治初年の市町村制施行の際に市町村の一区画とされたもの」とあり、同様に小字(こあざ)については「町や村の中の一区画の名。単に字(あざ)ともいう」と解説されています。 

 <下図=(図4)を参照> 福重地区(10町)の場合、1986年6月23日から町名町界変更が実施されています。それ以降、例えば町名は「重井田町」とか「寿古町」になっています。 しかし、町名変更前までは「重井田郷」とか「寿古郷」と言うように「郷」と呼んでいました。さらに、その「郷」(町)の中には、例えば「皆同郷(皆同町)」では『高縄手』、『城ノ前』など8つの字(あざ)があります。

 その他、下図=(図4)の福重地区10郷(10町)を見ただけでも、覚えきれないくらい字(あざ)の数があります。ところが、この字の方が、町名町界変更になるまでは、大村市などの公称として通用していました。また、分かりやすい例として、郵便の宛先(住所)も、昔は例えば「大村市・・・郷(字)・・ ・・番地」みたい書いてありました。
 (図4)  大村市・福重地区10町(郷)の字(あざ) <注:上図は「福重のあゆみ」掲載の図に彩色したもの>
和妙抄に書かれた”大村郷”は郡村で
現在の大村地区を指していない
古代の道と駅「延喜式」からの想定図
彼杵郡家(役所)と新分駅の位置に注目
・古い歴史のある地名
 現在の大村市郡地区
(こおりちく)の由来は、大昔から、この地を郡村(こおりむら)と呼んできたからです。そして、この「(こおり)」は、古代肥前国の郡役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)彼杵郡衙(ぐんが)が、この地にあったから、その「」の文字から来ています。彼杵郡家とは、現代風に言えば「長崎県央地域の県庁」みたいなものです。

 ご参考までに、この「」の文字は、「郡村」と言う村名の由来だけでなく、山では「郡岳
(こおりだけ、826m)、川では「郡川(こおりがわ、約19km)」の名称も同様です。また、「大村」という地名は、平安時代の承平年間(931~938年)に出来たといわれている『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、和妙抄)』に文章として初めて「彼杵郡 大村郷」の名前が登場してきます。このことは、元々から大村と言う地名は、現在の郡地区が”大村”地名発祥の地であったと言うことです。

 つまり、大村という地名そのものが、今の大村地区(旧・大村町など)を指しているのではなく、現在の郡地区(松原、福重、竹松)のことでした。太田亮氏の『姓氏家系大辞典』によれば、この”大村郷”のことについて、「彼杵大村郷は後の郡村の地にして、今の大村北方に当たる
(1316ページ上段)と明確に書かれています。 <上記の詳細は「大村”の地名発祥」ページを参照>

 上記の通り、大村でも地名は、古代肥前国時代とも関係している、つまり千年以上も前から長い歴史のある地名も多いということです。ただし、先の一例は記録が残っているものだけを挙げただけです。他の地名や字
(あざ)の由来は、もっともっと古く、中には数万年前からの自然地形(山・川・海など)から名付けられたものも多いです。

・字(あざ)は様々な由来から付けられた


  (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)



大村市における町界について


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)


町名町界変更、整理の主な経過など


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)



補足


 (この原稿は、準備中。 しばらく、お待ちください)




・関係ページ

 ・「大村”の地名発祥


(掲
載日:初回:2018年6月10日、第2次掲載日:6月12日、第3次掲載日:6月15日、第4次掲載日:6月24日、第5次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)

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