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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など (大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑
 概要紹介
掲載中
 1)三十七士の顕彰記念碑などの大きさ
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 2)三十七士の顕彰記念碑の碑文内容
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  (イ)記念碑表面の文字について
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    ・「一縄」の語源について
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  (ロ)記念碑裏面の文字について
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   ・石工名の碑文について
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 3)顕彰記念碑の評価について
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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概要紹介
 このページは、タイトル(見出し)通り、長崎県大村市内にある石碑や碑文を紹介するシリーズの一つです。あと、今回は、上諏訪町にある山田神社近くにある『(大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑』(以降、三十七士の顕彰記念碑とか顕彰記念碑と称する)を紹介します。

 この三十七士の顕彰記念碑は、上諏訪町にある山田神社境内と大上戸川(だいじょうごがわ)の上流域の山田川との間にあります。この周辺は、川のせせらぎ、野鳥の鳴き声や谷間を吹き抜ける風の音しか聞こえてこないような静かな所にあります。また、どんなに暑い夏でも、この渓谷だけはまるで避暑地にみたいに涼しいです。

 この石碑は、極簡単に言いますと明治維新の時、大村藩士が大活躍しましたが、その働きを顕彰して1969(明治30)年8月に建立されたものです。明治時代に建立された記念碑や石碑類は、大村市内に多くあります。その中でも、この三十七士の顕彰記念碑は、記念碑の大きさ、石材の質、表面加工や装飾などの石工技術、さらには碑文(文字)に至るまで最高水準のものと言えます。

明治維新三十七士の顕彰記念碑(中央の大きい石の上側。左側は山田神社。右下側に山田川がある)

 また、揮毫(きごう=毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。大辞泉より)された方々が、大村家や大村の偉人とも称される人ばかりで、達筆な文字です。碑文の内容は、大村藩士の三十七士が明治維新前に、この山田の滝(山田神社)近くで密かに誓いを交わし、それ以降、維新のために薩長とともに奮闘したことを顕彰しているものです。(詳細は、後の項目で初回予定)

1)三十七士の顕彰記念碑などの大きさ

 この石碑の大きさついて、ご覧頂く前に、右側1番目の写真を参照願います。これから写真中央上部に写っている三十七士の顕彰記念碑と、その土台石みたいになっている大きな石の概要説明をします。

 この大きな石は、元々この付近にあったものでしょうから紹介の必要はないのかもしれません。でも、「木を見て森を見ず、森を見て木を見ず」の言葉ではないですが、本題の顕彰記念碑だけなく周囲の風景も入れて良く見ますと、この自然石の果たしている役割も大きいと思いますので、あえて今回紹介しています。

 次に下表を見て頂けないでないでしょうか。
(注意:下表で上段はcm表示、下段はm表示である。主に山田神社の地面から上側部分を計測できる範囲内を巻尺で測った。地面より下側、山田川付近は目測とした)

明治維新三十七士の顕彰記念碑の大きさ
 石碑本体  高さ:300cm  横幅:96cm  厚さ:24cm
 土台の石  高さ:4m(神社の地面より上部分)  横幅:7m(神社側から見た横幅)  胴回り:25m(目測)

 大きさは上表の通りですが、私は、この顕彰記念碑を山田の滝山田の滝、山田神社周辺の石碑の調査ごとに見ましたので、その回数も入れれば既に50回位は見たと思います。上表の数値でもお分かりの通り、けっこう大きい石碑なのに遠近どちらか見ても実に「スマートでスタイルが良く、センスがあるなあ」との印象を持っています。

 そのように見える要因は、この顕彰記念碑の造りだけではなく、土台石みたいになっている大きな石や周囲の風景とマッチしているからだとも思っています。この大きい石は、上からざっと見た感じだけでも車数台入る車庫くらいあります。実際は、下を流れる山田川近くにも石の下部はありますので、車庫より高さは高いと思われます。

 この顕彰記念碑の建立当初は、どのように見えていたか知る由もありませんが、100年以上経過する中で雨水や風雪も重なり、さらには岩苔や草なども生え、石碑も土台石もまるで同じ石で造られたように、お互いに馴染んだ風合いになっています。このことが周囲の風景と相まって、顕彰記念碑をより一層素晴らしく見せているのではないかと私は思っています。

 大村市内には、例えば道路竣工の記念碑なども沢山見ますが、このような周囲の風景に合っている石碑は、あまりないような気がします。ただ、至らぬ心配かもしれませんが、この顕彰記念碑は、土台部分がモルタルで留めてあるだけですから大地震の時などに倒れる可能性もあるかもしれません。

三十七士の顕彰記念碑の碑文内容
 この項目では、顕彰記念碑(両面)に彫られている碑文内容を出来るだけ詳しく書いていきたいと思っています。まず、この文字を揮毫きごう=毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。(大辞泉より)>した3名(表面2名、裏面1名)の略歴(注意:役職名などは全て生前のものである)を紹介します。

 あと、
あらかじめ書いておきますが、3名の内1名、黒板氏だけ詳細に書いています。これには訳があり、後で理由を書いています。ただし、私は、当時の記念碑建立の主宰者や任務分担などの史料を知らないので、顕彰記念碑だけを見ての判断=個人的な推測にしかなりませんので、あくまでも、ご参考程度にご覧願います。

 後の項目で全文は紹介しますが、碑文内容から判断すれば、自ら裏面に書き、さらに内容も具体的で詳細ですから、これらが出来るのは、当時の顕彰記念碑建立に向けての発案者(主宰者)、あるいは幹事役みたいな人がしたのではと思えるからです。私は、そのことが出来たのは、黒板氏ではないだろうかと考えています。当然、あとの2名も賛同し揮毫だけでなく、もしかしたら伯爵とか子爵とか呼ばれた方々ですから、建立費用の出資もされたのかもしれません。

<(大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑、揮毫3名の略歴

1,表面上部は大村純雄(おおむら すみお) =佐土原藩主の次男、大村家への婿養子、日向出身、伯爵。
2,表面下部は渡辺昇(わたなべ のぼり)=大村藩藩士、貴族院議員、大阪府知事、大村出身、子爵。         

3,裏面は、黒板勝美(くろいた かつみ)=東京帝国大学教授、下波佐見村出身。
 主な経歴:下波佐見村(現・波佐見町)出身。(下波佐見村は江戸時代まで大村領だったため大村との結びつきが強かったと思われる)明治7年(1874年)9月3日生まれで 昭和21年(1946年)12月21日)に死去。黒板氏は、旧・大村藩の士族の長男として生まれた。旧制・大村中学校(現・長崎県立大村高等学校)、旧制第五高等学校(熊本大学)、明治29年(1896年)に帝国大学文科大学国史学科を卒業。東京帝国大学名誉教授。文学博士。日本の歴史学者で、日本古代史、日本古文書学。『新訂増補国史大系』66巻の刊行を企画、実現したことでも有名である。ちなみに、この記念碑の揮毫は、東京帝国大学教授になって1年後のことと思われる。

(イ)記念碑表面の文字について
 この項目から顕彰記念碑に彫ってある碑文の表裏両面を紹介していきます。石碑ですから、彫る技術や見やすさの関係から複雑な漢字は、省略形となっている場合もあります。しかし、このホームページ上では写真以外にパソコン入力文字では、省略文字を表示できないのもあります。また、見やすいように、文字間に空白(スペース)を入れている場合もありますので、それらの分は、あらかじめご了承願います。

 この文字の件について、実は表面は達筆過ぎて分かりにくいものです。それで実物を見ても判断できない部分もありました。また、苔や汚れで見えにくい文字、特に「伯爵大村純雄」などは、大村市文化振興課の今村氏からアドバイスして頂きました。

表碑文の活字化
三十七士顕彰記念碑(表面写真)

 右側の表面写真と、その碑文を活字化した画像を参照願います。これだけでも顕彰記念碑の表面の碑文に何が書いてあるか、お分かり頂けるかと思っています。この画像文字を、さらに横書きにし次の<>内の太文字に直しています。( )内は上野の補足です。

< (表面の上部)壱縄 伯爵大村純雄  (表面の下部)慶応年間大村藩卅七士の薩長二藩と共に王事に斃(たお)れんことを誓ひし処 從二位勲一等子爵昇 書 >

表面碑文の現代語訳
 次に上記内容を現代語訳すると、次の「」内の通りと思われます。あくまでも素人の解釈ですから、ご参考程度にご覧願います。( )内は上野の補足です。

 「 一縄(いちじょう、隠語で下段の裏面説明文章を参照) 伯爵大村純雄(の書である) 慶応年間(1865年から1868年まで)大村藩三十七士が薩摩・長州の二藩とともに王事(この場合、明治維新のこと)を達成することを誓った所(この場所は山田の滝・山田神社周辺を指す)である。從二位勲一等子爵 (渡辺)昇の書である。 」

・「一縄」の語源について
  表面上部に「壱縄
(いちじょう)の省略形の文字が彫られています。「壱」は漢数字の「一」と同じですから、以降これについて分かりやすいように「一縄」と表記していきます。私は、当初この「一縄」について、裏面の碑文にある通り、明治維新の志士だけで通用する隠語<特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。(大辞泉より)>と思っていました。ホームページに、この二文字がないかどうか調べていたところ、国語辞典の大辞泉や「くろご式 慣用句辞典」にヒットしました。これらの辞典によれば、次のことが分かりました。

隠語の「一縄」の語源は、中国の故事からだった
  「一縄」の語源は、中国の「文中子」事君や「後漢書−徐チ伝」などからだと推測されます。まずは、次の(1)、(2)の言葉や意味を参照願います。
(1)大廈(たいか)の顛(たお)れんとするは一木(いちぼく)の支(ささ)うる所にあらず
  意味:大きい建物が倒れかけているのを、1本の木で支えることはできない。大勢(たいせい)がすでに傾きかけているときには、とうてい一人の力では支えることができないということ。

(2) 大樹将顛、非一縄所維、何為栖栖不遑寧処(たいじゅのまさにたおれんとするはいちじょうのつなぐところにあらず)<後漢書−徐チ伝より>
  意味: 倒れようとする大木を僅か一本の縄で支えることはできない。国家が転覆する時、一人の力ではどうにもならないことの喩え。

 以上の辞典や類語の解釈の中に、「一縄」の文字も出てきますし、また、黒板勝美博士が記念碑の裏面に書かれた意味とも一致しています。 黒板先生が書かれた通り、この言葉は当時の隠語だったのかもしれませんが、元々の出所は上記のように中国の故事からと思います。 そのようなことから、本来ならば記念碑の裏面には、(概要)「この一縄は中国の故事にちなんで当時の隠語にして勤皇諸藩の連合により幕府を倒す意味である」と書くべきだったのではと、私は思いました。

 なお、ご参考までに隠語(業界用語など)として有名な警察言葉で例えば“がさ入れ”(家宅捜索のこと)などありますが、今回の「一縄」の場合、このような内部からの言葉と同じような成り立ちではなく、先に書いた通り元々は中国の言葉からだと私は推測しています。その意味からすれば、黒板先生の裏面説明文は、本来の意味を省略したものでしょう。

 ただ、記念碑などの石碑は厳しい文字数制限があることも、私は十二分に知っています。そのことからも、黒板先生の書かれた内容を批判するのは、酷だとも言えます。それに学生時代、出来の悪かった私が、東京帝国大学教授(文学博士)の黒板先生の書を批判することなど本末転倒のことかもしれません。 ただし、この「一縄」という言葉は、先生も間違いなく大村藩士内だけで通用する隠語ではなく、本来は中国の故事から付けられたものと良くご存じだったと思っています。

裏碑文の活字化
三十七士顕彰記念碑(裏面写真)

(ロ)記念碑裏面の文字について
 裏面も表面と同じく彫られている碑文は、漢字の省略形やカタカナ表記などに石碑はしてあります。ただ、裏面は、表面に比べて私のような素人でも読みやすい、分かりやすい文字ばかりです。私は、まず「さすが黒板博士の書だなあ」と感心しました。

 右側の記念碑裏面写真と、その碑文を活字化した画像を参照願います。活字化した画像でも、お分かり頂けるかと思っていますが、さらに横書きにし、次の<>内の太文字に直しています。( )内は上野の補足です。

< 
一縄とハ(は) 當時の隠語にして勤皇諸藩の連合二(に)より幕府を倒すの謂なり 實に(実に)我が三十七士血誓の精神とす。臺(台)山公以て藩是を定め、諸士に任じて疑ハ(は)ず 遂に維新の大業を賛す 此碑乃ちこの題ある所なり 明治三十九年八月 後進文学博士 黒板勝美 書 >

裏面碑文の現代語訳
 次に上記内容を現代語訳すると、次の「」内の通りと思われます。あくまでも素人の解釈ですから、ご参考程度にご覧願います。( )内は、上野の補足です。

 「 一縄(いちじょう)とは、当時の隠語(特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語)で「勤皇諸藩の連合により幕府を倒す」と言う意味で、ほんとに我が(大村藩士)三十七士の血誓の(血もって誓約した)精神である。台山公(大村藩主の大村純熈)によって藩是(藩の方針)を定め、藩士に任務遂行をさせ、遂に維新の大業(偉業)の力添えをした。(このことが)この記念碑すなわち(顕彰の)碑の建立目的である。明治三十九(1906)年八月 後進(三十七士の後輩である)文学博士・黒板勝美の書である。 」

 これから彫りの印象について、少し書きます。ただし、特別にノギスなどの計測器で彫りの深さを正確に測った訳ではないので、あくまでも見た感じだけです。表面・裏面とも碑文は見えやすいので分かるのですが、例えば大きな漢字は彫りが深く、平仮名、カタカナや漢字でも小さな文字は、逆に彫りがやや浅いように見えます。

 このような彫り方にすれば、碑文に強弱があり、メリハリが効いて生きいきしているかのようにも見えます。苔などの部分を除けば、1906年建立の顕彰記念碑と思えないくらい裏面の碑文は、明確に見えています。

活字化
顕彰記念碑の石工名(CG写真)

・石工名の碑文について
 この顕彰記念碑を製作された石工(石を細工する職人)の名前が、記念碑表面の左端下部に、彫ってあります。他の両面碑文(本文など)に比べたら1/4か1/5程度の小さな文字のため、やや見にくいです。それを右側写真(念のため見やすいように文字部分は、CG加工しているので白色に見えている)と、さらに活字化した文字画像を左側に並べていますので、参照願います。

 この部分の文字は、舊大村藩石工東京平川刻 と彫ってあります。この文字の意味と解釈などについて、私の推測も含めて次の箇条書きにしています。
 1,(きゅう)は、「旧」の旧漢字体である。
 2,最下部の文字は写真上では分かりにくいが、に見える。
 3,なぜ東京の文字があるのだろうか? 下記4,の「平川一族」で東京在住の関係者か?
 4,平川とは石工で名高い佐賀の「平川一族」と関係があるのだろうか?

石工名関係部分の文字解釈
 この舊大村藩石工東京平川刻を私の推測交えて解釈すると、「旧大村藩(関係)の石工で東京の平川が彫った」と思われます。あと、石工の前に旧大村藩とあるのは、以前「大村藩御用達の石工」、あるいは大村家と親戚など、何らかの関係があったから付いているのではないでしょうか。

 顕彰記念碑の両面に、当時の大村関係者のそうそうたる人物が揮毫や建立に関係しておられるので、何かの記録や資料が残っている可能性もあるかと思います。そのような記録があれば、この石工に発注した関係も、もしかしたら判明するかもしれません。そうなれば、石工のフルネームや、(東京なのか大村周辺なのかも含めて)どこで、どこの石材を使って、この記念碑は造られたのかも分かる可能性もあるでしょう。

3)顕彰記念碑の評価について
 この記念碑の建立当時の資料を私は知らないので勝手な想像ながら考えてみました。しかも、石材の素人判断で触った感じだけですが、この石(元々は自然石を平らに切り出し、削り、さらに碑文の彫られた両面を加工したと思われる)は、大村産出の石材でないような気がします。もしも、この私の推測が正しいならば、旧大村藩と関係ある石工に頼んで東京で入手できる、いい材質の石で彫ったのではないでしょうか。

 そして、記念碑完成後、現在地である山田神社近くに運んだ可能性も考えられます。このような発注方法は、石碑建立を頼んだ人あるいは揮毫者で東京在住者が多ければ可能性はあったかもしれません。しかし、建立費用や輸送費は、高価で運ぶのも大変だったろうと推測しています。

三十七士顕彰記念碑表面写真)
三十七士顕彰記念碑裏面写真)

 石碑材質の評価について、この石の材質自体、「悪い」、「良い」、「素晴らしい」の3段階評価なら最高点の「素晴らしい」と思われます。大村産出の石に、こんないい材質が果たしてあるのでしょうか?

  逆に大村藩三十七士にちなんで、もしかしたら大村産出の石材を使った可能性もあります。いずれにしても、この彫り方、両面の造りそのもの、表面加工された両面を手で触った感触が、今でもツルツルしていて気持ちが良いほどの出来栄えです。

 その他として大村純雄、渡辺昇の四角の印章も彫られていて、この種の模様を彫るのも文字以上に難しいような気もしました。そのようなことも含め顕彰記念碑全体の石工技術は、この当時、大村市内における最高水準の石碑ではないでしょうか。

まとめ
 既に、これまでの各項目で(大村藩)明治維新三十七士の顕彰記念碑について、私の推測や想像も含めて詳細に書いてきましたので、さらにこのまとめでも触れると重複したことばかりになるでしょう。その点は、ご容赦いただきつつも、私の思う顕彰記念碑についての特徴点などを集約すると下記のようなまとめになると思います。

(1)明治維新に活躍した
大村藩士三十七士を顕彰していること。
(2)揮毫、建立者などは当時の大村関係のそうそうたる人物が関与していること。
(3)記念碑全体、まわりの渓谷風景にも調和し、スマートであること。
(4)石材の質、加工、碑文、印章やデザイン含めて当時の最高水準と思われること。
(5)今後、この記念碑の存在が広まれば一つの観光資源にもなりうる可能性があること。
などです。

 私は、明治維新時、大村の先人達(旧・大村藩士)が生死をかけて日本の歴史を動かしてきたことは少しだけですが知っていました。現代、大村に住む人達も、このような諸先輩方の努力があったからこそ、今日存在し生きているのでしょう。

  このような歴史の転換点になった当時の歴史探索含めて、この記念碑が少しでも大村市内や長崎県内の話題になればなあと思って今回ホームページ掲載しました。 この顕彰記念碑のある所までは安全に散歩みたいにしてウォーキングできます。
機会あれば一度見学されてみては、いかがでしょうか。このページ閲覧して頂き、ありがとうございました。(ページ完了)

・関係ページ:山田の滝、山田神社周辺の石碑 、 
山田の滝

(初回掲
載日:2012年2月3日、第二次掲載日:2012年2月6日、第三次掲載日:2012年2月11日、第四次掲載日:2012年2月16日、第五次掲載日:2012年2月17日、第六次掲載日:2012年2月19日、第七次掲載日:2012年2月21日、第八次掲載日:2012年2月22日、第九次掲載日:2012年2月23日、第十次掲載日:2019年3月31日)

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