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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 鳥甲摩利支天宮の石碑
 概要紹介
掲載中
 1)鳥甲摩利支天宮の石碑
掲載中
 2)日露戦役解願記念碑
掲載中
 3)奉献碑
掲載中
 まとめ
掲載中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中

概要紹介
 このページは、タイトル(見出し)通り、長崎県大村市内にある石碑や碑文を紹介するシリーズの一つです。あと、今回に関しては、先に掲載中の鳥甲摩利支天宮の境内にある3基の石碑を中心に作成しています。ただし、かなりの部分で先のリンクページ内容と重複しています。その点、ご了承願います。

鳥甲岳(769m、大村市黒木町より遠望)
鳥甲摩利支天宮の石碑(左側) 、日露戦争願解記念碑(右端側) 、奉献碑(右側後方)

 これから、鳥甲摩利支天宮の3基の石碑類をご紹介していきます。ここは鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮(紹介ページ)に書いています通り、鳥甲岳の山頂(769m)から下った尾根伝いの所(標高約750m、奥行き18m、横幅7mの平地)にあります。具体的には、後で個別項目で書きますが、まずは名称だけ列記します。それは、1)鳥甲摩利支天宮の石碑2)日露戦争解願記念碑3)奉献碑です。

3つの石碑の共通点
 この1))、3)の石碑の共通点が、いくつかあります。それを箇条書きでまとめますと、次の通りです。
・3つの石碑とも場所が一か所(鳥甲摩利支天宮境内)にまとまってあること。
・いずれも(大村)郷村記に記述がなく、近代に建立されていること。
・建立者は、いずれも萱瀬村(当時の萱瀬村)の方であること。
などが挙げられると思います。つまり、地元・萱瀬の方が、近代に全て建立されたと言えるでしょう。摩利支天宮は標高約750mにありますが、この高い所をものともせず地元・萱瀬地区南川内の方を中心に長年祀られてきたことは、大村市内で標高の高い宗教施設例としてはあまり例がないと思われます。

1)鳥甲摩利支天宮の石碑
 この鳥甲摩利支天宮の石碑について、まずは右側上から2番目の写真を参照願います。これから、この石碑の説明を致します。この自然石の大きさは、下表の通りです。
なお、この石碑に彫られている文字は大小ありますが、全て縦書きの漢字です。

鳥甲摩利支天宮の石碑の大きさ
 高さ関係  土台部分の高さ:約60cm  石碑部分の高さ:約90cm  全体の高さ:約150cm
 横幅関係  土台の横幅:約110cm  石碑部分のみの横幅:約70cm  石碑部分の胴回り:約160cm
鳥甲摩利支天宮の石碑(中央部に鳥甲摩利支天宮の文字あり)

碑文の解釈などについて
 この石碑の表面には、鳥甲摩利支天宮、大きな文字で彫ってあります。石碑裏面の中央部には、「昭和御大典記念建之」の文字が判読できました。あと、その左下側に建立者名として「今里  山口  横山 」などの文字が確認できます。

 なお、1名を除きフルネームでも解読できましたが、このページには掲載しないことにしました。私が、この建立者名について地元の中岳町南川内の方々にお聞きしたところ3名とも当時の萱瀬村(現在の大村市萱瀬地区)関係者と言うことでした。

 「昭和御大典記念建之」の文字の解釈ですが、これは、昭和天皇即位記念の建立です。この即位の礼は、1928年(昭和3年)11月10日に挙行されましたので、この頃に、この石碑は建立されたと思われます。あと、碑文石そのものについても考えてみました。この石碑の重さですが、上表の大きさから想像しても、何人分もあると思われます。

 このような重い石をわざわざ山里から標高約750mまで運びあげたとは思えず、たぶんに尾根近くにあった自然石を利用したものと推測されます。そして、石工が金づちやタガネなどを持参して、現地で彫ったものではないかと想像しました。この表面の大きな文字は、彫りも深く見やすい文字で、私のような素人目で見ても自然石に良く彫られたもので技術の高さも分かるものです。

 あと、本宮がここからわずか数十メートルの所にあるのに、なぜまた、ここに鳥甲摩利支天宮の石碑があるかと言う疑問点です。この件については、大きな岩がひさしみたいになった下側に本宮はあるのですが、お参りするにも一人がやっという狭さです。

 ですから、私の推測ながら当時の南川内郷や萱瀬村の方々などが大勢で参詣登山された時に、広くて安全な境内の場所で一緒に礼拝される場合に必要だったのではとも考えました。それに、ここは尾根にしては真っ平らで広い所(奥行き18m、横幅7mの平地)なので、大勢でお参りできるだけでなく休憩などにも適した場所と思えました。

2)日露戦役解願記念碑
 この日露戦役解願記念碑(にちろせんえき がんほどき きねんひ)は、右側の上から1番目写真をご覧頂きますと分かりますが、右側の端にある、将棋の駒にも似ている石碑です。拡大写真は、上から3番目(下部右側にある)にあります。その形からして、本体も土台も四角型に加工してあり、これは石塔屋が仕事場で造られた物を、ここまで運び上げられたと考えられます。加工した石の大きさは、下表の通りです。
なお、この石碑に彫られている文字は大小ありますが、全て縦書きの漢字です。

日露戦役解願記念碑の大きさ
 高さ関係  土台部分の高さ:約25cm  石碑部分の高さ:約58cm  全体の高さ:約83cm
 横幅関係  土台の横幅:約40cm  石碑部分のみの横幅:約30cm  石碑部分の胴回り:約160cm
日露戦役解願記念碑(鳥甲摩利支天宮の境内)

記念碑の解釈などについて
 
この記念碑の文字ですが、次の「」内文字「明治卅七八年  日露戦役  解願記念 明治卅九年十一月五日建  荒瀬郷有志者」が彫ってあります。まずは、一文節ごとに区切って解説していきます。最初の”明治卅七八年”は、明治37〜38(1904〜1905) 年のことです。”日露戦役”は、日露戦争と同じ意味で、現在は後者の呼び方ですが、当時はこのような言い方だったのでしょう。

 一番大きな文字の”解願記念“の読み方について、国語辞典の大辞泉を参照すれば「がんほどき」と読めます。意味は同辞典には「神仏に、祈願がかなった礼参りをすること。かえりもうし。還願(かんがん)」と書いてあります。”明治卅九年十一月五日建”は、明治39 (1906) 年11月5日に建立したと言う意味です。

  ”荒瀬郷有志者”とは、当時の(長崎県東彼杵郡萱瀬村)荒瀬郷の有志一同と同意語です。荒瀬郷は、現在の大村市萱瀬地区の荒瀬町と同じと思われます。以上の区切った説明をまとめて、さらに私の補足も含めて分かりやすいように
紹介しますと、下記「」内の解釈文になると思われます。先の表現と重複している点は、ご容赦願います。

  「(萱瀬村)荒瀬郷の有志一同が、明治37〜38 (1904〜1905) 年に戦われた日露戦争時に“戦の神様“である鳥甲摩利支天宮に必勝の願を掛けた。結果、勝利に終わったので、その願いを解き、感謝の意を込めて明治39 (1906) 年11月5日、この解願記念碑(がんほどき きねんひ)を建立した」

  あと、この解願記念碑を何故、当時の方々が建立されたのかと言いますと、記録文章などで確認した訳ではないので、これからは私の推測です。たぶんに(萱瀬村)荒瀬郷出身の何名かが、日露戦争に出征(戦争に行くこと)されたからだと思います。つまり、出征兵士の留守家族、地域や親族の方々が、「どうか戦争に勝って、荒瀬郷の出征兵士が全員無事に戻ってきますように」との願いを鳥甲摩利支天宮へ戦争期間中にされたのだと想像しています。

 そして、その願いが達成されたので、戦争後に「鳥甲摩利支天宮様、おかげで必勝祈願が叶い、ありがとうさまでした」との感謝の気持ち込めて、この日露戦役解願記念碑を建立されたのだと推測しています。なお、別角度で考えれば、「出征中の我が子・兄弟・親族が、何とか役目果たし無事に帰郷して欲しい」と言う願いでもあり、心優しい荒瀬郷の方々の思いも感じられるものです。

3)奉献碑
 この奉献碑(ほうけんひは、(レイアウトの関係上)大きさから、下表の通り、先に書きます。

奉献碑の大きさ
高さ関係  石碑(中央部)の高さ:約43cm  全体の高さ:約70cm  -
胴回り  横幅:(未計測)  石碑部分の胴回り:約62cm  下部の胴回り:約62cm
奉献碑(鳥甲摩利支天宮の境内)

 この奉献碑(ほうけんひ)は、まずは右側の上から1番目写真をご参照絵願います。右側の後方にある上部の傘は丸く、胴体は円筒形状をしたものです。その拡大写真は、上から4番目(右側にある写真)です。次に意味ですが、奉献碑奉献とは、国語辞典の大辞泉によれば「社寺、貴人などに、物をたてまつること」と書いてあります。私が地元・福重地区で見た範囲内ですが、このような奉献碑は、形状として今回と同じような物もあれば、四角の門柱みたいなものもあります。

  なぜ奉献碑が建立されているかと言う点ですが、何か神社仏閣で例えば、お堂(建物)や大きな石碑を建立した場合、その建立者もしくは費用を負担した人(出資者)などが、小さな石碑(たいてい建立年号と氏名が彫られたもの)が、その脇にあります。
このような建立者や建立年号の入った石碑は、郷土史研究上、お堂や大きな石碑よりも貴重な情報が入っている場合もあると言えます。

  この奉献碑に彫られた文字は「奉献、開田左衛門」とあります。この意味は、「開田左衛門(ひらきだ さえもん)が、奉献(奉納)した」」と解釈できると思います。建立者と関係あるかどうか全く不明ながら“開田”と言う字(あざ)が、大村市中岳町にあります。人名について詳細な調査ができていないので私の想像にしかなりませんが、この建立者は、たぶん旧・萱瀬村の方と思えます。

 あと、この奉献碑の前には先に紹介しました二つの石碑=1)鳥甲摩利支天宮の石碑2)日露戦役解願記念碑があります。当初は、奉献碑を建立された方が、左右どちらかを石碑を建立された時に出資者になられたのだと思いました。特に、場所的に2)日露戦役解願記念碑の方と考えました。ただし、どちらの石碑にも建立者の名前が既に彫られているので全く別のものを建立され、たまたま場所がないので、この平地に置かれたことも否定できません。。いずれにしても、これ以上は分かりませんでした。

まとめ

 今回このページには、鳥甲摩利支天宮境内にある石碑3基<1)鳥甲摩利支天宮の石碑2)日露戦役解願記念碑3)奉献碑>を紹介してきました。一口に「標高約750mにある石碑」と言っても、そこに至る経過は、なかなか大変な作業だったと推測されます。既に書きました通り、1)鳥甲摩利支天宮の石碑は尾根周辺にあった自然石から現地で文字を彫り込み、2)日露戦役解願記念碑3)奉献碑は、石塔屋さんの仕事場で完了したものを山まで運んだものと思われます。

鳥甲岳(769m、大村市黒木町より遠望)

 当時、例えばヘリコプターでの空輸とかできるはずもなく、これら二つの石碑は登山道の途中までは馬で運搬し、その後は人が担ぎ上げたものと想像しました。仮に石碑をパートごとにバラバラにして大勢で登山したとしても、本当に重労働です。このような状況を推測すると、鳥甲摩利支天宮が、”戦・武士・勝利の神様”、”地域の守り神様”の意味合いが、いかに強いものであったかも判ります。

 また、私は、山にある重い石碑類を見るたびに「先人は信仰心だけでなく気力も体力も、現代人が及びもつかない強さを持っておられたのではないだろうか」とも思いました。鳥甲岳は、大村市内でも例年、登山客の多い人気の山です。頂上付近の快適な尾根道を歩かれる機会に、この真っ平らな鳥甲摩利支天宮の境内に立ち寄れられたら
今回ご紹介した石碑類もご覧頂ければなあと思っています。このページ最後まで閲覧して頂き、ありがとうございました。(ページ完了)

・関係ページ:
鳥甲岳と鳥甲摩利支天宮(紹介ページ)

(初回掲
載日:2011年10月29日、第二次掲載日:2011年10月30日、第三次掲載日:2011年10月31日、第四次掲載日:2011年11月1日、第五次掲載日:2011年11月2日、第六次掲載日:2017年1月19日)

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