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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 御手水の滝の経筒発見記念碑
 概要紹介
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 ・碑文石の名称と場所
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 ・碑文石の大きさなど
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 ・碑文の内容
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 ・まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 この御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝とも言う)近くにある記念碑の場所は、大村市立福寺町(りふくじまち)にあります。なお、ご参考までに、御手水の滝(裏見の滝)自体は、大村市重井田町にあります。大村市内に現存している経筒は、現在5個(弥勒寺の経筒、草場の経筒その1、その2、御手水の滝の経筒、箕島の経筒)です。これらの経筒自体の詳細をご覧になりたい方は、「大村の経筒シリーズ」をご参照願います。

 このページはタイトル通り、御手水の滝の経筒発見記念碑についての紹介ページですので、記念碑を中心に書いていますことは、あらかじめご了承ねがいます。碑文そのものについては、後で書くとして、この周辺にあるシャクナゲ公園や滝は、毎年数万人の観光客の方が訪れる場所ですので大変有名です。

 しかし、多くの方が滝やシャクナゲを見るために登り降りされる小さな道の脇にある、この記念碑は誰も気付かれません。そのような状況にある記念碑について、碑文全文も含めて今回ご紹介したいと思っています。極簡単に言えば、ここで発見された経筒の経過などが彫り込まれた石碑です。

碑文石の名称と場所
 
大村市内には、現存する経筒が合計5個あります。それは、下記の(1)〜(5)の通りです。
(1)弥勒寺の経筒 、 (2)草場の経筒その1 、 (3)草場の経筒その2 、 (4)御手水の滝の経筒 、 (5)箕島の経筒

御手水の滝の経筒発見記念碑

 上記でお分かりの通り、他の4個は全て地名=(現在の)町名や元の島の名前が付いています。しかし、この御手水の滝の経筒だけは、滝の名称からです。発見場所は、立福寺町と分かっていますが、長年の様々な経過がありますので、この経筒名称が、ふさわしいと思い私も使用しています。

 そのようことから、御手水の滝の経筒を発見した経緯(いきさつ)などを彫り込まれた記念碑ですので、上記同様の扱いでタイトル通りの名称にしています。なお、念のために、経筒名称の由来となった、御手水の滝(裏見の滝)は、落差約30mです。(御手水の滝の詳細を知りたい方は、ここからご覧下さい) ( 滝の動画ページは、ここからご覧下さい)

 これから、この記念碑へ行く二つのコースを説明します。通常、滝の西側上部にある駐車場から九つの曲がりを下って滝見学に行きます。その滝の手前約30m位の登山道左側に石碑はあります。

 逆に、もう一つのコースは、重井田ダム側から御手水の滝(裏見の滝)を見ながら登ると向かって左側へ進みます。そして、滝を後方に見ながら、さらに登って行き、滝からの距離ならば30m位の道脇にあります。このページ、右側上から2番目写真が、その経筒発見記念碑(全体写真)です。

碑文石の大きさなど
 碑文の彫られた石のみ(台座や石垣などは含めず)の大きさは、高さ約55cm、横幅約40cm、胴囲約107cmあります。小型のテレビを縦位置に立てた位の大きさでしょうか。碑文面は、ほぼ平らで、形状をうまく利用して文字が丁寧に彫られいて、その上部には経筒の形があり。(詳細は、次の項目と写真を参照)。

 私が、この石碑の計測と拓本の作業をしたのは、2008年6月23日と2011年11月22日でした。いずれの日も滝の見学に来られた数人の方と石碑前で話しました。皆さん異口同音に、「ここに、こんな記念碑があるとは全く気付きませんでした」、「経筒とは何ですか?」みたいな話をされた覚えがあります。石碑の文字は通常見えにくいので、分かりやすい簡単な案内板設置も必要かなあとも思いました。

碑文の内容
  碑文の全文は、次の「」内の通りです。  昭和十年旧正月元日ヨリ観世音ノ神通力ニヨリ七回ノ霊夢ニ感ズル所アリ現場ヲ試ミ一尺五寸程屈(注1)リ石ノ蓋アリ其ノ下ニ上圖ノ石壺ヲ発見セリ之ハ木炭ニテ覆い週圍(注2)ニハ平石ヲ立テ維持ナラシメアリ石器時代の製品トノ説アリ依テ神前ニ備ヘ此所ニ霊感ヲ記シテ後日ニ傳ウ 祭主 岩崎郡太郎 

御手水の滝の経筒発見記念碑の拓本

(注1):掘の文字が碑文では「土」辺に「屈」である。   (注2):周囲の周の文字が碑文では「週」である。

 碑文の現代語訳は、次の<>内の通りです。上記の(注1、2)を訂正した内容です。ただし、上野の素人訳なので、ご参考程度にご覧願います。  昭和10(1935)年旧正月の元日、観音菩薩の神通力により7回お告げ(夢枕に立たれた)を感じて、この現場を試しに一尺五寸(約45 cm)掘ったところ石の蓋(ふた)が出てきた。(さらに掘ると)その下に上図の石壺(経筒)を発見した。これを木炭で覆って、周囲には平たい石を立て維持(保全)するようにした。石器時代の製品ではないかとの説も出たので神前へおそなえして、この場所は霊感を記念して後日(後年)へ伝えることとした。  主宰者 岩崎 郡太郎 

碑文内容についての補足
 碑文の一部内容間違いについて、「石器時代の製品ではないか」は、年代間違いと思われます。末法思想の流行は、平安時代末期及び鎌倉・室町時代と言われています。その時に、経筒が造られ、経塚が築かれたと言われています。この件の詳細を知りたい方は、「大村の経筒シリーズ」をご参照願います。

 私の推測含めての補足を次に書いています。本来、御手水の滝(裏見の滝)の場所は、重井田郷(現在の重井田町)であり、経筒発見場所も立福寺郷(現在の立福寺町)で二つの町とも当時の福重村(現在の大村市福重地区)です。しかし、なぜ当時の松原村野岳(現在の松原地区、野岳町)の岩崎郡太郎氏が発見されたかと言うことは補足が必要と思われます。

 この御手水の滝の下側(南東側)には、お堂があり、これを祀っておられるのは、実は大村市野岳町の方々です。なお、ご参考までに、この祀っておられる状況は、江戸時代編纂の(大村)郷村記にも記述されています。そのような関係から野岳の方が、このお堂に度々来られていた可能性があり、そんな機会に発見されたと推測しています。

まとめ
  御手水の滝の経筒は、今回紹介の経筒発見記念碑の碑文にも書いてある通り、その後、滝の下側にあるお堂かどこかの神前でそなえられていたようです。しかし、(伝承ながら)昭和の30年代か40年代頃、この経筒は一時期、大村市内にはありませんでした。(詳細内容は省略)その後、色々な方のご努力により、現在は大村市立史料館に所蔵されています。

 先の項目と重複したことを書きますが、大村市内に現存する経筒5個=(1)弥勒寺の経筒、(2)草場の経筒その1、(3)草場の経筒その2、(4)御手水の滝の経筒、(5)箕島の経筒の内で最も本体、蓋とも、ほぼ完全に近い形で残っているのは、この御手水の滝の経筒だけです。その意味では、貴重だと思われます。

  また、このような経筒発見記念碑が、同じ場所に分かりやすい形で建立されているのも、これだけです。念のため、他の経筒も大体の発見場所は分かっていますので大村の経筒シリーズには、そのことも含めて書いていますが、この御手水の滝の経筒ほど明確ではありません。

 いずれにしても、経筒は大昔の方々が末法思想流行時に様々な願いを込めて埋めたものが後世になって発見されて、現代人へも様々なことを語りかけるような存在だと思います。経筒そのもの目的や意味合いについての詳細は、大村の経筒シリーズに書いていますので、ここでは省略しますが、いくら科学技術が進んでも当時も今も、人として持つ心配や悩みなどは基本的に変わらないようです。

 この経筒発見記念碑のある周辺は、春はシャクナゲ、初夏からは新緑、秋は紅葉、さらには通年通して御手水の滝(裏見の滝)や、大村市内では他に見られないような横幅約100m、高さ30m〜50m位ある巨大な岩壁もあります。そのような見学の機会に、参道(登山道)脇にひっそりとある、この記念碑もご覧頂ければなあと思っています。この御手水の滝の経筒発見記念碑紹介ページをご覧頂き、ありがとうございました。 (ページ完了)

・関係ページ:
大村の経筒シリーズ

(初回掲
載日:2011年11月23日、第2次掲載日:11月26日、第3次掲載日:11月28日、、第4次掲載日:11月29日、第5次掲載日:11月30日、第6次掲載日:12月1日)

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