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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など
戊辰戦争後、会津若松で治安維持に活躍した大村藩士の墓碑
 概要紹介
掲載中
 1)碑文内容について
掲載中
 2)石祠の大きさ、緯度経度など
掲載中
 まとめ
掲載中
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

大村藩士の墓碑(正面)
<小川内町>

大村藩士の墓碑(側面)
<経過内容の碑文あり>

概要紹介
 大村市小川内町の墓地の一角に、戊辰戦争後、会津若松で治安維持や戦後復興に活躍した大村藩士の墓碑があります。その碑文には、現代語訳の概要で、次の「」内と思われる内容が彫られています。

 「(大村藩士の)溝口寅左衛門氏は明治2年(1868年)9月6日に大村を出発、長崎から海路で横浜へ到着し上陸。陸路で会津に到着し、10月7日に若松城に入城し、ずっと警備を担当。翌年に大村へ帰郷」


 戊辰戦争における全国各地で大村藩が活躍した戦闘記述などについては、例えば大村市史、大村市教育委員会や大村史談会発行の書籍類、さらに記念石碑や墓碑なども、けっこう多くあります。当時、秋田の角館、刈和野周辺で大村藩や平戸藩などが激戦を展開し、その戦で若干15歳の浜田勤吾少年が戦死したことや大村藩の活躍ぶりなどの歴史事項は、多くの市民が知っていることです。

 しかし、今回紹介しています福島の会津で戦後復興のための治安維持活動などへも大村藩士が派遣されたことなどは、今まで知られていない事項ともいえます。実は、各戦争そのものよりも長期間かかる戦後復興や治安維持活動などは、その地域やそこに住む人にとって避けて通れない大命題で、国としても重要事項だったでしょう。

 とりわけ、会津若松・鶴ヶ城の大激戦(有名な白虎隊なども含む)の後は、攻守どちらとも複雑な感情を持ちつつも、先人の方々は、戦後復興に精一杯当たられたのではないかと想像されます。そして、そのような先人のたゆまない努力、とりわけ激戦地だった人々の筆舌に尽くしがたいご労苦の成果があったからこそ、近代日本繁栄の礎に結びついたと思われます。

1)碑文内容について
 この会津若松で治安維持や戦後復興に活躍した大村藩士の墓碑の正面側から見れば右側面に、ほぼ全面に縦書きの碑文が彫ってあります。

右側の碑文を活字化したもの 墓碑右側面の碑文(拓本)
 それは、右側の拓本写真に写っている碑文通りです。その碑文を活字化したのが、右から2番目の画像です。さらに、この縦書き碑文をホームページ用に、次の「」内の青文字に変えています。なお、( )内の補足や注釈は上野が付けました。

  明治二年(一八六八)に朝廷の命令を頂いて大村藩の守備隊を奥州(現在の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部)へ派遣するにあたって溝口寅左衛門氏もこれに加わった。

九月六日に大村を出発し、長崎から海路で横浜に上陸した。それから陸路で会津に着いて若松城へ入ったが、その時は十月七日であった。それ以降、警備の任務に就いて翌年に帰郷した。

明治四十年正月十日に死亡
行年(享年)六十三才 溝口寅エ衛門 」


 注:推測ながら上記、最終行の「寅左エ衛門」の「エ」は、石工の省略文字で本来は「衛」と思われるので、「寅左衛門」の表記が正しいと考えられる。なお、碑文2行目(本文)は「寅左衛門」との表記になっている。

補足
 上記の碑文でも、「」内の青文字でも同内容ですが、いくつか分かる点があります。それを箇条書きで書きますと、次の項目です。上野の推測含めて記述している点は、あくまでも参考程度にお願いします。(順不同)

(1)この戊辰戦争で、秋田の角館、刈和野周辺で激戦をおこなった大村藩に対して、再度、翌年も朝廷(官軍)が、会津若松の治安維持や戦後復興に派遣命令が下ったこと。

会津若松の警備に行った大村藩士の墓碑がある小川内町の墓地
(2)この時、長崎ー横浜は海路(船)、そして横浜ー会津若松は陸路(徒歩)で約1か月間かかっていること。この当時、(帆掛け舟式か、動力式かは不明ながら)船と徒歩での行軍の約1か月間は、長期間と見るか、逆に短期間と見るかは人によって評価は違うかもしれない。仮に帆掛け舟と徒歩だけとしたら、私はけっこう速かったような気がする。

(3)上記の記述で、「翌年により帰郷せり」だけでは会津若松での警備期間は、正確には不明であること。しかし、私の推測であるが、1年間とかの長期間ではなく、長くても半年間、あるいはもっと短期間だった可能性も碑文全体の書き方から感じられる。

 下記の項目に上記に書きました用語の解説を国語辞典を引用して掲載していきますので、ご参照願います。
戊辰戦争(ぼしん せんそう) <大辞泉より>
 慶応4年(1868)戊辰の年1月から翌年5月にかけて、維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦。鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称。戊辰の役。

会津戦争
(あいず せんそう) <大辞泉より>
 慶応4年(1868)、戊辰(ぼしん)戦争の中で、新政府軍と、これに抵抗する奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩との戦い。1か月後の9月(明治元年)、会津藩の降服・開城により終結。この間、白虎隊員が自刃した。


2)大きさ、緯度経度など
  
このページ1番目(左右)と、3番目の写真を参照願います。1番目(左右)は、3番目の写真の右奥側(右端側の列で前から3番目=植栽の手前側)に写っています。その大きさは、下表1番目を参照願います。なお、念のため緯度経度も実測しましたが、個人所有地の墓地でもあるので、ホームページには未掲載としました。

 ご参考までに、3番目の写真の奥側の状況でも少し分かりますが、この墓碑より、もう少しだけ高台に(市道側)に行きますと、見晴らしが良い所でもあります。

戊辰戦争後、会津若松で治安維持に活躍した大村藩士の墓碑の大きさ

 全体  高さ:-  -  -  -
 本体  高さ:77cm  横幅:30cm  奥行:28cm  周囲:116cm
 土台  高さ:19cm  横幅:48cm  奥行き:45cm  周囲:186cm

(上記の)墓碑の緯度経度
(GPS実測値)
 名称:(同上)  場所:大村市小川内町の墓地
 GPS実測値:(注:計測したが未掲載)  (国土地理院)地図検索用 
 グーグルアース用数値:(同上)  標高:GPS高度計は148m、気圧高度計は182m、地図上の標高は147m

墓碑右側面の碑文(拓本)

まとめ
 冒頭の「概要紹介」ならびに「1)碑文内容について」と、この項目は、重複した内容となりますので、その点はご容赦願います。私は、今回の戊辰戦争(会津若松)の戦後復興のための警備(治安維持)活動をされた大村藩士の墓碑(碑文)を調査した時に思ったのですが、戦そのものも重要な歴史の転換点ですが、このような地道で長期にわたる活動も大事なことだなあと考えました。そして、当時の大村藩士の果たした役割も再評価できると思いました。

 しかし、それ以上に会津若松の大激戦地で官軍側に複雑な感情を持ちつつも、地元の方々の筆舌に尽くしがたい必死の戦後復興、ご労苦の成果があったからこそ、その地域だけでなく近代日本繁栄の礎に結びついたと思っています。

 あと、大村には戊辰戦争そのものの記録や、その後の関係した出版物、墓碑、記念像などは数多いです。しかし、この種の戦後復興関係の史料類や書籍類は、今まで皆無に近い状況のようです。この大村藩士の墓碑(碑文)をきっかけに、戊辰戦争後の史料類が市内のどこからか再発見されれば、この当時の事柄の解明につながるのではと期待もしています。
 

・関係ページ:(大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑

(初回掲
載日:2018年9月14日、第二次掲載日:9月15日、第三次掲載日:9月16日、第四次掲載日:9月17日、第五次掲載日:9月22日、第六次掲載日:10月3日、第七次掲載日: 月 日)
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