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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など

北村西望先生の日蓮像

 概要紹介
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 1)像の大きさなど
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 2)像について
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 3)制作者の北村西望先生について
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 4)碑文内容について
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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北村西望先生の日蓮像(大村市福重町、妙宣寺の本堂前)

概要紹介
名称:北村西望先生の日蓮像(きたむら せいぼう せんせいの にちれんぞう)、所在地:大村市福重町116 (深重山妙宣寺・本堂正面)

 本像は、大村市福重町にある深重山妙宣寺(しんじゅうざん みょうせんじ)の本堂前にあります。像の土台の正面側(西側)の碑文には、「日蓮大聖人七〇〇遠忌記念」、また本堂側(北側)碑文には、「巨匠北村西望先生作
 施主 浜口クイ」などの文字が彫り込まれています。

 そのようなことから本来ならば像の名称として、「巨匠北村西望先生作 日蓮大聖人七〇〇遠忌記念像」みたいにすべきことかもしれません。しかし、これでは像の名前としては長過ぎるし、やや分かりにくさもあります。そのようなことから、今回、北村西望先生の日蓮像とし、名称もこのページでは統一していますので、あらかじめ、ご了承願います。

 北村西望先生は、長崎の平和記念像の制作者などと言わなくても、長崎県民ならばほとんどの方が、その名を知っておられるだろうと思われるくらい有名です。長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)生まれの方で、まさしく日本を代表する美術家、彫刻家の一人です。

 日蓮像そのもの(本体)は、小ぶりながら、目と顔は真正面を向き、両足で大地を踏みしめ、右手には笏(しゃく)を持って力強く前にかざし、左手に経典の巻物を持って、多くの人々へ説法しているような姿形です。

 あと、土台になっている御影石も良質で、三面に彫られた碑文も見やすいものです。施主(建立者)の浜口クイ氏は、松原の方で真珠関係で有名です。また、松原小学校を始め色々な所へ、寄付も数多くされた方と聞いています。

1)像の大きさなど
 まず、右側1番目を参照願います。中央部に写っているのが、北村西望先生の日蓮像と、その台座(土台)です。それらの大きさは、下表を見て頂けないでしょうか。(右側2番目写真は日蓮像の拡大写真)

北村西望先生の日蓮像などの大きさ
 全体の高さ  高さ:約193cm  -  -
 本像大きさ  高さ:約53cm  横幅:約35cm  周囲:約58cm
 台座の大きさ  高さ:約140cm  上部横幅:約43cm  上部奥行き:約36cm
  (同上)  -  下部横幅:約58cm  下部奥行き:約59cm

 台座(土台)は、写真の通り、下部が大きく上部へ細くなっている形状です。台座(土台は、良く見ますと4段みたいにも見えますが、上表はは一体ものとして表記しています。本像は、本堂正面の左側(本堂に向かって右側)にあります。ですから、本堂に上る人が見やすいように置かれていると考えられます。

 下記の項目に書く予定の三面の碑文も、そのことを意識してに彫られていると思います。台座(土台)の高さが、全体で約140cmもあるのは、本堂に上る時に日蓮像を目線近くの高さにして、見やすいようにしてあるからだと推測しています。あと、本像のブロンズ色と、台座(土台)の御影石の色バランスも、しっくりしています。

2)像について
 この項目、まずは右上から2番目写真をご覧願います。全国の日蓮像の例では、実に様々な姿形があります。そのようなことから、これから私が書くことは、全国例と合致している表現もあれば、違っている場合もありますので、あくまでも、参考程度にご覧願います。また、後で書いています国語辞典の大辞泉も参照願います。

北村西望先生の日蓮像(本体のみ)

 北村西望先生作の日蓮像は、右手には力強く笏(しゃく)(注1)を前方上側へかざし、また左手に握りしめるように経巻(きょうかん)(注2)を持った立像です。この形は、日本全国の日蓮宗寺院関係にある一般的な日蓮像で多く見られる姿形です。そして、多くの人へ、説法している姿から、日蓮の説法像とも呼称されているようです。

 また、目鼻立ちがクッキリ(レリーフが高く)して、目はカッと見開き、説法を聞く人々を見ているだけでなく遠い将来を見ているような目つきです。袈裟(けさ)は、横幅を広く、大きく見せているようです。あと、両足は、大地をしっかりと踏みしめている造りです。

<下記の(注1)(注3):は、国語辞典の大辞泉から引用している>
(注1):笏(しゃく)とは、束帯着用の際、右手に持つ細長い板。もとは備忘のため笏紙(しゃくし)をはるためのものであったが、のちにはもっぱら威儀を整える具となった。木や象牙で作る。さく。こつ。
(注2):経巻(きょうかん)とは、経文を記した巻物。また、経典。
(注3):袈裟(けさ)とは、インドで制定された僧侶の衣服。


3)制作者の北村西望先生について
 この彫像を制作された北村西望先生について、国語辞典の大辞泉には、次の<>内のことが書いてあります。<北村西望:(1884〜1987)彫刻家。長崎の生まれ。文展、帝展で活躍。男性裸像にすぐれ、長崎市原爆中心地の「平和祈念像」で有名。文化勲章受章>

 少し補足しますと、出身地は長崎県南高来郡南有馬村(現・南島原市)です。現在、南島原市にある先生の生家は、西望記念館「西望生誕之家」として公園にもなっています。(先生の作業中や生家の写真などの詳細は、ここからご覧下さい)

 先のリンク先ページには、作品例として次の<>
内が書いてありますので引用します。<大正6年文展に出品した「光にうたれる悪魔」で知られるようになり、昭和13年は国会議事堂内に設置してある「板垣退助翁」像の制作、戦後になって長崎市からの依頼により製作した「平和祈念像」は、西望の代表作のひとつである。昭和51年には、宮中に「天馬」を献納するなど、数々の作品を制作した。>

 以上のようなことからもお分かりの通り、北村西望先生は、まさしく日本を代表する美術家、彫刻家の一人です。また、長崎県のホームページを見ますと、北村西望先生は長崎県名誉県民です。

4)碑文内容について 
 北村西望先生作の日蓮像には、台座(土台)の三面(像に向かって正面=西側、右側面=南側、左側面=北側)に碑文が彫ってあります。この項目では、これらの碑文について解説していきます。碑文は、下記の太文字です、ただし、原文は、縦書きですが、ホームページ上、横書きに直しています。

北村西望先生の日蓮像(大村市福重町、妙宣寺の本堂前)

・像の正面側(西側):日蓮大聖人七〇〇遠忌記念
・像の右面側(南側):昭和五十六年四月二十八日 当山二十七世日延代
・像の左面側(北側):巨匠北村西望先生作   施主 浜口クイ

口語訳
上記太文字を分かりやすく口語訳しますと、次の「」内通りと思えます。素人の訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願います。なお、( )内は、上野の補足や注釈です。

 「日蓮大聖人、没後700年記念(の像) 昭和56(1981)年4月28日、当山(深重山妙宣寺)第27代・日延(上人)の年代である。 (制作は)巨匠の北村西望先生の作である。 施主(建立者)は浜口クイである

 下記の国語辞典の大辞泉も参照願います。
・日蓮=(1222〜1282)鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。安房(あわ)の人。12歳で清澄寺に入り天台宗などを学び、出家して蓮長と称した。比叡山などで修学ののち、建長5年(1253)「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、法華経の信仰を説いた。辻説法で他宗を攻撃したため圧迫を受け、「立正安国論」の筆禍で伊豆の伊東に配流。許されたのちも他宗への攻撃は激しく、佐渡に流され、赦免後、身延山に隠栖。武蔵の池上で入寂。著「開目鈔」「観心本尊鈔」など。勅諡号(ちょくしごう)は立正大師。

・遠忌=1五十年忌、百年忌など、没後に長い期間を経て行われる年忌。 仏教諸宗派で、宗祖や中興の祖などの五十年忌ののち、50年ごとに遺徳を追慕して行う法会。


 上記の碑文は、記念碑や石碑関係で重要な記念碑の名称(建立目的)、建立年月日、建立者名、像の制作者など、簡潔ながら全ての要素が彫られています。このような内容は、後世でも充分調べやすく、また伝えやすいものともいえます。

まとめ
 この北村西望先生作の日蓮像は、妙宣寺の本堂近くにいらっしゃった方ならば必ず見る位置にあります。本像は、昭和56(1981)年4月28日の建立から2014年現在で、既に33年間経っています。ここからは、私の推測ながら、先ほどの年数からしても像の見学者数は、何万人以上でしょう。その意味から妙宣寺の檀家さんだけでなく、多くの方に本像は有名と言えます。

 このような像は、日蓮宗の仏教寺院にあるのですから、当然、宗教上の意味合いもあるのでしょう。しかし、そのようなことだけでなく、この像の姿形あるいは説得するような、訴えているような力強さは万人の心をも動かしているとも思えます。


(初回掲
載日:2014年6月25日、第2次掲載日:6月27 日、第3次掲載日:6月28日、第4次掲載日:6月29 日、第5次掲載日:6月30日、第5次掲載日:7月1 日)

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