大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など | 野田古墳の天井石(農道開設記念碑) |
概要紹介 | |
1)碑文内容について | 掲載中 |
2)記念碑のの大きさなど | |
緯度経度など | |
まとめ | |
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概要紹介 |
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1)碑文内容について
戦後直後の農家では、馬・牛が活躍し、車や機械化はマダマダの状況が数十年間続きました。この当時は、農道なども、そう広くなく、馬が通る位(幅1m前後〜広くても2mもない状況)の道幅でした。しかし、その後に耕運機が登場してきました。この耕運機のエンジンは馬力もあり、田畑を耕すだけでなく、運搬用台車を連結することにより、現在の軽トラックみたいにして肥料・収穫物や様々な物資を運ぶことができました。しかし、従来の人馬が通る程度の幅の狭い道では、通行不可でした。 このちょっとした耕運機ブームが到来したのは、大村では1960年代初期と思われます。そのことも含めて、大村市内では、モータリゼーションのはしりの時代になり、国道・県道・市道・農道などが平地を中心に拡幅整備されていきました。また、農家では、耕運機の次は、現在とほぼ同じような「自家用車・(軽)トラック・トラクターの時代」到来でした。 そのため、平地だけでなく、中間山間地の農業地域でも、道路は、拡幅の必要性がありました。今回の(野田町にある)農道は、そのような背景(状況)の中で、道路が新たに開設されたということです。しかし、当時の大村市は、このような道路の新設(拡幅)の必要性を認識していなかったのか、はたまた農業地域の道路を無視したのか、いずれにしても全く、その工事予算を出さなかったということです。 そのため、農道開設予定地の農家の方々(記念碑によれば20戸の農家)が、土地も工事費用(合計6百万円)も提供して、さらには作業(労働)もして、この総延長1,331メートルの農道を完成させたということです。当然、完成後の道路保全・補修作業も何十年間も地元負担でした。その後、市道に昇格して現在はアスファルト舗装の市道になっています。 このように道も時代とともに変わっていきますが、この(当時)農道は、地元の方々の努力や苦労のおかげで完成したのは、まぎれもない事実です。 |
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2)記念碑の大きさ、緯度経度など
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