大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など |
戊辰戦争後、会津若松で治安維持に活躍した大村藩士の墓碑 |
概要紹介 | |
1)碑文内容について | |
2)石祠の大きさ、緯度経度など | |
まとめ | |
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概要紹介 |
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1)碑文内容について この会津若松で治安維持や戦後復興に活躍した大村藩士の墓碑の正面側から見れば右側面に、ほぼ全面に縦書きの碑文が彫ってあります。
「 明治二年(一八六八)に朝廷の命令を頂いて大村藩の守備隊を奥州(現在の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部)へ派遣するにあたって溝口寅左衛門氏もこれに加わった。 九月六日に大村を出発し、長崎から海路で横浜に上陸した。それから陸路で会津に着いて若松城へ入ったが、その時は十月七日であった。それ以降、警備の任務に就いて翌年に帰郷した。 明治四十年正月十日に死亡 行年(享年)六十三才 溝口寅エ衛門 」 注:推測ながら上記、最終行の「寅左エ衛門」の「エ」は、石工の省略文字で本来は「衛」と思われるので、「寅左衛門」の表記が正しいと考えられる。なお、碑文2行目(本文)は「寅左衛門」との表記になっている。 補足 上記の碑文でも、「」内の青文字でも同内容ですが、いくつか分かる点があります。それを箇条書きで書きますと、次の項目です。上野の推測含めて記述している点は、あくまでも参考程度にお願いします。(順不同) (1)この戊辰戦争で、秋田の角館、刈和野周辺で激戦をおこなった大村藩に対して、再度、翌年も朝廷(官軍)が、会津若松の治安維持や戦後復興に派遣命令が下ったこと。
(3)上記の記述で、「翌年により帰郷せり」だけでは会津若松での警備期間は、正確には不明であること。しかし、私の推測であるが、1年間とかの長期間ではなく、長くても半年間、あるいはもっと短期間だった可能性も碑文全体の書き方から感じられる。 下記の項目に上記に書きました用語の解説を国語辞典を引用して掲載していきますので、ご参照願います。 戊辰戦争(ぼしん せんそう) <大辞泉より> 慶応4年(1868)戊辰の年1月から翌年5月にかけて、維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦。鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称。戊辰の役。 会津戦争(あいず せんそう) <大辞泉より> 慶応4年(1868)、戊辰(ぼしん)戦争の中で、新政府軍と、これに抵抗する奥羽越列藩同盟の中心となった会津藩との戦い。1か月後の9月(明治元年)、会津藩の降服・開城により終結。この間、白虎隊員が自刃した。 |
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2)大きさ、緯度経度など
まとめ 冒頭の「概要紹介」ならびに「1)碑文内容について」と、この項目は、重複した内容となりますので、その点はご容赦願います。私は、今回の戊辰戦争(会津若松)の戦後復興のための警備(治安維持)活動をされた大村藩士の墓碑(碑文)を調査した時に思ったのですが、戦そのものも重要な歴史の転換点ですが、このような地道で長期にわたる活動も大事なことだなあと考えました。そして、当時の大村藩士の果たした役割も再評価できると思いました。 しかし、それ以上に会津若松の大激戦地で官軍側に複雑な感情を持ちつつも、地元の方々の筆舌に尽くしがたい必死の戦後復興、ご労苦の成果があったからこそ、その地域だけでなく近代日本繁栄の礎に結びついたと思っています。 あと、大村には戊辰戦争そのものの記録や、その後の関係した出版物、墓碑、記念像などは数多いです。しかし、この種の戦後復興関係の史料類や書籍類は、今まで皆無に近い状況のようです。この大村藩士の墓碑(碑文)をきっかけに、戊辰戦争後の史料類が市内のどこからか再発見されれば、この当時の事柄の解明につながるのではと期待もしています。 ・関係ページ:「(大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑」 (初回掲載日:2018年9月14日、第二次掲載日:9月15日、第三次掲載日:9月16日、第四次掲載日:9月17日、第五次掲載日:9月22日、第六次掲載日:10月3日、第七次掲載日: 月 日) |
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